『恋する寄生虫』読み終えた。 結末が印象的だった。
読書週間2冊目。 『恋する寄生虫』(三秋縋)読書中。
『レインツリーの国』読み終わった! 伸行がすごく大人に感じた。おそらく同年代なのに悔しい。
読書週間を意識している。 『レインツリーの国』(有川浩)読書中。
私は大学で4年間かけて、「教員免許状」を手にした。 いわゆる一介の教員の卵としての大学生だった頃は、他の“なんとなく”大学に通っているような大学生とは違うのだぜと、4年間通う意義をそこに見出していた。 ところが、私は大学卒業後、教員の道を早々にドロップアウトした。 軟弱へっぽこ人間である私には到底つとまる職業ではなかったのである。 ああ、夢破れて教員免許状あり。 教員免許状は意外と厄介なもので、履歴書に書いておくと面接で「教員免許持ってるんですねぇ」となって、突っ込む人に
「子どもが好き」と大っぴらに言う人のことを、私は注意深く見ている。 なぜ「好き」と言うのかに注目している。 見た感じが小さくて愛らしいという意味であれば、よく発されるのは「かわいい」であると思うから、わざわざ「好き」とまでは言わない気がする。 言動が幼い(拙いとほぼ同値)ところに「好き」ポイントを見出しているのだとすれば、それはなぜだろうかと深掘りしたくなる。 おそらく、今は大人として在る自分から見て、幼い頃の様子は「理解が容易い」し、「その後の発達が俯瞰できる(見通せる
たいそうなタイトルをつけたが、本の読み方は全く自由でいいのであるという前提のもと、私の好きな読み方を述べる。 一般的な印象として、「教養が身につく」とか、「人間性が高まる」とか、そういった成長志向の目的があると思う。これはこれで、読書の意義の一つであると思う。 かつては私もこのような効果を期待して読んでいたときがある。 しかし、教養や人間性は、そんなにすぐに高まらないのである。 そう思うと、このような目的で読むならば、長く続ける必要があるが、効果が見えないから続かないとい
小学生の頃というのは、給食が主なお昼ご飯になるわけで、お弁当を食べる機会は珍しいことであった。 学校の給食には、必ずにんじんがどこかの食材に使われているらしいが、私の母が作るお弁当にも必ず入っているのものがあった。 それが、たまごやきである。 お弁当のたまごやきと聞くと、たまごやき器で作られた、薄い卵の層を重ねて巻いていくものを思い浮かべる人が多いであろう。かくいう私も、そういう整った形のたまごやきが一般的であると感じていた。 しかし、私の母が作るたまごやきは、丸い普通の
「飲み会」といえば、 世代間のギャップ 飲める許容量の違い 盛り上がり方 作法(暗黙の了解ともいうべきか) など、意識しなければならないことが多いイベントだと感じる。 直截に言ってしまえば、うっとうしい! こと、この上ないのである。 詳しく述べたい。 「世代間のギャップ」とは、飲み会に対する意識の違い(ノミュニケーションと捉えるか、苦行と捉えるか)にとどまらず、先輩を後輩は立てるべきだという各種のシステム(上座下座制、注いで返杯をいただく等)に現れるギャップを
社会の中で他人と否応なしに関わりながら生きていると、無意識のうちに人と自分を比較してしまうのは社会的動物である人間の性であると思う。 自分より凄いやつはキリがなく、自分の方がマシだと思えるやつも底がない。いつ見ても赤の他人の隣の芝生は青々としている。 そして、人と比べると、基本的には自分に嫌気がさして気分が落ち込む。全然ダメだなぁ、羨ましいなぁと思ったり、あるいは少し入り込むと、バカにされてるんじゃないかと勘ぐって自分が恥ずかしくなったりする。 私自身は、新卒で正規で働
幼い頃には誰しも思ったのではないか。 「この世界の中心は自分であり、自分は主人公である」と。 そう捉えているときの思考は、よく言われる「自分の人生の主人公は自分である」と思うこととは大きく離れている。 前者の自分の存在の捉え方を「世界の中心の自分」とし、後者を「数ある中の自分世界」とすると、成長するとは前者から後者へと捉え方を変革していくことのように思える。 少なくとも私自身はそう思っている。 幼い頃は「世界の中心の自分」であった私が、その他の数多くの「世界の中心の自分
日々感じたことや思ったこと、考えたことなど、文章にして書き残しておきたいことを綴るためにnote始めます! まずは今の自分のことを書いておきます。 都内の国立大学教育学部を卒業して1年 来年度から契約社員として働く(予定) 趣味は読書とYouTubeと漢字 読書は主に小説を月2冊ペースで読む YouTubeはゲーム実況(TOP4)をよく見る 漢字は漢検準1級に合格済みで、1級合格を目指して勉強中 言葉に敏感で、言葉を大切に使える人でありたいと思っています。 言