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明治天誅組 その④ 江戸から来た男
天誅組の初期の研究資料『いはゆる天誅組義挙の研究』(久保田辰彦 大阪毎日新聞社 昭和6年)。
この資料に、西田仁兵衛についての重要な記事があることに気が付いた。
「第八章天ノ辻に移陣 四八、高野山に使者」
天誅組が高野山を味方に引き入れようとする工作が語られるくだりで、仁兵衛という人物が現れる。
「なほこの時、名迫(なごそ)方に抱へてゐた江戸生まれ仁兵衛なるもの「天朝組に相加はり候由、名迫より申出候」と「日並留記」にある。この仁兵衛といふは、治郎右衛門が江戸で抱へ居りし秘書であつて本名野村潤次郎とひ治郎右衛門に従い、富貴に来り、同家に出入りする乾十郎と懇意になり、乾より大義名分を説き聞かされ、凪に義党に通じて居たものである。」
名迫治郎右衛門は紀州藩領富貴の大庄屋だ。
富貴は天誅組が本営を置いた天の川辻と高野山の間にある山中の集落である。
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後に天誅組は富貴を焼き討ちすることになるが、これはそれより前、天誅組挙兵直後のことだ。
「天朝組」とあるが「天誅組」を当時そのように読んでいたのかもしれない。
名迫のもとに、天誅組の一人がまず使者として現れ高野山の動向を聴取する。高野山を味方に引き入れたい様子だ。
名迫が、言葉の上では間違いがあるので、文書をもってこいといって使者を返すと、上田宗児、土居左之助、尾崎騰五郎他、三十数人の天誅組が鉄砲十挺、槍十筋を携えてやってきた。
名迫は天誅組の使者と共に高野山へ赴くことになる。
ここに「仁兵衛」という人物が登場する。
記載されていることを整理すると以下の通りである。
①江戸生まれの仁兵衛という人物が天誅組に加わったと、庄屋の名迫が申し出ている。
②仁兵衛は名迫が江戸で雇った秘書である。名迫に従って富貴に来た。
③仁兵衛の本名は野村潤次郎である。
④仁兵衛は名迫家に出入りする乾十郎と懇意で、乾に勧誘されて天誅組に加盟した。
なお、『いはゆる天誅組義挙の研究』には西田仁兵衛の名は、一か所にのみ登場する。
天誅組記録方伴林光平。伴林の奈良奉行所での証言が引用されており、その中で、伴林が十津川から脱出する際の同行者として「西田仁兵衛」をあげている。
すなわち本文には、「西田仁兵衛」のフルネームでは出てこないのだ。
おそらくこの書の著者の頭の中では、西田仁兵衛と野村潤次郎がひもついていなかったことが想起される。高野山でのくだりでも「仁兵衛」とのみ記載されているだけで、西田とは書かれていない。
その理由として、著者が松下村塾版の『大和日記』を参照していたことが推察される。
なぜなら、この書の冒頭に「天誅組か天忠組か」についての議論が書かれているが、その中で、『大和日記』には「天誅組」とあると記載されているからだ。
同じ『大和日記』でも半田門吉が書いたオリジナル版や石田英吉が所蔵したものには「天忠組」と書かれている。
また、松下村塾版の『大和日記』では、伴林光平が本隊に先立ち十津川郷を脱出した際に西田仁兵衛が同行したことが、なぜか削除されている。
『いはゆる天誅組義挙の研究』の伴林脱出の場面には、以下のような記載がある。
「「南山踏雲録」によると、西田稲夫も同行したことが知られる。」
実際には、伴林の著書「南山踏雲録」には西田稲夫も西田仁兵衛も出てこない。
著者は、なにか脚注のような解説がある資料を見たのかも知れない。例えば、安田與重郎編集の『南山踏雲録』には「西田稲夫」の記載がある。
このため、著者は西田稲夫を、富貴村に現れた『仁兵衛』と同一人物と認識していなかったのではないか。もしくは、それほど重視していなかったことが考えられる。
なので、富貴での記載を「仁兵衛」とのみ書いているのではないだろうか。
すなわち、伴林の証言にある西田仁兵衛が、富貴で天誅組に加盟した「仁兵衛」であると気が付いていなかったのではないだろうか。
この名迫治郎右衛門をめぐる富貴での話は、『日並留記』の一部『天朝浪人乱暴筋』に記載されているようである。
『日並留記』とは高野山勧学院に保存されている古文書で、『日並記』『勧学院文書』とも言われているようである。この文書は戦前活字化が試みられたが、太平洋戦争で中断したままになっている。
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和歌山県史に一部活字化されている文書が掲載されているが、残念ながら天誅組に関するものは見当たらない。
『いはゆる天誅組義挙の研究』には『天朝浪人乱暴筋』の表紙の写真まで掲載されている。
が、現物を見ることは出来ていない。今は、高野山霊宝館に保存されているという。
『いはゆる天誅組義挙の研究』の記載のどこまでが、日並留記に書かれているのか。興味のあるところではあるが、そこはまだわからない。
裏付けとなる資料にどの程度記述があるのかなど、確認すべきこともあるが、西田仁兵衛の前身について、ある程度見えてきたようにも思える。
そして、あらためて、ここに「野村潤次郎」という名前が出てきた。
そして、『いはゆる天誅組義挙の研究』の著者の認識はともかく、野村潤次郎はおそらくは西田仁兵衛と同一人物であろう。
江戸生まれの仁兵衛といえば、西田仁兵衛しかありえない。
『いはゆる天誅組義挙の研究』は天誅組の研究において基本資料ともいえるものである。
正直、個人的には痛い見落としとも思えた。
これにさえ気が付いていれば、もっと早くにいろんな事が明らかになったのにと。
しかし、前向きにとらえるならば、ここから、次の展開が始まったとも考えられる。
次回、明治の西田が現れる。
これまでのイメージと異なり、西田は、意外にもメジャーな場所に登場する。
(続く)