体育会系のメンタルとアスリート系のメンタルの違いとは「自己肯定感の違い」
何故か下記拙稿が読まれているので、関連記事にしようと思います。
少しだけ前置き
少しだけ前置きしておきますが、読み進める方は「体育会系」と「アスリート系」を区別した上で読み進めてください。
「体育会系」というのは、体育会系文化に対して何らかの帰属意識を持つ人間です。
ゆえに、体育会系に限定しません。
私見の限りですが、所謂「体育会系文化」とは、文化系部活動のはずの吹奏楽部や合唱部にもあるように見受けられます。
(文化系部活動でなかった私の偏見ですが。)
一方、「アスリート系」とは、拙稿ではそのまま「アスリート」を意味します。
「トッププレイヤー」としたほうがわかりやすいようにも思います。
けれどもトッププレイヤーに限った話でもなく、トップチーム、及び、トップチームの下部組織のイメージです。
自分に出来ることは誰にでも出来る?
前置きはここまでにして、本題に入ります。
体育会系のメンタルとアスリート系のメンタルの何が違うと述べたいのか。
自己肯定感の有無なんです。
体育会系の人間は「自分に出来ることは誰にでも出来る」と言います。
自己肯定感の欠乏によるものです。
体育会系でありながら、体育の本質をわかろうとせず、「(劣等な)自分みたいなもんでさえ出来る」と思っているからなんです。
自己肯定感が歪んでしまっているからなんです。
そんなもの、誰にでも出来るわけがないのです。
よりにもよって、体育会系を自称しながらそれを言うのでタチが悪い。
自己肯定感があるなら、自分の能力を肯定できていたなら「自分に出来ることは誰にでも出来る」ということは言えません。
選考は何によって為されるか
スポーツの選考は何によって為されますか。
選考時点でのパフォーマンスです。
そのパフォーマンスには体格や体力を含みます。
アンダーの選手選考を思い浮かべてください。
アンダーの子たちは大きい子ばっかりが選ばれるというのは間違いではあります。しかしながら、間違いとも言い切れないものです。
パフォーマンスは体格や体力を含むのですから。
体格を補って余りある技術があれば、別問題にはなってきます。
しかしながら、「あれば」の話。
技術だけを比べれば誰々のほうが、というのは、ナンセンスな話なんです。
問われているのは技術でなく選手ですから。
補って余りあるだけの技術でないということ。
そんな世界がスポーツの世界なんです。
先天的な体格や体力を加味されているのです。
先天的な能力の軽視
体育会系の人間は先天的な能力を軽視します。
努力すれば何とかなると思ってしまうから。
自分自身の先天的な能力に対して「メタ思考」が出来ていないからなんです。
体格や体力はあるのが普通。あるのが当然。
自分みたいな劣等生物みたいなもんにさえ出来ることは誰にでも出来ないとおかしい。
そういう歪みが体育会系の人間にはあります。
ただの歪みでしかないのです。
そこまで自分を劣等生物扱いする必要があるのか説明できる体育会系の人間がいますか。
「誰にでも出来る」という言葉は、自己肯定感を欠き、自己否定感に満ちてしまっているからこそ発せられるように見受けられます。
先天的な能力の相対化
私見の限り、アスリート系には見られません。
体格や体力を補って余りあるぐらいの技術にしてきたからだと思います。
スポーツは体格検査ではないので、体格だけでは決まりません。
しかしながら、体格で有利も不利もあります。
体格に恵まれていながら技術が追いついていない選手では負けてしまいます。
技術があっても体格を補って余りあるところまでずば抜けていないと負けてしまいます。
アスリートには先天的な能力を相対化することが出来ているんです。
ゆえに「誰にでも出来る」とは言いません。
一握りの人間だけがトッププレイヤーでいられる現実があるため、軽々しく言わないのです。
「僕たちなら出来ておかないといけない」という義務感は「僕たち」に対して「のみ」向けられているものです。
一握りのトッププレイヤーに対して「のみ」。
「歪んでいない形での」自己肯定感の発露であるように、私には見受けられます。