セクシャリティの観点から見る市場経済 現代社会で性的弱者であることの残酷さ ミシェル・ウェルベック『闘争領域の拡大』
28歳童貞、醜男。女の子をおとせる見込みなし。現代社会で性的弱者であることの現実を仮借なく描くフランス現代文学を代表する作家ミシェル・ウェルベックの最初の小説作品レビュー。
ミシェル・ウェルベック『闘争領域の拡大』 中村佳子訳 河出書房新社 2018年
本書は1994年に発表されたミシェル・ウェルベック初の小説作品の邦訳が文庫化されたものであります。ウェルベックはフランスいちセンセーショナルな作家という評価をほしいままにしている何かとお騒がせものの作家であります。本作品はそんなウェルベックの最初の小説作品です。その分、その筆致は抑えられているかなという印象がありますが、とはいえウェルベックの作品の本質はその文筆活動最初の作品である«H.P.LOVECRAFT Contre le monde, contre la vie»(邦題:『H・P・ラヴクラフト 世界と人生に抗って』)で既に如実に表現されている通り不変のものであります。ウェルベック節は本作品においても健在です。例えば、冒頭9ページで主人公は、あまり綺麗ではない同僚の女社員二人組(デブコンビと形容されます)の、ある女社員がミニスカートで出社したのを讃える会話を聞いて、「くだらない、滓の極み、フェミニズムの成れの果て」という言葉を吐き捨てるのです。
「闘争領域の拡大」(フランス語ではExtension du domaine de la lutteという大仰な字面となります)とは、資本(自由)主義社会の中で繰り広げられる自らの市場価値をめぐる戦いの領域(範囲)の拡大のことと言えるでしょう。それは、労働力としての価値をめぐる古典的な闘争だけではなく、様々な領域において繰り広げられる自己の優位をめぐる無数の戦いのことです。ウェルベックの作品では特に性的なものに重点がおかれている訳ですが、この作品の中核となるのも恋愛市場において全く敗北者である人物の物語であります。
主人公である「僕」は、恋人に捨てられはしましたが完全な敗者というわけではなく、経済的にも不自由をしているわけではない曖昧な存在です。一方で、もう一人の主人公とも言えるティスランは、主人公と同じ会社に勤めており、経済的には全くの敗者でもないのですが、ブ男でオタク、ファッションセンスも壊滅的で学歴もないという恋愛市場おける完全な敗者です。主人公は生きている世界に嫌気がさし、倦怠感を持ちつつもなんとかやっているという人物ですが、彼の正常と不能の最後のラインをティスランという存在が超えさせてしまうのです。
ウェルベックの作品における性の概念というのは、流行や話題性を意識した商業的な戦略の一つでもあるのですが、それは明確に現代社会を描くためのものでもあります。つまり、神のような宗教的なものが人間の価値を保証しなくなった現代社会において人間は金銭的・性的な評価軸で図られる存在になったのだから、当然そうしたことも文学で取り扱われるような立派な主題となるのです。筆者の個人的な感覚からでも、というか普通に生きていれば、私たちは明確に経済的能力も加味した性的な魅力というもので計られていると感じます。現代においてある程度教養のある人間ならば、現象学的な主観的な世界の理解をしていると思います。その世界においては主観的・感情的な快、不快が物事を評価する尺度だと言えます。ですから、全能的な立場にある、あけすけに言えば気持ちのいいセックスが自由にできるということは、人生が良いものかどうかを判断する上で、当然問題となる基準ではないでしょうか(私は人生で何かを成し遂げるといったような偽善的な人生観を全く信用していません。人生は基本的な感情の部分で楽しいか楽しくないかだと思います)。
以上はかなり踏み込んだ意見ですが、一般に生活している中でも性的に魅力的であることが、尋常でないほどに重要視されていることは事実でしょう。これは現代であるからこそのものです。広告やテレビに美しいモデルが登場することからもわかるように、社会では見目麗しい肉体的にも端正な人物が常に称揚されるのです。そして、彼らに権力やお金が集まることは珍しいことではありません。社会が描く美のイメージ(基準)が実態と大きく乖離していることは今に始まったことではありませんが...。
核家族化などによって生活の面においても他者から隔離された現代特有の希薄な人間関係を生き、さらには技術の進歩のおかげで自らが望む情報を際限なく手に入れ続け、自我を肥大化させた私たちは、増え続ける寂しさと承認欲求を満たそうと残酷な自我の戦いを繰り広げるのです。それはお金を求める戦いであり、権力を求める戦いであり、そしてセックスを求めるそれであるのです。会社や学校でも、他人より優れたところを異性に見せつけようと必死な人間がよく居るでしょう。
ウェルベックは以上のような状況を端的に次のように表現しています。
何割かの人間は毎日セックスをする。何割かの人間は人生で五、六度セックスする。そして一度もセックスしない人間がいる。何割かの人間は何十人もの女性とセックスする。何割かの人間は誰ともセックスしない。これがいわゆる「市場の法則」である。
ウェルベックが行うこうした主張に違和感を感じる方もおられるかもしれませんが、実際私たちが享受するアメリカ型の社会は、事実こうした価値観を私たちに押し付けるものであります。それは、現在世界で流行するネットフリックスのドラマを見ればすぐに理解することができるでしょう。登場人物たちは気軽に恋愛に突入し、あっさりセックスをします(今までは嫌悪されるものであった同性愛的関係が気安く持ち込まれることも珍しくありません)。主人公が勤めるオフィスでは、嫌味な上司が権力をこれ見よがしに見せつけ、同僚たちはいち早く出世するために他の同僚を蹴落とします。ところで、こうしたクリシェとも言える筋書きはネットフリックスによる綿密な分析の結果、大衆に売れると機械的に判断されたものなのです。村上春樹が欧米で売れているように、こうした軽薄なセクシュアリティーとは事実、アメリカ的、つまりは現代社会特有のものなのです。
主人公の同僚ラファエル・ティスランは、見事な現代の敗北者です。28歳になっても童貞で、体型は崩れ、頭は禿げ上がり、ファッションセンスも壊滅的。女の子をつかまえられるはずがありません。それでも、なんどもアプローチするのですが、結果はいつも同じ。そんなティスランに主人公の「僕」は、なぜお金で女を買わないのかと投げかけます。ティスランはこう答えるのです。
「でも同じことをただでやれる男もいるんだぜ。しかもそっちには愛までついてる。僕はそっちでがんばりたいよ。今は、もう少しがんばってみたいんだ。」
性的なものを抜きにしても肉体的接触とは、これほどセクシャリティーが多様化した現代にあっても愛を感じさせてくれるものです。果たして、異性との会話のような単純な接触の機会さえ奪われてしまったら、その寂しさは想像を絶するものになるでしょう。「愛までついている」という言葉に、彼の訴えの痛切さがおしはかられます(意外なことに、愛の希求はウェルベク作品の大きなテーマです)。
ティスランは最後まで「闘争」を続けます。しかし、その不幸な結末が主人公を、もはや後戻りできないほどの状態に追いやってしまうのです。冷酷とも言える現代社会の解剖と、淡々と綴られるそれに対する果てしない怨恨と絶望ーー時折、「あなた」と読者への呼びかけがなされますが、これはまさしく、読者である私たちの物語なのですーーそれが本書の最大の魅力であります。最後の最後に捨て台詞のようになってはしまいましたが、ウェルベックはまぎれもなく21世紀を象徴する次世代の作家と明言できます。
ところで、本作にはバルトの「近代的であるまいとすることが、突然どうでもよくなってしまった」という言葉が挿入されています。ウェルベックの文学が実は過去の文学を参照しているというのは指摘するまでもないことですが、この言葉の選択はまさに彼の文学を象徴するものです。つまり、バルトはその記号学的な分析からもわかる通り、現代社会の暴力性を常々告発していた作家でありますが、引用は当の本人がその営為に対する倦怠感を表明している言葉です。引用はウェルベックがバルトの延長線上にあることを示すと同時に、著作で表現する現代社会への倦怠感と見事に共鳴しているのです。
彼の名声を不動のものにした『素粒子』などと比べると読み物としての面白さという観点からすれば、少し劣りますがウェルベックの文学の精髄を理解するための作品として、オススメの一品であります。