「謝ったら死ぬ病」を子育てと介護で克服する(ほぼ強制治療)
手のかかる長男アキラを生んだ時、同じく、一足早く手のかかる子どもを授かったお友達から、
「これから、まさりちゃんも、あちこちに謝って回らないといけない日々になるよ」
という、恐ろしい呪い…というか、予言?をもらったのですが、確かにその通りになりました。
動き回り始めた頃から、赤ちゃん広場や園庭開放で一緒に遊んでいる子どもたちの親に謝りまくり、幼稚園に入ったら入ったで、
「アキラくんが○○君にケガをさせたので先方に謝ってください」
と、先生から連絡が来る度に謝りまくり。
そのたびに、
「あーもー、また謝りに行かないといけないのかーーーー」
と、気分が重くなったものです。
小さい頃はある程度、親の監督責任などもあるのでしょうがない部分はあると思います。でも、小学校の家庭訪問で、先生から、
「アキラ君、全然宿題してこないんですけど」
と、言われた時のこと。
「そーなんですよ。全然しないんですよー。困っちゃいますよねー」
と、ヘラヘラ答えたら、
「お母さんっっ!
しないんですよー、じゃないんですよーーー!!」
と、グッと手を捕まれて、なぜか私が怒られる(・∀・)
そのまま、アキラの代わりに「お母さんの監督責任がなっとらん、ちゃんと宿題させろ」と、恐ろしい顔で説教されまして(アキラはやばい空気を瞬時に察してどこかに逃げた。私も逃げたかったけど手を捕まれたので逃げられず)
「あ、はい。スミマセン、今後は気をつけるようにします」
と、不本意100%で謝ることに。
ちきしょー。宿題してないのはアキラなのに、なんでアキラじゃなくて私が怒られるんじゃー! 腹立つー。
最近「謝ったら死ぬ病」という言葉をよく聞きますけど、私なんか小さい頃はまさにソレですよね。
謝るの大嫌い。
自分に非がある場合はしょうがないので、やむを得ず意を決して謝りますけども、少しでも逃れられそうな隙間があったらそこから逃れたい。
なので、自分に非がないと思ってる場合なんて論外。絶対謝りたくない人でした。
*ちなみに、正統派の「謝ったら死ぬ病」は「自分に非があったとしても、屁理屈こねまくって絶対に謝らない人」みたい。私の場合は、自分に非があると思えばイヤイヤながらでも一応謝るので、そこまで重症ではないようです。
高校時代、友達何人かと屋内履きのまま外を歩いていたのを体育の(うるさい)先生に捕まり、体育教官室に正座させられ、激しく怒られたことがあります。
まあ、建前としては室内履きNGの場所なので怒られるのは間違ってないのですが、たいていの生徒がいつも室内履きで歩いてるところでもあり、その先生も普段、機嫌がよければ見て見ぬフリだったので、この時は完全に運が悪かった事案。
多分、その先生、かなり虫の居所が悪かったんでしょうねー。
正座スタートと同時に激しい罵詈雑言を浴びせられ、先生と生徒という上下関係を利用して、今で言うパワハラですよね。あーもー、思い出しても腹立つわー。
ついに何人かは泣き出してしまい、泣きながら何度も謝っていたため、
「よし、じゃあおまえは帰ってよし」
と、釈放されたのです。
先生もかなり言いたい放題言って、気分もだいぶスッキリしてきたのでしょう。
それを見ていた他の友達も「今なら、謝れば釈放される」と分かったので、次々に謝って釈放されました。
で、私1人だけ残ってしまったのです。
どうして謝らなかったのか。
その先生が罵詈雑言浴びせてる時に「校則違反したこと」「私の態度が悪いこと」だけに終始していれば、私も「腹立つけど、それはごもっともです」と思ってイヤイヤながら謝っていたと思います。
でも、その時に、
「おまえはろくな人間じゃない。おまえの親もどうせろくな人間じゃないだろ」
と、調子に乗って親の悪口まで言い始めたことでブチっと切れてしまったんですねぇ。
親は関係ねーやろ、と。
いや、まあ…今となっては、確かに母については「ろくな人間じゃない」というその指摘は、当たってないこともないような気がするるんですけどね↓
でも、父に関して言えば全くそんなことはない。
だいたい、私の両親に会ったこともないお前にそんな失礼なことを言われる筋合いはないんじゃ、このボケがー、と、当時の私は、若くてかなり血の気も多かったので、
「もー、絶対こいつには謝らない」
「もし向こうが謝ったら、謝ってやってもいい」
と、決意を固めてしまったのです。偉そうな上に頑固ですねー。若いわー。
*善人だった父との最後のアホな思い出↓
そして正座して1時間ほどでしたかね、罵詈雑言にも疲れた先生は、
「もういい、おまえはもうここでずっと正座しちょけー!」
と、どこかに行ってしまいました。
さらに1時間、2時間、放課後になってしまい、ひたすら正座する私のところに、当時の部活の顧問の先生が来て、
「どういう事情で正座しちょんかはわからんし、お前が謝りたくないっちゅーのはちゃんとした理由があるんやろう。
でもな、あの先生にはそんなこと言っても絶対わからんけん、ここは俺の顔に免じて形だけでいいけん、謝ってもらえんやろうか?」
と、コソッと提案してきたのです。
パワハラ先生は大嫌いでしたが、顧問の先生は普段から信頼して尊敬していたので、その先生からそんな風に言われてしまったら、イヤとは言えないですよねぇ。
こうなったら、私も大人にならなければー、と口をひん曲げながら、なんとか無理矢理謝ったのでした。すると、
「やっと謝ったか、分かればいいんじゃ」
と満足げな顔のパワハラ先生。
はーん? こっちは反省なんか微塵もしてねーわ。お前のためじゃない、私はなー、顧問の先生のために形式的に謝ってやったんじゃああーー、ぐぐぐぐ…ぐやじいいいい、こんなやつに謝りたくなんかなかったよおおおおおぉぉぉぅぅぅぅ…なんたる屈辱…ぐやじいいいよぉぉ、ぐやじいよおぉぉ、ひーん、ひーん。
怒ったり泣いたり忙しいんですけど、こうやって人は理不尽に耐え、大人になっていくわけですね。
そんな風だったので、大人になってからもなるべく謝らなくていいように、失敗して周りに迷惑かけたり、ミスしたりしないように、忘れ物や遅刻などもしないように気をつけるし、仕事も一生懸命やるわけです。(←そんなに気をつけてるくせにミスが多いのは一体どういうことだろうか…といつも思う)
とにかく「謝ったら死ぬ病」の私は、常に「謝る場面」がやってこないように気を張って一生懸命だし、程度の差はあれ「なるべく謝りたくない」っていうのはみんな同じでしょ、と思ってたのですが、お世話になってる美容師さんの一言に衝撃を受けました。
「私、謝るの全然平気ですよー」
え? うそ? ほんとに?
「自分に非がなくても全然謝れます」
ええー!すごい!…でも、自分が悪くないのに謝るってイヤじゃないの?
「ぜーんぜん! だって、私が謝ってその場が収まるなら話が早いし、カンタンじゃないですかー」
…お、おう。
「謝らないで悪い雰囲気が長引く方がイヤじゃないですか?」
なんと! 大人すぎるー!
世の中にはこういう考えの人もいるのかー。
自分に非がないと思っても、その場(?)のために謝罪の言葉を口にすることは全然ストレスにならないそうです。
いやー、私なんて「悪いと思ってないのに謝る」ってすごいストレスたまるので、その美容師さんみたいに「自分が悪くなくてもノーストレスで謝れる才能」ってうらやましいなーと単純に思ったのでした。
そして「謝る=自分が悪い」と思わなくていい、という認識に目からうろこポロポロでした。
そして、母の介護が始まり、子育ての時の非じゃないほど「自分以外の人のために謝って回る辛い日々」が始まりました。
しかも、子育ての時よりハードなのは「子どもは好きだけど母は嫌い」ということです。
嫌いな人のために、自分悪くないのに謝る
って相当ハードル高くないですか??
なんで私が謝らにゃならんのじゃ、って。
あーあ。人生ってほんと次々に難しい課題が出てくるんだなぁ。
その時に思い出したのが、先の美容師さんの話。
別に自分はそんなに悪くなくても「場を収めるために謝る」ことの尊さ(?)です。
若い頃は特に、誰かに「謝る」ごとに「ダメ人間」のスタンプをポチポチ押されるような気がしてイヤだったし、心にもない謝罪をしても意味ないんじゃないか、むしろ失礼なんじゃないか、という気持ちもあったのですが、世の中には形式的な謝罪が必要な時もある、ということが、子育て〜毒親介護を経て徐々に実感としてわかってきたんですねー(遅いか?)。
もちろん、形式的な対応ばかりしていたら壊れる人間関係もあると思いますし、あまりに形式バレバレなのは問題外ですけど、ちゃんと形式が必要な場面というのもあるよなー、と。
自分が直接的に悪いわけじゃないけど、私の関係者(?)が迷惑をかけて、目の前に怒っている人、困っている人がいる。
私が謝ることで、溜飲下げる人や、心が落ち着く人がいるんなら謝ればいいじゃないか、と。
謝っても死にはしない、と。
美容師さんの話を聞いて「場を収めるために自分悪くないけど謝る」=「自分が100%悪いわけではない」という思考が私の中にプラスされていたのは大きかったですね。
母の場合は、関係者責任比率は10%ぐらいでしょうか?
その10%の責任感で、母の尻拭いの日々も死なずに謝れるようになってきたのでした。
若い頃の私からすると、すごいね❗偉いね❗
がんばって「謝ったら死ぬ病」を克服してきたね❗って感じです。
…なんつって、まだ時々、理不尽な尻拭いに「キーーーっ」ってなる時もあるので。
精進します(・ω・)
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