
明治天誅組 ~ その⑥ 五代友厚のもとで・・・
明治十年代。野村潤次郎として、東京に現れた西田仁兵衛。
もうひとつ、野村に関わる資料として、昭和七年発刊の『墓碑史蹟研究第9巻』を見つけることができた。
各地の石碑の記載事項をまとめた史料である。
この書に、文京区大林寺の「諸葛秋芳君碑」が紹介されていた。
諸葛秋芳は、元長州藩士。明治十三年、没。
東京株式取引所の役員(肝煎)を亡くなる直前の三か月間務めている。
この碑の裏面に、関係者の名前が彫られている。
そして、そこに「野村潤次郎」の名前がある。
東京株式取引所の関係者であるので、野村潤次郎と同一とみて間違いないだろう。
すなわち、西田仁兵衛であろう。

大林寺

さらに、もう一つ。「野村潤二郎」として発見した文書がある。
明治ゼロ年代の大坂に、西田は現れる。
『五代友厚伝記資料 第1巻 (伝記・書翰)』
北畠治房から五代友厚宛て、明治七年一月十六日付の手紙が収録されている。
明治二年官を辞し、財界に身を投じた五代。当時は大坂を拠点に鉱山開発などを行っていた。
北畠治房は五代と親しく、官界のどろどろした政治的抗争を手紙で五代に報じていた。
「司法官僚北畠治房の書簡の内容は、政府部内の動静を伝える実に詳細な情報である」と、解説にある。
手紙には、読後廃棄を依頼しているものもある。
おそらく、この手紙は読後廃棄を失念したものだろう。

(現代語訳)
ご健康をおよろこび申し上げます。明けましておめでとうございます。
私は今月十七日午後四時に帰京いたしました。
さて、奈良へ十四日に着き、その夜、藤井を訪れ、例の富田、森脇の二人、当分いろいろの事情があるため、暫く病気と称して引きこもらせることを黙認するよう談判しました。
藤井は、大いに迷惑だとぐずぐす申すので、その夜、お教えいただいた渡辺権大属を旅館に呼び出し、懇々と説得したところ、従来より同意の様子であり、快く合意に至った。
翌日、十五日、県庁へおもむき、藤井と密室で談判し、両人(富田、森脇)を出勤させないことを黙認することを、ついに説き伏せました。
両人は、来る二十日に、奈良を出発し大阪を通るはずであり、野村潤二郎に手紙を託しております。
野村が願い出たら、二百円をなにとぞ、ご用立て願います。
富田は、前からお話している通りの人物で、薩摩、大隅、日向の三州の、虎や狼の巣穴をあばいてくれるでしょう。
また、森脇という男も、元は島本や岡本健三郎の友人で、気骨のある人物です。両人(島本、岡本)に決して劣らない人物です。
二人(富田、森脇)は、この度の仕事にうってつけの者であり、決死で探索を行う覚悟も十分ですので、ご安心ください。
高知の探索については森脇よりお知らせし、それより西は富田単独で探索させるつもりではありますが、場合によっては二人とも九州に派遣することもあるかもしれません。
このこと、お含みおきください。
藤井千尋は、明治六年十一月から奈良県奈良県権令(知事)を務めている。上州高崎出身。
島本は島本仲道、岡本は岡本健三郎。いずれも元土佐藩士。
森脇も元土佐藩士の森脇直樹ではないかと思われる。立志社の関係者だが、実は密偵だったのかもしれない。
富田は誰か特定が難しい。
富田と森脇。奈良県庁に勤務している二人を、体調不良という名目で休暇をとらせ、土佐と九州に密偵として送る算段を北畠が画策しているようである。
政府の密偵なのか、それとも北畠ないしは大隈そして、五代の私的な密偵のようにも思えるるが定かではない。
そして、彼らの探索費用であろう二百円を北畠は五代に、野村潤二郎に渡してほしいと依頼している。
単に、建て替えてほしいといっているのか、五代にその費用を負担してほしいといっているのか、それはわからない。
金を五代から受け取り、富田、森脇に渡す役割を野村潤二郎が行っているようだ。
別途、野村は北畠から一封預かっている。それは資金かもしれないし、なにか指示書のようなものなのかも知れない。
この手紙の続きには、東京で暴漢に襲われた岩倉具視の記事がある。
明治六年の政変で野に下った江藤新平が、佐賀の乱を起こすのは翌月のことである。
そのような中、司法省勤務の北畠と大坂で商人をしている五代がこのようなやり取りをしているのは、少し奇妙な感じもする。
北畠から五代への別の手紙に以下の記載がある。
明治七年二月十七日の日付だ。
(現代語訳)
富田は、先月二十日、長崎へ向かうとの趣旨の手紙を残して出立しました。その後、野村に向け何か申してきてはいないでしょうか。お尋ねいたします。
北畠が五代に聞いている。富田から野村になにか言ってきてないでしょうかと。
すわなち、野村は大坂で五代のすぐ近くにいたことがわかる。
そして、九州に密偵として旅立った富田が探索内容を報告する窓口の役割を野村が担っているのだ。
詳しいことはわからないが、この当時、野村潤二郎と名乗った西田仁兵衛は、大阪にいて、北畠に代わって密偵を取り仕切る仕事についていたのかも知れない。
そのようなミッションをもって、五代のもとに北畠から派遣されていたことが想像される。
(続く)