飲み会にまつわるエトセトラ
「飲み会」といえば、
世代間のギャップ
飲める許容量の違い
盛り上がり方
作法(暗黙の了解ともいうべきか)
など、意識しなければならないことが多いイベントだと感じる。
直截に言ってしまえば、うっとうしい! こと、この上ないのである。
詳しく述べたい。
「世代間のギャップ」とは、飲み会に対する意識の違い(ノミュニケーションと捉えるか、苦行と捉えるか)にとどまらず、先輩を後輩は立てるべきだという各種のシステム(上座下座制、注いで返杯をいただく等)に現れるギャップを指す。うっとうしい。
「飲める許容量の違い」とは、あまり飲めない者にも飲ませたがる雰囲気、それがよしとされてしまう飲める者たちの圧迫、潰れて迷惑をかける飲める人、飲めない人(こちらは同情の余地あり)の交々。うっとうしい。
「盛り上がり方」とは、コールやゲーム等は愚の骨頂であるが、飲み会は楽しまないとという取り繕った者たちの狂宴、密着が過ぎるタガの外れた雌雄、おもしろ至上主義が主張を強めるなど、酒精を摂取して盛り上がることを至上命令とする迷惑行為である。うっとうしい。
「作法」とは、乾杯や注ぎ方、勘定の前の魔の間など、細かなところでピリつかなければならない事柄の全てである。こんなところで、微に入り細を穿つ気力を使いたくはない。うっとうしい。
ということで、私は基本的には「飲み会」が好きではない。
関係上の理由で出席することもあるが、必ずイヤな気持ちになる。
閉鎖的な環境で、楽しもうと顔面を引きつらせて、楽しめない自分に嫌気がさして、楽しんでいる他者を忌み嫌って、私は「飲み会」に向いていない。
盛り上がっているところ悪いが、「恥ずかしくないのか」と思ってしまう。
恥ずかしさを捨てて、酒精に酔うというのなら、私はそこまでして酒を飲みたいとは思わないし、そんな人たちとは場を分かち合う必要もないと思う。
大学からの各種「飲み会」が、私を遠ざけてきたのである。
抽象度を上げれば、「閉鎖的で恥ずかしさを感じない者たちのおもしろ至上主義的な環境」が、私は好きではないという結論に至る。
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