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すべて自分のための演技という妄想

幼い頃には誰しも思ったのではないか。
「この世界の中心は自分であり、自分は主人公である」と。

そう捉えているときの思考は、よく言われる「自分の人生の主人公は自分である」と思うこととは大きく離れている。

前者の自分の存在の捉え方を「世界の中心の自分」とし、後者を「数ある中の自分世界」とすると、成長するとは前者から後者へと捉え方を変革していくことのように思える。
少なくとも私自身はそう思っている。

幼い頃は「世界の中心の自分」であった私が、その他の数多くの「世界の中心の自分」である幼い他人や、「数ある中の自分世界」を生きている成長した他人と出会うことで、ひとにはひとの世界があり、そのようなひとがたくさん生きる世界の中心は自分ではなかったことに気づく。

しかし、幼い頃に比べて成長した今でも、ふと思うときがある。
成長過程でもずっと、ふとしたときに思っていたことがある。
それは、「やっぱりこの世界の中心は自分であり、自分は主人公である」ということだ。

そう思うと、自分以外の他人(家族も含めて)は、すべて自分のために動いていると考えることができる。
もっと砕いて言えば、私自身が見ている世界を構成するために、他人はそれぞれに与えられた役割を演じているという捉え方だ。
例えば、家族に関しては、私から見た母親は怒りっぽく、父親は放任主義で、妹は自由奔放な、という印象を装っているのである(あくまで一要素であり、私の家族は素敵な人たちであることを添えておく)。
友人や職場の人はそれぞれに、私にとってイイ人、イヤな人などを演じていて、私の知らない(関わりがない)人たちは私に知覚されるときにその役割を現して犯罪者や政治家やノーベル賞受賞者になる。
道ですれ違う人でさえ、その一瞬の印象のための役割を演じている。

私が知覚し得ないところでは、彼らは休憩をしているか、はたまた存在しないのである。
私の前でだけ役割を演じて、その対価をもらって自由な時間を過ごしているか、はたまた演じ終えた途端に存在ごと雲散霧消である。
テレビで流れるニュースも、身辺に迫った出来事も、すべてが私の前にのみ提示される茶番であり、大谷翔平の結婚も、戦争も、裏金問題も、それに盛り上がる群衆も、祖母の身体のあちこちが痛いことも、私が面接を通らないことも、私以外の他者には実際に存在しない事象であり、そもそも世界に実存するのは私しかいない。
そうだ、世界には実質的には私しかいないのだ。

そんな風にふと思うと、私は不思議な感覚になる。
世界が崩れていきかねない感覚といえばよいのか、空漠とした寂しさといえばよいのか。
そして、「そんなことはありえない!」と、毎度必ず現実に戻るのである。
今回も、現実に戻ってくることができた。

しかし、次にその捉え方に、感覚にはまったとき、私は現実に戻ることはできるのだろうか。


いささか自己中心的と思われるかもしれないが、内面で思っていることであって、他者と関わるときには意識にも上らないため、実際には他者をないがしろにしているわけではないことを補足しておく。

あくまで頭の中の思考遊戯、すなわち妄想に過ぎない

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