幸運な病のレシピ:皆で作る餃子大好き
僕は餃子が大好きだ。皆で作るのが楽しい。いつの頃からか、餃子を包む時に「しりとり」をするようになった。僕が一番弱かった。
子供たちは忙しくなり、妻と二人で作るように成り、今日は僕一人で作っている。当然、「しりとり」も一人でやっている。多重人格はこういう時便利だ。時にAIにも参加してもらう。やっぱり「しり」がいいだろうなあ。「あれくさ」はちょっと他人行儀だ。(本当のAIではないですよ、僕の脳内AIですから......)
you tubeにアップした動画に「餃子」で検索したら150本あった。記録していないものも(皆で作っているのは録画していない)有るので相当な数餃子を焼いている。
作り方も変遷していて、15年位まえに宇都宮に出張した時に結構色々と現地で教えてもらってきた。高田馬場から小滝橋方向に行った当たりの中華料理屋さんの端を閉じていない餃子も好きだ。新宿の「大陸」だったかなあ小さいな餃子を山程食ったのは楽しかった。
2015年から餃子の作り方も変わった。食物の水分(マイクロバイオームや医学が分析していない代謝物の水溶液)が大事だと思い、キャベツの水切りをしないようになったのだ。これでいいのだと思いながら作っていたのだけど、やっぱ野菜の水切りはしたほうがいいという結論になった。
妻の父は、幼少の頃中国からの引き上げしたと聞く。亡くなる前にもっと聞いておけばよかった。
餃子を記載しているレシピ本で一番好きなのは「周さんの餃子」だ。周富徳さんってテレビで有名になったので胡散臭いなあと思っていたのだが、この本で大好きになった。陳建一さんの本も好きだ。お二人ともに料理が人生の一部であるのだと感じさせてくれる。
何よりも、権威ぶっていないところが素晴らしい。小さい頃の思い出とともに、大好きだった家族のことを思い出している事がよく分かる。
「周さんの餃子」では赤塚不二夫さんの逸話とインタビュー(大陸から引き上げてきて、今でも餃子が大好き)なども載っていて素晴らしい。
料理に専門家などいない
そのうちっレシピ本に関しても少し書きたい。昨今のSNSでのイイネのための料理作りが僕には気に入らないのだ。
簡単にできるとか10分ですぐ食べられるとか、そんなに料理に時間かけることが無駄なのか?そんなに忙しくして結局何をしてる。確かに共働きで朝から晩まで働いているのは辛い。けどね、自分らしさを失うことは辛い。
料理ができないことは恥ずかしくない。私達は、料理を学ぶ機会を失ったのだ。家庭科の授業で料理ができるようになていたならば、もう皆料理している。
私達は、「商品化された食事」が「ケンコウを壊している」ことに気がついているのだ。だから家で料理を作る本が売れる。「ケンコウ」になれるレシピ情報が売れる。けどね。その「ケンコウ」ってやつが問題なんだ。
医師や栄養士は炭水化物が多いから要注意だという。僕は炭水化物が毒だとは思っていない。魅力的すぎるから食卓から生命を押し出すところが問題なのだ。
炭水化物は、料理の美味しさを閉じ込めてくれる。だから美味しい料理は炭水化物が絡む。ピザや餃子、天麩羅、これ他の調理は同根だと聞く。薄い炭水化物に脂と肉と野菜が乗る。市販の利益重視の食品は、炭水化物を多くして満足を売る。
美味しいものは自分で作る他ないのだ。そして自分にピッタリの配合と調理のプロセスが自分にとっての「正しい食事」。人みな違うから権威あるレシピなどというものは意味がない。
僕はほぼ土日も家から出ないし、毎日、作った料理しか食べない。父と母に毎日食事を作っていたからもはや習性になってしまった(笑)。僕は感謝している。
父母に教えられたことは、それだけじゃない。年取っていった時にどんな事が起こるのか?そしてそれに向き合うにはどんな食事が良いのか、果たして僕は「心が狂わない=認知症とならない」ままに歳を重ねていけるのだろうか?
食事こそが鍵になる。薬は検査値を正常にするが、検査値と災厄の間に「直交的」な関係性はない。
やがて年取って身体が変わっていく時に、向き合ってくれた家族の「愛」が感じることの出来る本が好きなのだ。もしかしあらもう現れないかもしれない。そういう体験が途絶えてしまったからだ。
まあ、面倒なことは言わないで、今度一緒に餃子作って食べよう。
いつか子供たちが、愛する人と餃子作りながらしりとりしていたら嬉しい。「餃子シリトリ」は一人でやっても、楽しいものだ。