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無花果とか山桜とかパキラとかアボガドとか生命とかの話
55歳の頃、母がほぼ何もできなくなってから庭をいじりはじめた。植物など気にもしていなかったのが庭の世話をするようになってから気になりだした。今ではすっかり彼らの味方である。
2年くらい前にステッキのような無花果の木を買ってきて植えた。今ではジャングルのようだ。一枝、盆栽に指した。夏枯らしてしまったのだが、毎日霧吹きで吹いていたら一葉でてきた。実がなるのはいつ頃だろうか。
毎日が楽しみだ。山桜もいい葉が出てきた。こちらは、こんなに小さくても毎年花が咲く。庭師さんも驚いていた。春が楽しみだ。
もう一つ枯らした無花果の盆栽にも水をやることにした。霧吹きが大活躍だ。
無花果のジャングルである。無花果を植えた当時の写真を探していたが見つからない。
パキラは天井を覆うようにする予定だ。
もう一つ種を植えた。しかし、これはどうなるのだろうか?不思議である。
数年前に枯れたアボガドのプランタの写真が出てきた。アボガドはこまめに摘んでやらないとすぐに手に負えなくなる。
ちょっと気持ち悪いが、もそもそして蝶にメタモルフォーゼするのだ。
秋晴れの良い一日であった。植物を好きになってから生命について色々と考える。
葉が一つに命と考えると色々と面白い。「木」というのは「葉」という生命の単位が生きるためのコロニーである。葉は光合成を繰り返し葉に必要な生命の単位を根から受け取るのだ。根は葉のもたらせるデンプンで自分を大きくする。まるで動物と同じである。
根が芋となり株に分かれ別に葉をつけて光合成を通じてのデンプンを受け取るプロセスを考えると面白い。
根と葉はどちらが先に世界に生まれたのだろうか?挿し木あっ考えてみれば、葉と根の間には一定のプロトコルが有ると考えるリーズナブルだ。動物にも間の子(馬×ロバ=ラバ)がいる。
「ヒト」や様々な生命は乾燥からマイクロバイオームを守るためのコロニーだと考えると全てがひっくり返るのだ。
「死」を大げさに学者や生命哲学者は書くが、あまり賢いことではない。おそらく「家族の死を看取る」と言う体験をしていないのだろう。僕は、母も父も身近に感じる。見たこともないものを怖がるようで滑稽だ。
父が亡くなる時に恐ろしかったが、なくなる時に額を触った。もうお別れだと分かっていた。父の呼吸の音は荒く苦しげだったが、瞳は苦しそうではなかった。ピュウピュウと風の吹く青空が見てていたのだろう。
あの時に、父の身体に住むマイクロバイオームは身体から部屋に出て来たのだと思う。僕の身体の内側にもやってきてだろう。輪廻転生というのは具体的なマイクロバイオームの行き来だと思う。
「食事、セックス、葬儀」人と人とが接する時にマイクロバイオームのやり取りがある。
具体的な物質の移動が情報のやり取りになる。魂には重さがあるのだ。
死はマイクロバイオームにとっては単なる引っ越しでしか無い。悲しむことではない。輪廻してとの生命のうちに生きるのだ。庭を歩くと落ち着くのには意味がある。
世界に適応するために細胞に代表されるマイクロバイオームは死に新たに生まれる。しかし、おかわりのできない細胞が死ぬ時にメタモルフォーゼが起こるのだ。
このお話の続きである。
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