からっぽの生産性。
10月で仕事をやめて、半年。
近所の手伝いや投資などをして生きている。
仕事をやめたのは生産主義に心底嫌気がさしたからであり、魂が腐りそうになったから。
…
生産性という幻想から目を覚ましたのだ。
生産性の欺瞞。
仕事をやめれないのはなぜ?
お金が欲しいのはなぜ?
人の目が気になるのはなぜ?
時間がないのはなぜ?
生産性をあげなければいけないのはなぜ?
自信がないと思い込まされ、
価値がないと思い込まされ、
お金がないと思い込まされ、
時間がないと思い込まされ、
能力がないと思い込まされ、
充たされない不安をすり込み、
消費へと繋げる。
生産主義の本質は、
不足主義だった。
不足主義で天下を取りたければ、
充実を見せつければいい。
あると見せつければ、
ないと思い込まされている人から
注目を集めることができる。
しかし、
本当にあるなら、
わざわざ見せなくいいじゃないか?
すると、
有ると見せた方が、
合理的だとか、計画的だとか、
そんなことを言って誤魔化される。
それこそ無いと言ってるようなものじゃないか。
とツッコミたくなる。
どうやら、
生産性は何も生み出していなかった。
足りないと思い込ませ、
あたかも何かを生み出しているように
見せかけているだけだった。
中身はからっぽ。
ゴミが増えるわけだ。
***
営業や広告業界に勤めていた頃は、
誰かを操ることを考えていた。
この商品はお客を幸せにする。
このサービスはお客を幸せにする。
みんな口を揃えていうのだ。
解釈は人それぞれだと理解していた。
が、
私は嫌でたまらなかった。
この商品は、
サービスは、
人を不幸にするものではないか?
いや、私がそうしているのではないか?
そんな考えが頭から離れなかった。
どうでもいいこと、
気にしなくていいことを、
さも重大なことのように伝える。
そんな術を私は磨いてきたのだ。
人を操作する上でこんな考えがある。
gain-ゲイン(得る)
pain-ペイン(痛み)
人は得を得るより、損を避ける方を選ぶ傾向がある。
つまり、
物を売りたければ、
ペインを刺激するのが基本なのだ。
私がやってきたことは、
ナイフで人を傷つけ、
それを治す薬を売っていたにすぎない。
広告や営業に愛はありません。
キレイごとを並べようが、
人を操作してナンボ。
これがクリエイティブだって?
笑わせるよ。
私がやってきたことは、
不幸と不安と不足を魅せていただけ。
たくさんのアートを真っ黒に塗り潰していただけにすぎない。
本当に生産するなら、
命を創造してみろ。
本当に創造するなら、
愛を生産してみろ。
そのとき痛むのは自分だけのはずだ。
生みの痛みを避けた者が、
生産性なんて軽々しく口に出してほしくない。
***
特に疑問に感じる充実した人生という言葉。
人生が充たされるもクソもあるか。
その言葉そのものが人生とは不足していると言ってるようなものじゃないか。
足りない人生って何だ?
生きているとあらゆるところで、
足りないことを指摘してくる。
なぜって?
生産性をあげたいからだよ。
生産性をあげたいから、
足りないことを指摘するんだ。
いや、
こうなってしまっては、
どちらが先かわからない。
足りないから生産性を上げたいのか、
生産性を上げたいから足りないとするのか。
バカバカしい。
もう私は降りる。
こんなことを言ってると、生産主義の人から敵とみなされるかもしれない。
愛情が足りないとか、
人間性が足りないとか、
情熱が足りないとか、
頭が足りないとか、
視点が足りないとか、
認めよう。
以前の私はそれが怖かった。
しかし、
もうダメ人間として評価を下されようが構いやしない。
合わせる気はなくなった。
よく考えてみてほしい。
どうやって無いことを証明するのだ。
もっと根本的な問いを立てるなら、
なぜ、
あると良くて、ないとダメなのか。
人生とは、
足りないものを得ていくもの。
人生とは、
多くのものを得ていくこと。
それが素晴らしいものだと思い込んでいた。
人生さえも生産性で測るというのか…
狂ってるよ。
問おう。
人は何も持たずして生まれてきたのか?
私の答えは逆だ。
持っていたから生まれたきたのだ。