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苦しさをどこまで捉えられているのか

2月に上間陽子さんの「海をあげる」という本を読んだ。社会学者として、沖縄の女性の貧困について研究している上間さんが体験した過去の話から家族との思い出、調査するなかで出会う女性たちの話、米軍基地の建設に対して沖縄で起こっていることまでエッセイとして書かれている。

観光地で綺麗な海というイメージを破るように、この本のなかに出てくる「沖縄」の姿は想像を絶する。90代の女性が語る、戦争当時の家族が爆撃を受けて死んでいった様。その女性が飢えと恐怖で生理が止まったということ。未成年で風俗業界で働く女性たちの貧困とその背景。基地問題と隣り合わせの現在。

それが沖縄のすべてだとは思わないが、それにしても凄まじい。

未成年のときに風俗業界で働きはじめた女の子たちへのインタビューの帰り道では、ときどき泣いた。三年前にはじめた、10代でママになった女の子たちへのインタビューへの帰り道では、ときどき吐く。彼女たちがまだ10代の若い母親であることに、彼女たちに苦悩が不均等に分配されていることに、私はずっと怒っている。
「海をあげる」p.117

さらに、基地問題について書かれているところではこうも書かれている。

抗議集会が終わったころ、指導教員のひとりだった大学教員に、「すごいね、沖縄。抗議集会に行けばよかった」と話しかけられた。「行けばよかった」という言葉の意味がわからず、「行けばよかった?」と、私は彼に問いかえした。彼は、「いやあ、ちょっとすごいよね。8万5000は。怒りのパワーを感じにその会場にいたかった」と答えた。私はびっくりして黙り込んだ。
「海をあげる」p.234

離れた場所の人たちにとっては他人事になってしまう。さらに、当事者たちにとってはとてつもなく大きな問題が、外野からは一種のエンタメとして扱われてしまう。そう扱うのが、社会問題に対して意識の高い人であったりするのだから酷い。

自分も高校生のときに震災復興系の活動をしていたので、こうしたニュアンスの出来事に度々遭遇した。高校生時代、東北の復興について議論するイベントを運営した時に、東京の人たち(もちろん東北に関心を向けてくれている人たちもたくさんいたのでこの括りは失礼だが)は社会問題や課題について考えていることが自分ごとというよりも一つのステータスのように考えているのだなと落胆した。ふざけんな、と思った。

一方で、自分自身も東北を離れたいま数百km離れた街から東北のことをリアルに感じられなくなってきている。また、何一つ不自由ない生活をするなかで、社会問題を真剣に考えることは薄れつつある。エンタメとして消費していないとは、正直自信を持って言えない。

生きている日々のなかで、絶望的なことが世界の至るところで起きている。こうして書いている瞬間にだって。

それらを僕はどこまで捉えられているのだろうか。

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木幡真人|masato kohata
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