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宮田登編『柳田國男対談集』(1992 筑摩書房)
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読了。
1940年から1958年(戦前〜敗戦〜戦後)にかけての柳田國男とその周囲の文化人による対談集。
柳田にとっては60代半ば以降であり、晩年の『海上の道』(1961)につながる時期にあたる。
明治大正期以降の列島に住む日本人を「私たち」と措定し、その「エートス(行為態度)」のみならず「霊魂」にもふれる根拠となるメディアとしての民間伝承を蒐集しつづけた柳田の、直感も交えた言葉遣いによる理論の組み立てがとても興味深い。
たとえば近代より昔の人々のハレとケのコントラストについて。「お祭り、お正月、お盆という年に三度の興奮、あとは虫みたいな生活」という話し方には正直鼻につくエリーティズムと民衆への憧憬が入り交じっている。
また神話についても言及する。
柳田は幕末から明治にかけて日本の植民地化を防ぐためにネタとして国力増大のためのブーストとして使用され、その結果戦前戦中にはベタに受け取られブレーキが効かず破裂の原因の一つともなった『古事記』『日本書紀』に書いてあるものを神話とみなしていない。
もともと一つの村や一つの社を維持するものが神話であったから「記紀」を日本民族全体の神話とはみられないと述べる。
一方でその発言のあった対談の中で折口信夫が「日本の古伝承には神話にあたる語がない。神話とはまず宗教がありそれを合理化する資材としての説話詞章」と述べており、近代国家日本に「記紀」が用いられた構造をクリアに説明している。
また全編に明治初期生まれの柳田の生活実感にもとづく発言がぽろぽろ漏れており興味深い。
柳田は1875年に兵庫県に生まれ、12歳の頃茨城県の利根川沿いの布川に移っている。
「明治20年頃(※移転時)、関東では人々はたいがい跣(はだし)だった。関西ではみな草履だった」と実感にもとづく文化的差異を述べる。
ちなみに東京市内では1901年(明治34)に跣を禁ずる警視庁令が出された。
そして明らかに柳田が内面化しているのが分かる先に述べたエリーティズムといくらかのジェンダーバイアス、そして戦時中の自らを含めた知識人の態度についての後ろめたさが対談の端々から読み取れる。
「教育勅語、儒教、皇室」は現在の言葉で言うところの悪魔合体だったのでは、と解釈できる発言も見られた。
そんななかでの特筆はやはり1950年の折口信夫との対談だろう。
柳田は「私は現代から昔へ、お尻から登っていこうとしている。そこのつなぎをつけるために折口君の方も(古代から)もう少し(現代の方へ)降りてきてもらいたい。
ただそれでは折口君の古代研究と調和がつかないのでは」という懸念を表明する。
専門分野の時代が大きく隔たった巨大な二人の知性による対談のため話の振り幅が深く広い空中戦であり、非常に難易度が高い。
対談はマレビト信仰、客神、民俗学と民族学、ルース・ベネディクト『菊と刀』、歴史における政治体制基準の時代区分の弊害など多岐にわたる。
とくに時代区分の弊害については
「日本にはヨーロッパのルネサンスのようなものはおそらくなかった。ただだらだらじりじりと目立たず歴史が移り動いたのでは」
「朝廷から武士へ政権が移ったことは村にひっこんで田を耕す者への影響は微弱であり、だからこそそこに古い生活が残っており柳田自らの学問の動機となっている」と民俗学者らしい意見を述べる。
そんな柳田は1962年(昭和37)の高度成長期の最中に亡くなった。
『となりのトトロ』『三丁目の夕日』『こち亀 過去編』の風景がぎりぎり残っていた時代だ。
その後のオリンピック、万博を経たうえでの日本全国の郊外化や団地・ニュータウンを見たら柳田はなんと言っただろうか。
嘆きやぼやきも尽きないだろうが、一方で移民の増加による「私たち(日本民族)」の文化構造や型という定義の更新に注目しているかもしれない。