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明治天誅組 その⑧ 西田を巡る冒険は続く(最終回)
まとめてみると、この稿で、西田について新たにわかったことは以下の通りだ。
①西田仁兵衛は、高野山富貴村の庄屋名迫次郎衛門が江戸から連れてきた。
元の名前は、野村潤次郎。富貴で天誅組に加盟した。
②野村は明治十年代、東京株式取引所の株主として東京に現れる。
大隈重信と関係のある壬午銀行の関係者でもあった。
③野村は明治七年頃、大坂の五代友厚のところにいた。
北畠治房と五代友厚の私的な密偵の元締めとして活動していたようである。
明治の西田の消息について、次のような資料もあった。
「筆者は稲夫(西田仁兵衛)を長年念頭に離さずにいるがこの人の談話の活字になったものを知らない。江戸者といい、名からして国学系統の人物と思われる。後嗣の方のご教示を切望するものである。明治二十年頃、東京で、時計商をしていたともいう。」
『今村歌合集と伴林光平』(堀井寿郎 2001年 ぺりかん社)の記述である。
「時計商」とある。
明治二十年代。西田はさらに別の顔で現れるのかもしれない。
今回の発見から、さらに西田に迫るいくつかの材料が得られた。
例えば、
・壬午銀行について、他に資料がないだろうか。
・東京株式取引所関連から株主情報を得られないだろうか。
・日並留記、日並記については高野山に原本があるという。是非見てみたい。
いろいろと資料の検討をする中、さらに分かってきたことがあった。
和歌山県の富貴村庄屋、名迫家の関係である。
西田を、江戸から富貴に連れてきた名迫家。
庄屋の名前は、名迫治郎右衛門とあるが、次郎右衛門が正式なようで、代々の名迫家の通称のようである。
実は名迫家には『名迫家文書』が伝わっているという。
一部は「高野町史」に掲載がある。例えば、天誅組が焼き討ちした名迫家の再建のため、高野山が百両を下げ渡したことが、文書から確認できる。
「高野町史」には名迫家三十三代「次郎右衛門 行仲」が養子に家督を譲り、江戸に拠点を移した旨の記載がある。天保十四年(1843年)のことだ。天誅組挙兵の二十年前。
「次郎右衛門 行仲」は河野伝右衛門を名乗り、材木業を営むかたわら鉱山開発を検討していたという。
名迫家が拠点を移した「江戸」が気になる。
名迫家文書をさらに追いたかった。
名迫家文書は、7,194点に及ぶ膨大な資料だという。
全部はデジタル化されていない。
が、国会図書館で目録を閲覧することができた。
『高野町史 近世古文書目録』は、目論のみにもかかわらず、厚さ2センチぐらいある。
うち、約三分の二が名迫家文書だ。
資料に番号がつけられ、表題や差出人、受取人などが一覧表となっている。
目録のみでも、膨大な資料だ。
だめもとで、ページを繰っていた。
そこに、突然、西田仁兵衛が現れた。
手紙類のなかに、差出人が西田と思わる文書がある。
「西田仁兵衛」「五条西田仁兵衛」「(五条ニ而)西田仁兵衛」
その数、二十件。
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間違いなく、天誅組の西田仁兵衛と同一人物だ。
江戸からの手紙もある。
差出人名は「江戸本所表町伝右衛門代仁兵衛」
他の資料からも、名迫家が本所に拠点を設けていることがうかがえる。
目論のみなので、詳しい内容はわからないが・・・。
君は、本所にいたのか・・・。
名迫家文書の現物は、高野町教育委員会が保存しているという。
おそらく、活字化されてはおらず、古文書のみなのではないだろうか。
閲覧の機会を得たいと考えている。
西田仁兵衛の、自筆の手紙を見ることができるかもしれない・・・。
西田仁兵衛を巡る冒険は、まだまだ、続くのだ。
(明治天誅組 完)