中学受験と新自由主義 ~ 解呪の書(1) ~


 本記事を書くにあたって、大事なことを前置きしておきたい。自分の人生に大きな大きな影響を与えた中学受験について書くわけだが、それについて総合的な意味で否定も肯定もしない。でも、私という1個体のサンプルに対して与えた正の影響、負の影響を書いてみたいと思う。とはいえ、自分自身は、その過去を通過したからこその今があると思っているし、その過去(そして地続きとなっている今)を導いてくれた家族や周りの方々に心の底から感謝している。一部、否定したい部分もあるのだが、それはその思想だけを否定する。その思想を持つ人を全面的に否定したいわけではないということを書いておきたい。


 日本の冬は、受験シーズンでもある。今日は自分の受験の話をしようと思う。大学受験の話ではない。高校受験でもない。地元埼玉の公立高校受験は3月であり春のイメージすらある。大学院の入学にも試験はあるが、8月から9月にあるので違う。私の冬の受験の思い出。はじめての受験。2011年1月。中学受験の話だ。

 まずはじめに結果から書いておこう。私は中学受験に成功し、いわゆる「地元の中学校」ではない中学校に進学した。第一志望では無かったのだが、「受験に合格する」という経験は当然嬉しいものだった。
 なぜ中学受験することになったか?それは兄が中学受験したからということだと思う(前の記事で海外に留学したと書いた兄である)。私よりも4歳上の兄が中学受験に挑んだ。兄が受験した中学は、なんと一次試験が「くじ引き」だったのだ。今書いていても信じ難い。ほんとにタネも仕掛けもない(はず)くじ引きだったらしい。兄はそれになんと当たってしまったのだ。とはいえ二次試験は筆記試験がある。年明け1月か2月にある二次試験のために大手の進学塾に通うことになった。そしてそれに伴って塾に通うことになったのが弟の私。小学2年生の冬だった。もちろん入塾早々受験を決めたわけではない。最初は国語と算数だけ、小学校より少し進んだ内容を毎週土曜日に塾に通って勉強する日々が始まった。なんの疑問も抱かなかった。塾の授業が辛いということもなかった。今思えば、小学校低学年次向けの先生や教材、指導方針みたいなものがあって、2年生の私でも勉強を嫌いにならずにできる工夫がいろいろとあったのだろう。私の通塾習慣がついたころ、兄は二次試験に合格した。それが成功したということもあって、なおさら私の中学受験への道が後押しされたのではないかと思う。両親と塾の先生との間で「弟さんもぜひ」みたいな会話があったんではないかと想像できる。
 明確に私自身が中学受験に向かうことを意識し始めたのは小学3年生の二学期以降ではないかと思う。少し記憶が曖昧だが、そのころに塾のクラスが「中学受験用コース」とそうでないコース(受験用の授業はせずに、小学校の指導要領に併せた授業をするコース)に別れたからだと思う。「受験コース」と「進学コース」って呼んでた記憶がある。コース開設のタイミングだったか、中学受験をする児童を担ってきた先生が「受験コースは厳しい。周りの友達みたいに遊んでられない。やるなら早いうちに決めて勉強をはじめた方がいい。テレビやゲームの時間をきっちり決めて生活からしっかりしなさい。ご家族の協力も必要です。」みたいな話を、親子で出席する説明会みたいな場で話していた。正直、乗り気じゃなかった。週一だった通塾が月・水・金の週三になるし、とにかく拘束時間が増えるのが嫌だったような気がする。でもそういった説明会や個別の面談を経て、親と私とで話し合った。当時すでに「虫好き」が転じて、大学に進学して研究して、「昆虫博士になりたい」なんて夢を語る少年になっていたのだ。今思えば、小学3年生のころから、大学進学まで見据えた夢を語る少年がいたら、親としては近道を提示してあげたいだろうし、塾の先生だって勉強しといたほうがいいと言うだろう。そして身近に兄という成功体験があったせい(おかげ)で、受験コースへの強い勧めが来るのは必然だった。親との話し合いを経て、3年生の間は進学コースのまま、4年生に進級したタイミングで受験コースに入った。


   受験コースになった途端、授業の内容は小学校のそれとはガラリと変わる。説明が難しいが、例えば算数は、中学の数学を習ってXやYの方程式を習えば簡単な内容を、無理やり算数の知識だけで解こうとするような問題をやらされる。つるかめ算とかわけのわからない名前のついた解き方を習った。理科や社会は小学校で習う遥か先の内容を習い、6年生の受験のタイミングまでに3周くらいしたと思う。国語はあまり記憶にないが、読まされた物語文や説明文は、きっと小学生が読むそれより少しレベルが高かったのだろう。当時は英語は指導要領になく、受験科目にもなかったが、今はあるのだろうか?よくまあ、昼間はわざわざ小学校に行って、はるか昔に塾で習った内容を「復習」し、学校から帰って19:00から塾で「受験勉強」が始まるという、二重勉強生活をしたものだ。だんだんと勉強が嫌になった。宿題も多かったし、算数は特に苦手だった。単純な計算や、解き方や公式みたいなものが分かっていればいいって問題だけではなかった。覚えた公式や定理を組み合わせなきゃいけないものなんかがあったような気がする。だいたいそういうのは解けなかった。できないと、当然嫌になる。授業を聞いても分からないんだから宿題なんて分かるわけない。次第にやらなくなるか、解答集を丸写しするズルを覚える。成績なんて上がるわけなかった。5年生に上がるころには、受験コースと進学コースの狭間みたいな立ち位置に下がっていた記憶がある。


    だけど、本当に辛かったのは勉強ができない事じゃない。だって中学受験に落ちても、地元の中学校に行けるから。なによりも辛かったのは両親との仲が悪くなったことだ。宿題をやらなかったり、成績が下がると小言を言われる。それは自分が悪いんだけど、たまに宿題をちゃんと終わらせてから遊んでいても、「宿題やりなさい」とか言われるのが嫌だった。「やったから遊んでんじゃん!!」とデカい声で文句を言ってた。それでも結局成績が上がらないと当然怒られる。やる気がなくなる。「やりたくない」と言うと、「あんたが受験したいって言ったんでしょ?」と言われる。これが一番辛かった。親としては、私が好きなことを勉強するために、大学に行くために、中学受験をしているわけで、その希望を口にしたのは私の方だ、と言いたいわけだ。結局その口論の行き着く先は「じゃあやめたら?お父さんやお母さんももう嫌だよやる気ないあんたを塾通わせるのに高いお金払ってんだから。あんたが将来やりたいことできなくても関係ないもん。言っとくけど末っ子のあんたが困ったってお父さんとお母さんは先にいなくなるから。兄ちゃんや姉ちゃんも助けてなんかくれないよ」とまあこんな感じだ。思い出してみるとちゃんと音声データとしてまだ頭に残ってる気がする。父や母の当時の冷たい声で再生される。まあ中学受験だけでなく、似たような言葉を高校受験のときにも散々言われたからだろうけど。

 辛かったし、そんな言われ方したら、小5や小6のガキにとっては「ごめんなさいもう1回頑張るから」ととりあえず言って心改めるフリをするしかない。辞められなかったのだ。私としては「辞めさせてくれなかった」に近いのだが、両親としてはあくまで「あんたが決めたこと」だと。まあこの議論は平行線だ。小学校と塾で勉強漬け、家に帰ったらこのプレッシャー。祖父母と同居していて、おじいちゃん子だった私にとっての唯一の逃げ場はおじいちゃんの部屋だった。祖父母が居なければ、多分親子関係は崩壊していたと思う。なんとか崩壊せずに保たれたわけだが、さっき書いたような親の言葉は深く深く心に刻まれている。これが私の大きな大きな「呪い」なのだ。

自分で決めたことなんだから、やり通しなさい。
高いお金出してるんだから、頑張りなさい。
誰が金出してると思ってるんだ?
将来兄ちゃんや姉ちゃんなんか助けてくれない。

 ずる賢く、生意気で、嘘をついたりしながら、勉強しなかった私に対して、両親は本気で腹を立てていた節もあったとは思う。私の悪いところも多分にあった。だけれども、上に書いた言葉はずっと私を呪ってきた。自分のやりたいことや目指すものがあって、それに向かって努力していることこそ至高だと思わされてきた。やりたいことが無いとか、あってもぬるく見えたり、すぐ諦めたり、言うことを変える人のことを見下した。しょうもないヤツだと切り捨てた。自分が両親から言われたように、「お前がやりたいって言ったんだろ」と言い放って、人を傷つけたこともある。現状に文句を言う人に対して「お前が選んだ道だろ」とか「だったら辞めろよ」って今でも心のなかで思ってしまう。自分自身にももちろん言い続けてきたからこそ、続けてきたことを諦めることを弱いやつだと思ってしまって、言い訳のようなことをつらつらとnoteに書いているのだ。

 今になって、ようやく分かる。私の考えは間違っていた。自分が決めたことだって、途中でやめたっていい。現状が辛いなら、そこから離れたっていい。辛い現状に自ら飛び込んだのだとしても、それは文句を言ってはいけない理由にはならない。決めたことを貫けるやつ、諦めないやつが偉いわけじゃない。少なくとも今、26歳の私に必要なのは、あの頃から諦めきれていない道を進んでいることを、偉そうに誇ることではなく、諦めさせてくれなかった人たちや環境にただ感謝することだったのだ。どんなに優秀な人だって、どうしようもない事情で進路を諦めなければならなかった人もいる。その人のすべての事情を知ったわけでもないのに「お前が選んだ道だろ」なんて言うのは、絶対に間違っている。


    私を呪ってきたものの正体はいったいなんなのか。自分自身の1番納得のいく答えとして「自己責任論」と「新自由主義」と呼ばれるものだと行き着いた。これは今、この日本に蔓延している呪いでもあると思っている。日本は戦後、民主的な改革と並行してアメリカ型の資本主義が導入された。自由な経済のなかで競争は激化し、資本主義の先に「新自由主義」が生まれた。競争によって生まれた富が市民に再分配される、というような考え方だ。新自由主義は、資本主義よりも、国家の市場への介入を小さくし(いわゆる小さな政府)、社会インフラでさえも自由競争を促すものだという特徴もある。しかし、新自由主義がいかに脆く、ただの幻想であるかは、現代の西側諸国が抱える問題に直結する。競争に勝ち続ける存在なんてひと握り。そのひと握りの勝ちを社会にキラキラ輝くものとして見せつけ、そうなれない者たちに目をつぶって見ないふりをする。競争に勝った者たちが、勝った者たちのための社会を作ろうとする。負けた者たちは「自己責任」。努力が足りなかったから、勝つための工夫が足りなかったから、もう一度頑張ればいい、勝てばいい。負けた者に対して勝者はそんなことを言う。でも負けたものが這い上がるための本質的な機会なんてない。這い上がるために、勝者が仕組んだ社会システムのなかに身を投じることになるから。結局勝者に搾取される構図になってしまう。そして勝者たちも、バカみたいに自分たちが安寧の地にいると思っている。腐敗した社会の末路が悲劇であることは歴史が物語っている。

 少々誇張して書きすぎた。理系の人間が、論理の通ってない、経済学や社会学の分野のことを適当に書いてしまった(もし、その分野に詳しい方が読まれていて、明らかにおかしい部分があったらコメントでもして欲しい)。でもこれは、理屈の通った文章を書きたいわけではないことをご理解いただきたい。自分にかけられた「呪い」を解くための思考なのだ。自分に自己責任を植え付けたのは誰なのか?中学受験をさせた両親だろうか?至近的な意味ではそうだが、本質的な意味では違う。義務教育の過程において受験しなくたっていい中学校を、「受験していい中学に進学し、その後いい高校、いい大学に入れば素敵な人生を生きていける」という風潮の社会だ。「学歴社会」と呼ばれるこのシステムは結局、教育をビジネスとする資本家たちが、自分たちが儲かるために作り上げた社会の1側面であり、そのプロパガンダだ。そう思いたいのだ。自分の呪いを解くために、その正体を自分のなかで理解し、それを多少強引でもいいから否定する。このプロセスが私には必要なのだ。だからこうして文章を書く。この記事は言うなれば「解呪の書」だ。とはいえまるっきり嘘や自分ででっち上げた理屈では被害妄想になってしまうので、今少しずつ経済の歴史についての本を読みながら、新自由主義について勉強している。

 実際中学受験ビジネスは、明らかに学歴社会や新自由主義的なものの上に成り立っていると思う。明確な格差を感じるからだ。地元を離れ、石川に来てみて驚いたのは、受験して入学する中学なんて2校くらいしかない。埼玉という都会に生まれ、電車通学ができる環境だった私は、県外も含めると50校くらいは志望校の選択肢があったと思う。もうこの時点で、都会と地方との格差が生じているのだ。私の世代にとってはこの国に生まれ落ちた時点でそういった地域間格差はあっただろう。だから新自由主義が掲げる「競争に勝つために努力しよう」みたいなスローガンはちゃんちゃらおかしい。スタート地点が違うのだから。競争に勝って利益を得ようとすれば、地方から都会への人口流出が加速して格差が広がる一方という連鎖。きっと日本の各地で起こっていることだ。競争して資本を拡大し、富の再分配によって、今の社会は発展してきたという側面もあるだろう。しかし、例えば地域間格差の現状は、「限界集落」などという言葉で表現されるように、地方自治体の機能が損なわれるほど加速しており、文字通り限界を迎えている。新自由主義において富を再分配するべきシステムが機能不全を起こしているか、本来国家や権力がが保障しなければ、生存が危ぶまれる社会インフラにまで新自由主義が侵食しているといっていい。地域間の話や、学歴社会の話以外にも、もういい加減資本主義や新自由主義のシステムではたちゆかなくなる社会課題がたくさんある。

 風呂敷を広げすぎた。たかが私の中学受験の話だ。運良く中学受験に合格した私は、地元の中学ではなく、電車で通学する中学に進学した。実はそこは第2志望の中学で、第1志望の中学には落ちた。結果的に中学受験は5回の試験を受けて、進学した中学以外は全て落ちた。12歳にして、4回も受験に落ちたのだ。特に第1志望は倍率が13倍くらいの狭き門だったので、落ちるのも当然くらいな感覚だった。今でこそ長々辛かったと書いているが、当時は受験に落ちて残念という気持ちよりも、長かった中学受験が終わることのほうが嬉しかったと思う。そうして長く辛い冬が終わり、春になって中学生になった。

 「中学受験は新自由主義に仕組まれたビジネスだ」というような筋道で書いてきたが、最初の前書きに書いたように、断じて中学受験自体を否定したいわけではない。例えば、東大でやりたいことがあって東大への近道を進みたい→東大への進学数が多い開成、灘、桜蔭(実際どうかは知らん)に行こう→中学受験する、という考えなら至極真っ当だと思う(それを小学生が考えられるかどうかは甚だ疑問だが)。
 私自身、中学受験をしたからこその現在があると思っているし、その現在を肯定的に捉えられている。なにより中学で出会えた友人たちは、かけがえのない親友たちだ。心の底から、一生友達でいたいと思っている。地元を離れてみて、その距離ゆえの寂しさを感じてしまう自分がいるくらいだ。想像がつくかもしれないが、中学の友人たちは、社会的な意味で優秀な人が多い。1年ほど前に同窓会があり、みんながどんな仕事をしているのかいろいろと聞く機会があった。同窓会のあと、実家に帰って父が尋ねてきた。「みんなどこで働いてんだ?高給取りばかりだろ?」と。これこそ、私にかかった呪いだと思った。ハッキリと言ってやった。「医者、弁護士、裁判官、有名企業いろいろ。そんなことどうでもいい。みんな自分にとっては机を並べて勉強した友達だから」と。本当にその通りだから。産み落とされ、育った場所が新自由主義のシステムのなかだったとしても、そこ出逢えた親友たちは、比べる相手でもなく、競争させられる相手でもなく、一人一人がかけがえのない、大事な大事な友人なのだ。今どんな仕事をしているか、していないのか、そんなのこれっぽっちも関係ない。そう思えたとき、ようやく自分自身の呪いを解けたと思えた。父に言い返したと書いたけど、その新自由主義的な呪いから自分を守っただけであって、父を否定したいわけではない。結果論でしかないが、大事な親友たちと出会えた、中学受験をするという選択肢を与えてくれたのは、紛れもなく父と母なのだ。そして応援してくれた祖父母と兄姉、塾の先生たちに心の底から感謝している。それと同時に、自分にかけられた呪いに気づけず、私が同じ呪いをかけてしまって傷つけてしまった人たちに、心から謝りたい。自分にかかった「呪い」は社会のせいにしたけれど、人を傷つけたとしたら、それはすべて私のせいだ。私が未熟だったからだ。中学受験をした人が、全員私のかかっていた呪いにかかっていたなんてことは、当然ない(むしろ育ちが良くて、健やかな心身を持った人のほうが多いだろう)。傷つけてしまった人たちには、もう会って謝れるような関係にない人もいる。後悔したって遅いのは分かっているけれど、せめてもの贖罪として、忘れないで生きていくことにする。

 最後に中学受験期の忘れられないエピソードを1つ書いておこう。進学した中学校の合格発表の日のことだ。掲示板が張り出され、そこに合格者の受験番号が貼ってある、よくある合格発表だ。私が受験した枠の男子の合格者は25人だった。私の受験番号はなんと、25番目、掲示板の最後に書かれていたのだ。番号順に書かれているだけなので、合格した人のなかで私の受験番号が1番後ろだっただけなのだが、それを見た母がこう言った。「あんたが1番ビリで入ったと思ってなさい」と。合格して喜んで、ほんとに飛び跳ねている私を見て、謙虚でいなさいという意味を込めての言葉だったと思う。しかし今となっては、中学入学以降の思春期において、いろいろな部分で劣等感を抱えまくる自分の未来を暗示していたようにも思える、少々不気味で思い出深い記憶だ。

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