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リビングの杜:山桜に葉が戻ってきた
母が亡くなった年に苔玉の山桜と出会った。一回地面におろしたが、鉢に移した。昨年一冬屋内においたら、葉がみんな落ちて、駄目になった。残念に思い外においておいた。毎日水は欠かさないで、おひさまに当てていたのだ。そうしたら葉が出てきた。芽もふいているようだ。
植物の生とは何か
一本の木を生命と考えがちであるが、色々と考えていくと、納得できないことが多い。僕は一本の木は「家族、コロニー、社会、コミュニティ」と考える。
そして地面の中に住む「マイクロバイオーム=細菌生命」がそのコロニーを利用して、葉と言う形を作り「お日様の力」を利用して、「炭素と水素と酸素」を結びつけて「ブドウ糖 C6H12O6」を生んでいる。
そして、葉が生命のコロニーの単位であり、「生と死」を繰り返して「世界に適応」していくのだ。
ヒトは「家族」とうコロニーに生まれた一枚の葉であり、深く根を持って多くの「蟲」たちが集い引っ越ししたり、新しい空の下に生きようとする。それが、セックスと食事の意味である。根と幹は長く存在して、葉を茂らせていく。そして環境の変化が起こった時、その世界に「適応」した「葉」を茂らせるだ。
だからいつもセックスしたがるのだ。そして自分に一番好ましい代謝系を持たコロニーを探すのであるから、LGBTQも老人の性欲も異常ではない。そして引っ越し先は若いほうが良い。年の差婚などと言うが若いというのはそのコロニーの内部の「蟲」が活発に動いているのだ。うんうん!
落花生も順調、水栽培も面白い。楽しみである。
種の絶滅は、何ら悲しむこともない。世界に対しての当たり前の反応なのだ。そして、「生命のコロニー」は新しい環境に向き合うために姿を変えて、DNAと言われるプロトコルを追加していくのだ。
環境が変わり、決定的に生命の姿が変わることは化石年代を見れば当たり前の姿だ。そんなことよりも、氷河期を超えて恐竜はDNAの中に様々な痕跡を残した。また、それが適切な環境になれば表現型として生命の形に現れる。
進化医学という考え方
進化医学という生命の見方は面白い。病気というのは意味があると考えるのだ。過去の環境に対しての適応が現在の環境と齟齬を生んでいると考えるのだ。(糖尿病に対しての見解には少し無理があるかなとも思うが....)
まだこの本を読んだ頃は、「DNA」を「全体の設計図」と考えていた。多くの生命学者はそう考えているかもしれないが、細胞のプロトコルと考えるほうが筋が通る。
ウイルスは細胞の間のキャッチボールのボールであり、スパイクタンパクはミットである。
うちのリビングには杜がある
息子が小学校だった時に勝った100円のパキラ。
毎日水をやり、落とした葉は根本において腐らせる。落ちた葉は土に戻り生命は循環するのだ。土が豊かになり、この場所のマイクロバイオームを受け取り、葉はしげる。生命が循環するようにである。
根は単純に水を吸っているのではない。マイクロバイオームが葉の形を求めるのだ。そして、作り出したデンプンは根を通じて土に戻り、蟲たちを呼び寄せる。様々なDNAを通じて環境は伝えられ新たな用意をしたマイクロバイオームが世界に適応していくのだ。
そろそろ梅干しを干さなければならない
年に一回だけ使うザルである。平野屋にいた頃に出会って、会社を潰した時にもらった。
余りでかくて比較物をおいてみた。産湯を使えるくらいの大きさのボールも有る。やっぱ、プロの道具は違う(笑)。しかし、年一回だけの活躍である。
この箸置きと比較してください(笑)。昨日の食事である。紫蘇のジェノベーゼである。
百日紅が花を持つ頃、梅干しを干し始める。
暑かったので、妻がマユに水をかけていた。いいなあ、マユはいつも裸でいるのだ。まあ、僕もパンツ一枚であることが多い。
7月8日の写真が出てきた。隣のイチジクの枝も葉を失っている。
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