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子供が先生シリーズ・子供が見ている世界/食とまなびのブログ

鎌倉に引っ越した当初の話。
贅沢な話だが、広い庭の管理が本当に大変だった。
管理といっても、作りこんだ庭ではなく、ただの地面があるだけなので、やることといえば、春から秋にかけては草刈り。秋から冬にかけての落ち葉掃きである。

しかし、この草刈りと落ち葉掃きが本当に大変で。

落ち葉を端から掃いていく。
落ち葉の小山が出来上がる。
風がふぁ~っと吹く。
落ち葉がカサカサと音を立てて散らばる・・・。
また掃いていく。

掃いている間にも上からは音も無く葉が落ちてくる。
まさしく落ち葉。
掃き続ける。
後ろを振り返ると、もう既に落ち葉が積もっている・・・。
もう一度端から掃いていく。

翌日には元通りの世界が広がっている。
永遠に続くループする世界。

『これ、意味あるのか?』
『なんのためにやっているのだろう?』
『いくらやっても次の瞬間には元に戻っているぞ』
『やってもやらなくても同じじゃないか?』

諸行無常を実感する。
雲水はこんな感じなんだろうな。
禅問答のようだ。(笑)

草刈りも同じ。
こないだ草を刈ったばかりなのに、もう!こんなに生えてきてる!
生命の力強さを肌で感じる。
自然に逆らっても絶対に敵わない。
しかし、今日も草を刈ろう。

そんなある日。
幼稚園に通う娘が言ってきた。
「お父さん、またお花切っちゃうの?」と。

「大丈夫、雑草だけだよ。お花は切ってないよ」
と言った瞬間、


はっとした!


しゃがみこんで足元の雑草をよく見てみる。
名前も知らない水色、白色などの花がたくさん咲いている。
揺れている草にはてんとう虫がいる。
バッタが飛び跳ねる。
モンシロチョウが飛んでくる。

あー、これを見ていたのか!
娘が見ていた世界はこれか!

私は名もない雑草(本当は全てに名前があるが)としてしか認識しておらず、花と言えば、蘭やバラなどの植えた花だと認識していたのだ。
それ以外をいらないもの、雑草として排除しようとしていた自分に気づいた。


価値とはなんだろうか。

真善美はよく言われる言葉だが、多くの価値観は時代によっても変化し、個人個人でも違う。
結局価値とは心の状態によって変化するわけだ。
真善美であったとしても絶対的なものではなく、いわば、価値とは相対的なものであり、心の状態との調和なのだろうと思う。

こんなことを延々と考えるのが面白くもあり、好きでもあるのだが、
うーん、また迷宮に入りそう・・・(笑)


と、そんなことがあってから、草刈りの考え方が変わった。
庭に対する考え方が変わった。
庭を作りこまないことにした。
ある程度は、あるがまま。
その世界を楽しむこと。
雑草を愛でること。
もちろん、あまりにも見苦しい状態にはならないように草を刈る。
ちょっと目を離すと、草レベルを越えて、木レベルの太い茎に育ってしまうので、注意注意(笑)

子供がスコップでそこらじゅうに穴を掘る。
それにけつまずく。
それを笑える心の状態であること。

秋になるとその穴には落ち葉が溜まる。
冬になると、その穴の落ち葉の間に、霜がはる。
息子がそれを見つけ、霜柱の感触を楽しんでいる。
振り返り、目をきらきらさせながら、小さな手のひらにのせた霜柱を私に見せてくる。
穴を埋めなくてよかったと思う。


子供が先生です。
本当に教えられることが多いです。



なお、これは草刈りをしないための、言い訳ではありません・・・(笑)


感謝します。

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工藤昌幸
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