仏教に学ぶ生き方、考え方「海洋資源」
最近は鰻(うなぎ)と秋刀魚(さんま)の漁獲量が激減して、それとともに価格が高騰しています。温暖化で、捕れる魚の量や種類がどんどん変化していて、このままだと海洋資源が枯渇の危機に瀕し、和食文化自体にも影響が出てきそうです。
とここまで書いておいて、なにか他人事のように捉えている自分がいることに気づきました。温暖化にしても海洋資源の枯渇にしても大変だと言っておきながら、何も行動を変えようとしない自分がここにいる。でもせめてもっと考え方を変えなければとは思っています。
さて先ほどさり気なく使っていた「海洋資源」という言葉、これは魚介類の生産能力、またはその結果得られた物と言うことができます。必要以上に採らないように、そしてちゃんと育つ環境を整えるようにすることが大切ですよね?
でも仏教ではそもそも「命あるもの」を資源とは考えないのです。「六道輪廻」(ろくどうりんね)が信じられていた世の中では、どんな生き物でも前世は親となり子となり、友だちとなって一緒にいたかもしれないのです。「袖触れ合うも他生の縁」とはまさにそのことを言っています。
またお釈迦様の前世の話として「捨身飼虎」(しゃしんしこ)という逸話があります。これは聖徳太子が推古天皇に献上した「玉虫の厨子」(たまむしのずし)の右側面にも描かれています。
どんなお話かというと、お釈迦様が前世の「ジャータカ」という慈悲深い王子だったときに、森の中で飢えて動けない母虎と子虎に会いました。母虎はお腹が空いて今にも自分の子虎を食べようとしていたのを見て、王子は「自らの身体」を食べさせて、母虎が子虎達にお乳をやれるようにしようと決心をします。そして服を脱いで掛けから飛び降り、母虎に「王子の身体」を食べさせたのです。おかげで、母虎は子虎にお乳をやることができたというお話です。
いくらなんでもこれはやりすぎなような気がしますよね?「なにも自分が犠牲にならなくても、、、。」と思ってしまいます。
でも考えてみてください。皆さんが毎日おいしいと食べている生き物は皆このように「捨身飼虎」ならぬ「捨身飼人」をしているわけです。「相手の立場に立って考えよう!」と学校で教えられた皆さんなら、もし自分が魚や家畜という立場だったら、、、と考えられますよね?
いやいや、もうすでに「社畜」となって精も根も尽き果てるくらい吸われてますよ!と言われそうですが、まだまだあなたには「報酬」と「生命」がちゃんと保証されてます。食べ物になる生き物は、報酬もなく「食べられるためだけ」に命を投げ出しているのです。
それを当たり前のように何も感じずに「美味しい美味しい」と食べてしまっているのです。命を「資源」という物の材料でしか捉えられないのは、いかがなものでしょう?
まずは「残さず食べる」「感謝をしていただく」ことからはじめ、慈悲心を持って私たちの周りの環境を見ていくことが求められている時代なのかな?と感じています。
☆今日の一句☆
ありがたき
命をいただく
この命