新国立劇場「ファルスタッフ」初日記念〜鐘についての一考察〜
オペラ作品に出てくる「鐘」といって思い出すものはなんだろうか?我々劇場で働くものにとってまず最初に思い浮かぶのは「トスカ」である。特に3幕での鐘のバンダは副指揮業務でも最も気を使うものといって良い。静かに流れる弦楽器の波の上にリズムを刻む鐘が絶妙なタイミングで入ってこなければならないからだ。大抵は上手と下手に分かれて演奏するし、合図を出す打楽器奏者のタイミングのクセも掴まなければならないのだ。
しかしそんな大変な3幕より前にまず聞こえてくる鐘といえば、1幕ほどなくして聞こえてくる「聖アンジェルスの鐘」だ。Fの音が聞こえてくる中でオーケストラが和声を優しく変化させながら堂守がお祈りを唱える。私はこの固定されたFの中でどのようにハーモニーをプッチーニが変化させたかに大変興味がある。以下の譜面をご覧いただこう。和声の変化を2種類の表記法で示した。
上の緑色がコードネーム、下の赤色が日本式和声記号いわゆる芸大和声の記号である。かなり無理矢理なところがあるのは承知だが、このようなプッチーニの和声はすでに機能和声を飛び越えたところまで行っているのであって、芸大和声で解釈するのは難儀する。sus4に当たる箇所は表記不能であるしGm7/Cも「C音上の2度7」とするための表記に苦労する。最近私はこういう場合、調性を把握しつつコードネームで捉えることにしている。
さて、F音の鐘といえばその先駆者がいる。ヴェルディだ。彼の最後のオペラ「ファルスタッフ」では3幕2場真夜中の鐘がなる箇所の音がF音なのだ。そしてその和声がすごい!なかなかに信じられない進行をするのだ。では、トスカと同様2種類の表記でご覧いただこう。
どうだろう?もう芸大和声で調性の範疇で捉えようとするととんでもない記号になってしまう!!全てをF durの中で捉えようとしたからこんなことになるのだが、例えばF durに対するB7(b♭dfa♭)は副7度調(Es dur)のドミナントなどと思わなければいけない。コードネームで見た方が簡単だろう。一応全ての音に注釈をつけてみることにしよう。
"Una" F durの主和音
"due" F7の第3転回形、第5音は上方変移している(c#)
"tre" B7、前和音からのF7→B7は取り立てて不思議な進行ではない。
"quattro" Des durの主和音に6度音が入っている。とても意外な進行。
"cinque" B durの属7の第2転回形
"sei" 最初の形態はE♭の音が前から掛留されsus4の形をとる。それがd音に解決しB7となる。続いて半減7の和音
"sette botte" g音が掛留されて1拍目は4度和声が聞こえる。それが半音ずつ下降してf音に達する。経過するg♭にアクセントが付いているのに注目。結局この小節は1度の第1転回形ということだ。
"otto" もしd♭音がcのままだったらf mollになるだけだが、d♭があることによってDes durの主和音に7度音が足された印象となる。斬新な進行。ここからfの保続音は内声に変わっている。そしてトップノートのアクセントがなくなりpppの印象が強くなる。
"nove" 2度7の和音
"dieci" 4度7の和音、ここからオーケストラのアクセントがなくなる
"undici" G7だが機能和声でいうとF durのドッペルドミナントだ。
"dodici" 音の組織だけ見ると"otto"で聞いたDes durに7音が足された形だが、次にF dur主和音に解決するので「アーメン」進行と捉えた。つまりg#は4度の付加6音gが上方変移したものと解釈する。「+6」とはそういう意味だ。
いかがだろうか?ヴェルディがたった一つの"F"という音につける和声をさまざまに変化させ、すんごく魅力的なドラマを作ったことがお分かりいただけるだろうか?「ファルスタッフ」を鑑賞するときの一つの聞きどころに加えていただければ幸いである。
この鐘も舞台裏でバンダとして演奏される。弦楽器の弱音で演奏されるためタイミングを合わせるのは思ったより難しいのだ。特に"sette botte"でオケが動き、"otto"のpppが来るところはズレやすい。同僚の副指揮が神経を研ぎ澄ませて振ってくれるはずだ。