家族の肖像:夫はいつから妻にバカ扱いされるようになったのだろうか?
『結婚は神聖なもの、離婚は許されない』という考え方はいつ失われたのだろうか?小学生の「父親の会社見学」ってあったような気がするけど、あれってどうなったのだろうか。いつから妻は夫のセックスを拒むようになったのだろうか。「YesNo枕」ってどういう意味か親に聞いたときなんと答えたのだろうか?
実質的に離婚はできなかった
かつて、私たちの社会は地域に閉じられていた。冷凍技術も食品加工技術(カップ麺)も、保存技術(缶詰)もなく、運搬コストも高くかった。地域に屠殺場が有り、川や湖で釣りして晩ごはんおおかずをとっていた時代である。
地産地消という言葉が生まれたのは1980年代の農林水産省の文書の中だという。これは、それ以前は当たり前だったという事を意味しているのだ。1980年代はグローバリズムの分水嶺である。社会を分析する学者は見事にこのことを無視している(と言うか考えもしない)。ましてや栄養学者や医者においてはずーっと大昔から今のように食材が流通していたと思いこんでいる。
その時代の産業構造を考えてみると、それぞれの地域に小さな企業が存在していた。全国チェーンのレストランなどなかった。農家は皆専業で経営が成り立ち、開墾や農業改革が必死に行われていた、農産物は問屋を通じて売られ、肉魚は専門のお店が有り、街には豆腐屋が有り、大規模工務店などはなく大工一家が集落にあり、仏壇や、お寺、葬儀場、産婆がいて、遠くに旅することなどなかった。「お家が一番」だったのだ。
家庭=企業であった時代である。つまり、結婚して家に入るということは企業に就職するということであった。義父は社長で、義母は総務部長、夫は営業部長で妻は事務員、子供は新入社員であった。企業=家族であるから、親が年取ったら、子供が後を継ぐ「世襲」は当たり前であった。
ホンダも町の自転車屋さんで、ソニーも電気屋さんでしかなかった。
なにせ小さい頃から親の仕事する姿を見ていた。そして商売のネットワーク(仕入先やお客さん)もそれぞれに共に生きていた。好む好まないは有るが、「好きなもの」に成れはしなかった。
年をとっても、その仕事には精通していたから、老人とバカには出来なかった。今では口うるさい厄介者扱いしかされない。
離婚したら、この地域の集合体から追い出されるということであった。ニートである、家もなく、給料も生活の基盤もなくなるのである。だから、どんなに辛くても我慢して家の中で仕事を覚え夫と協力してその家の家業を大きくしていった。
逸脱を助ける仕掛けもあった。「駆け込み寺と言われるようなシェルター」「暗黙の夫婦外のセックスの承認」夫婦外のセックスに関してはよそ者に対しては厳しく、顔見知りに対しては容認されていたと思う。幾つかのこの時期の文学において見られるだけであるが。また、複数婚は財力に応じて許されていた。僕の20歳くらい年上の友人に「お妾さんの子供」がいる。将軍様や貴族はハレム、大奥という贅沢品を完備していた。元はと言えば平民の金である。今でも、貯金通帳の残高SNSでさらせば好き放題である。同時に許容されないセックスも存在する。地域が破壊され、メディアのレベルにこのエンタテイメント(コミュニティの不倫懲罰)は委託されている(笑)。セックスの話題は、自分がその位置にいたらどう思うかを考えると面白い。
本家-分家の問題
世襲には問題が有る。子供の数が多い時にどうするかである。実は単純な回答があった。長子相続である。すべての財産は、兄弟で分割などしないで長男がすべてを継承したのだ。
法は社会をうつ鏡であるから、戦後改正されたが今でも大きな企業は家族経営と言われる血縁にしたがった権限の継承が行われる。無論、その企業の中で一番優秀なのだぐうぜん自分の息子だっただけであるのだが。その部下も皆自分の息子を「若」と呼ぶし手柄は皆息子が立てる。やはり血筋である(笑)。
noteを見ていると、時折「本家の子供」が自分の家に分家の連中が勝手に来て嫌だったと書いている。これは、大きな本家(農家)が家や田んぼを専有して、その兄弟は遺産の分割を受けなかったのである。つまり、分家というのは(その親が生きている間は)本家の財産が生み出した利益を受け取る権利があったのだ。同様に本家の商売が困った時は、助けて恩を売る。このメンタリティは大手企業の家族経営に見ることが出来る。
父の本家、大きな地主であったが商売がうまく行かず、随分土地を失ったという。父の父親は分けてもらった土地で乾物屋を始めるが本家は離散した。子供は多かったが女性が多かったのだろうと思う。左側の男が父の父。
子供の意味、家の意味
子供は、小間使いであり、兵士であり、新入社員であり、年金であった。
僕が若い頃は「跡取り」と長男のことを呼んでいた。そして、もっと昔は、公的な年金制度がない時代である。介護施設もなかった。皆家族が共に面倒を見ていたのである。
『家』というものは恐ろしく多機能で人生のすべてがそこにあったのだ。生産と消費、セックスと食事、生と死、病と寛解、教育の場、イノベーションの生まれる所でもあった。
だから、その時代は家から離れることはメリットがなかったのだ。結婚が神聖だというのは、貧乏人の負け惜しみである(笑)。安定した社会から税収を得るためには必要だったのである。当然、将軍様や貴族や豪商はお奥を持ったりお妾さんがいたのだ。今も金持ちは「好き放題」である。
かぐや姫は就活のものだがりなのだ。そして、今や女性は社会に出て、会社勤めで給料を得るようになった。セクハラ・パワハラしたり、されたりで大忙しである。食事作りは外注化された。それが楽しいという年頃も有るだろうが、人生の終わりになった時余り嬉しくはない。
「家の機能」は外注化され、商品となり、金持ちはいいものを買う。しかし、人生の終わりには、私達を苦しめる。
バラエティショーの醜悪
僕はテレビで「勝ち組 Vs 負け組」の企画が大嫌いである。家族でテレビを見ないのもそう言うテイストの番組がおおすぎるのである。
番組で大金持ちが美味いもの食ったり、旅行したりするのをこれ見よがしに流す。それ見て僕は自分が責められるようである。
妻を旅行に連れて行ったことはない。美味しいレストランにも一緒に行ったことはない。生活がかつかつである。
僕と結婚したのは間違えだったと面と向かって言われたことも有る。お互い様では有るが。
別に遊んで暮らしてきたわけではない、一生懸命に生きてきたが忖度も出来ず、コネもない僕は年収も安定しないし、先も見えない。かつての社会は、顔見知りが共に生きてきたから給料を安くするのにも限度があった。何とか老後も共に生きていこうとした。自分の人生を生きることは地域で共に生きることであった。
今は全く違う、地域と言ってもそこには家賃を払って食事を買って食べて、老後の施設に行くまでの腰掛けでしか無い。
今の時代は、コストカットの名目でいくらでも他人の人生を破壊する。
バカで怠け者だから貧乏なのか?
格差の方程式(原則その1)貧困の自己責任(注)
「能力がないから貧乏なのだ貧困は自己責任なのだ」これが一番強力だ。逆に言うと金があるのは能力が有るからだと言うことになる。
僕が妻と結婚した時は工場の工員だった。給料が15万手取りの5000円ベースアップであった。妻は一部上場企業の地元採用事務員である。当然自分は勝ち組で僕は負け組である。
子供が小さい頃、何でアンタは収入が安定しないと怒られたことが有る。当時は死ぬほど働いて東京の企業のサーバーの管理をしていた。会社に泊まり込んでいた。妻から見たら遊んでいるとしか見えなかったのだと思う。
かつての「家族=企業」の時代との差がわかるだろうか?
当然、妻にしてっ見れば、優秀な自分が指導して夫を使ってステップアップできると思うだろう。
noteを見ているとこのメンタリティはよく目にする。僕はこれを「バックシートドライバー症候群」と名付けたい。
ちゃんと勝ち組はいるのだから、能力の差が有り、アンタは負け組なのだと言われたらなんとも言い返せない。病気になる他ない。
この格差は「能力の有無」ではない、人間の価値ではない。病気になる必要はないのだ。格差は、上を作るために下を貧乏にする。かつては明確に階級として社会に存在していた。今は、「平等な教育」と「コネと忖度の社会」が裏付けているのである。
僕はそれをいいたい。
なぜ、うつや統合失調症がこれほど、大流行するのか
「病気」ならば薬で治るのだ。
自分の能力だったらそれは一生逃れられない。
これだけ努力しても誰も雇ってくれない、自分のやりたいことも見つからない。それが病気のせいならば、僕は悪くない。仕方ないことなのだ。
しかし、この「格差」は自分のせいではないのだ。
格差で儲ける連中がおおすぎる。
「ダメおやじ」はいつ生まれたのか
「サラリーマン=時給での労働」は最近の発明なのだ。そのことを忘れてはならない。
父の家族は長男が本家の乾物屋をついで、残りの子供は1人が先生、4人が嫁に行き、父はサラリーマンになった。
サラリーマンの妻は夫と苦労を共にしないのだ。家で姑と戦い、夜は夫のセックスしたがりと戦う。
ダメおやじは、ろくな人生も買ってくれない。セックスばかりしたがり、食事を作れとうるさい。バットで殴りたくなったも当たり前だ。
ダメおやじは立派だ、自分で食事を作る家族の分まで作る。まさに僕の姿である。
そのメンタリティの差がダメおやじを生むのだ。社会の構造である。
「おかみさん時間ですよ」と言うドラマと「サザエさん」と言うドラマを比較検討すると面白いだろう。
当然、「サザエさん」の暗黒面が「ダメおやじ」である。
サザエさんはマスオさんのもたらす人生に満足していた。ダメおやじさんのオニババは満足できなかった。
サザエさんはSNSで金持ちの自慢を見たり、テレビで勝ち組自慢を見ていなかった。
1970年〜1990年代のドラマの構造分析は恐ろしく面白い。この話はまた今度。
「バックシートドライバー症候群」
夫が運転して、妻が後ろの席から指示する現象である。
かつて、家族皆が共に生きて商売をしていた時代は「親父が怠け者でダメだ」などと言うことはなかった(無異論本当にだめな人は駄目であるが)。共に働く自分自身の責任でも有ったからである。
僕が切れる時は分かっていることを妻に指示されるときである。言葉の端々に「アンタ、バカだよね」と念を押されるのである。子供にはお父さんのようにならないように勉強しなさいという。
こんなに頑張っても売上が上がらない、生活は苦しい、年金は足りない。愚痴を言う奥さんのこともわかる。
熟年離婚というのはこういう関係性の内に現れるのだ(笑)。
僕は運が良かった。「格差の方程式」がこの世界を覆っていることに気がついたのである。
妻にも何度もこの方程式の話をした。自分がどれだけ努力したのかも話した。何と驚くことに自営業になってから売上がソコソコ有ったことを妻は忘れていたのだ(笑)。自分の貯金額を僕には話さなかったのも、話してくれた。貯金があると安心して働かなくなるのではないかと不安だったという。売上が足らなくて老後に不安があるならば父の一周忌に死ぬ約束した。3000万円の置き土産である。足りないと怒られた。
今はサザエさん状態である。突然切れなくとも良くなったのである。妻はもう仕方がないと諦めている。
妻に切れるのではなく、格差の方程式に切れるようになってきた。noteにはそれを書いている(笑)。
家庭というのは、それで満足するべき場所
年取った母はよく話した。「あたわり」というものがあるのだという。
欲にはきりがない欲しいものは際限ない。金で多くのものは買える世の中になった。しかし、年取った時に居るべき場所は金では買えないのだ。
「Let it be=それで満足しなさい」という老人の賢い言葉である。
安吾の「堕落論」こそがすばらしい
堕落論というのは恐ろしく素晴らしい文学である。
制度や、宗教や社会や家庭と言う枠組みは人を縛る。しかし欲望には限りがない。人を愛して枠組みは自分を責めるであろう。しかし、自分自身には自分で向き合うしか無いのだ。
人は社会がなければ生きてはいけない、しかし欲望は常にその枠組みから逸脱しようとする。
社会から逸脱して堕ち続けながらいつか自分の居場所を見つけるだろうという。そしてその場所は自分にしか見つけられないのだという。
ラング(人にとって変わらぬもの)とパロール(一人一人の言葉)という概念が有る。構造主義という哲学の流れを作った。
実存主義と構造主義は同じものを違う側から見ているのである。問題は見ているものが素晴らしいものであると感じることが出来るかである。
僕にはまだ結論が出ない。
格差の方程式(原則その1)貧困の自己責任(注)
格差の方程式はまだ「解」が見つかっていない、しかし、幾つかの原則はある。特に目新しくはないが、グローバリズムと結びつくことで凶悪な社会を実現する。
1)貧困の自己責任
2)組織は、コネ(信頼の担保)で出来ている
3)何よりも自分が大事
4)長いものには巻かれろ