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明治天誅組 その⑤ 銀行集会の夜

元天誅組の西田仁兵衛。

野村潤次郎という変名を持っていた。

明治十年代の東京に、野村潤次郎は現れる。

『渋沢栄一伝記資料 第13巻 (実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 第10)』

東京株式取引所の明治十四年一月九日の株主総会決議録に、野村潤次郎の名前がある。

東京株式取引所の株主としてだ。

当日の、出席株主は五十七人。

渋沢栄一や渋沢喜作、三野村利助、福地源一郎ら、明治経済界のそうそうたるメンバーの中、野村は株主として総会に出席している。

以降の株主総会にも、野村は出席している。

明治十六年八月三十一日の株主総会。

取引所社屋の増築議案については、野村の「御同意に御座候」という意見が補記されている。

東京株式取引所は明治十一年設立。発起人は渋沢栄一である。

東京株式取引所の株は、取引所開設当時から、株式取引振興の観点から、取引所の取引銘柄の一つとして指定されていた。

明治十四年、東京株式取引所、株主総会記録

野村の名前は、少なくとも取引所開設時の株主名簿には無い。

おそらく、取引所開設以降に取引所で買いを入れて株主になったのではないかと思われる。

そのころの東京株式取引所(東株)の株価は160円から200円程度。今の400万円ぐらいと思われる。

当時、個人で投資として株式の売買を行っていた者はきわめてまれだったに違いない。

市場参加者の多くは、なんらか東証や経済界の関係者であったことが推察される。

この野村潤次郎は本当に西田仁兵衛なのだろうか。

明治四年に大坂に現れた西田は、反政府活動の関係者として捕縛されている。

北畠治房のもと、密偵をしていたようにも感じられる。

そのような西田仁兵衛のイメージから、東京株式取引所の株主という立場は、大きくかけ離れているように感じられる。

なぜ、唐突にこのようなところに西田はあらわれたのだろうか。

単なる同姓同名の別人なのか、詰めて言うと、厳密には判別がつかない。

が、渋沢の他の資料から手掛かりが見つかった。

『渋沢栄一伝記資料 第26巻 (実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 第23)』

東京銀行集会。後の全国銀行協会。

集会録に「壬午銀行」の肩書で野村潤次郎が主席していることが記載されている。

日付は明治十五年四月八日午後六時。場所は木挽町商法会議所。

銀座に近い。今の歌舞伎座の近くだ。

野村潤次郎は「壬午銀行」の関係者としてこの会議に出席している。

明治十五年東京銀行集会議事録

この日の議題は、商法講習所(現一橋大学)設立にあたっての寄付金割合であった。

渋沢栄一が議長を務めていた。

午後六時に始まった会議の終了は九時半。

寄付金割合の原案に異を唱える銀行が多く、会議が紛糾したようだ。

野村が発言した壬午銀行の意見が議事録にある。

「壬午銀行曰ク、本行創立ハ実ニ客月7日ニ在リテ、未ダ株金収領ノ完備ヲ得ズ。故に、金廿五円ニ引直シアラン事ヲ望ム」

この主張は認められた。もともと百円と割り当てられていた寄付金は四分の一に減額された。

壬午銀行は、大隈重信が設立した立憲改進党の資金集めのために設立されたと伝えられる。

ここまで来ると、野村潤次郎が西田仁兵衛であることはほぼ確実と思われる。

西田と共に、十津川郷を脱出した北畠治房(当時の名前は平岡鳩平)。

『土居通夫君伝』で、明治後も西田と交流があったことがわかっている。

大隈重信は、北畠の庇護者であり盟友でもある。

西田はその縁で、東証の関係者となり、壬午銀行の関係者となっていたものと考えて間違いないだろう。

壬午銀行での西田の肩書は分からない。

銀行集会に、壬午銀行の代表として参加していたことが記録されているのみである。

いずれにしても、明治十五年、銀座に近い商法会議所で西田仁兵衛は壬午銀行の関係者として、議長の渋沢栄一と会話をしていたのだ。

野村潤次郎の名前は少なくとも明治十八年頃まで東京株式取引所の株主名簿にある。

東京株式取引所や銀行関係者の間では、野村潤次郎は相応に知られている人物であったはずだ。

あの野村という男は、「実は天誅組の関係者だった」もしくは、「明治初年には、どうも密偵として活躍していた男のようだ」と、語られてはいなかったのだろうか。

(続く)


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