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「〈社会包摂〉をめざす〈アウトリーチ〉」の理念と実践を理解するための補助線:2010年代以降の文化施策が踏まえている二つの文脈

この文章では、2010年代以降、文化芸術の現場でキーワードとなっている「〈社会包摂〉をめざす〈アウトリーチ〉」という概念について、主に文化施策史や美術史などの歴史的な経緯を振り返りながら、順を追って整理していこうとしています。なお参考文献一覧は末尾をご確認ください。


〈社会包摂〉をめざす〈アウトリーチ〉?

2017年、「文化芸術振興基本法」が「文化芸術基本法」と改まりました。この改正の主眼を端的に示す新設の第二条第10項では、「文化芸術に関する施策の推進に当たっては、文化芸術により生み出される様々な価値を文化芸術の継承、発展及び創造に活用することが重要であることに鑑み、文化芸術の固有の意義と価値を尊重しつつ、観光、まちづくり、国際交流、福祉、教育、産業その他の各関連分野における施策との有機的な連携が図られるよう配慮されなければならない。」とあります。これはつまり、文化芸術が素朴に「振興の対象」とされてきた旧法から一転、「様々な領域と連携して価値を発揮する役割を持つもの」として文化芸術が位置付けられ、またその価値創造によって更なる文化芸術の発展を目指すものとされました。

例示されている連携分野や続く条文を見れば察しがつくように、この改正には、経済産業省のクールジャパン推進政策、総務省の地方創生政策、農林水産省を中心とする和食文化の保護・継承活動、そして2020年に開催予定だった東京オリンピック・パラリンピックを見据えた外交・観光分野の強化など、様々な利害が反映されていました(干場2018)。ゆえにこの新法をどのように理解するかにはそれぞれの立場があるかと思いますが、文化行政や施策を担う人びと、および現場のアーティストやコーディネーターたちが高い関心を寄せている事柄のひとつが、今回のテーマである〈社会包摂〉というキーワードです。

例えばこの例示の中に「まちづくり」「国際交流」「福祉」「教育」などがあり、また同条第3項で「国民がその年齢、障害の有無、経済的な状況又は居住する地域にかかわらず等しく、文化芸術を鑑賞し、これに参加し、又はこれを創造することができるような環境の整備が図られなければならない」とされたように、いかなる人であっても等しく文化芸術やそれが連携する現場において包摂されていかなくてはならないとする考え方が、今日的な文化芸術活動の指針だとされるようになりました。

これは少しさかのぼり、2011年に閣議決定された「文化芸術の振興に関する基本的な方針(第3次)」にその源流を見ることができます(文化庁×九州大学 共同研究チーム2019)。同方針では、「文化芸術は、子ども・若者や高齢者、障害者、失業者、在留外国人等にも社会参加の機会をひらく社会的基盤となり得るものであり、昨今、そのような社会包摂の機能も注目されつつある。」として、「誰もがそのままで居場所を手にできる」「違う人びとが違ったまま暮らすことができる」ことを理念とする「社会包摂」に大いに貢献できるものとして、文化芸術に期待が寄せられました。

これを受けて京都市、札幌市、新潟市、福岡市、そして僕がいる堺市などで、いわゆる「文化芸術を通した社会包摂」「文化芸術を通した社会課題解決」を目指した推進基本計画/ビジョンが策定されてきました(文化芸術基本法は各自治体に推進基本計画を定めることに努めよとしています)。この推進基本計画に沿って各自治体では「施策」が実行されます。それは、自治体・外郭団体・指定管理者等による主催文化事業、アーティスト支援(補助金、研修、相談)、情報発信等の具体的な事業として展開されています。

こういった経緯でこのところ僕の職場でもよく施策として話題に挙がる「社会包摂をめざすアウトリーチ」について、その概念を改めて整理するのが、この文章の目的です。前置きがかなり長くなりすみませんが、もう少しだけ続きます。「アウトリーチ」とは公共ホールや音楽団体(プロオケなど)、もしくは僕たちのような文化振興財団/事業団が、従来音楽や美術が提供される音楽ホールや美術館ではなく、学校や病院、商店街などに出向いて、とりわけ文化芸術に触れる機会の少ない方々に演奏や表現を提供することを理念として取り組まれてきた文化事業です(と、さしあたり説明しておきます)。

この「アウトリーチ」(という用語)を「社会包摂」と接続させてその意義を唱えたのは、参議院事務局発行『立法と調査』第322号に掲載された小林美津江「公立文化施設による地域活性化:アウトリーチと社会包摂」がおそらく最初ではないかと思われます(小林2011)。ここでのアウトリーチとは後に詳しく説明する一般財団法人地域創造の展開する事業を念頭に置いていますが、小林は地域創造が人口減少時代におけるコミュニティ機能維持と公共施設活用の文脈で活動していることを踏まえたうえで、「今後は社会的包摂の視点を持ったワークショップ型のアウトリーチ活動を継続的に行うことの重要性はますます高まっていくと考えられる。」と述べています。

さて、この「社会包摂をめざすアウトリーチ」について、今日の社会が要請するところとその理念はよくわかるのですが、それ以上具体的に事業を進めるにあたっては、もう少し話を整理しないとよく分からないな、と思ったのが、僕が今回この文章を書こうと思った動機です。特に、アウトリーチをさきほど説明したような意味で理解して取り組んできた現場の方々には、「この新しい方向性に沿って何をすればよいかイメージが湧きづらい」と感じているのではないかと想像しています。

実は、この「社会包摂をめざすアウトリーチ」という新しい概念を、これまでアウトリーチが辿ってきた歴史・文脈のうえ「だけ」で考えようとするのは少し無理があります。その理由は大きく二つあり、先取りすると、①「アウトリーチ」は戦後史の中でその概念・役割の幅を次第に広げてきたにもかかわらず、まだ多くの現場ではそれに応答しきれていない、②現在「社会包摂」系の事例として取り上げられるワークショップやプログラムの多くは、クラシック音楽や近代美術だけでなく、現代アートの文脈から立ち現れており、それらはまた違った思想に基づいている、ということです。

このうち①についてはすでにいくつかの文献が指摘しているところです。ただ②については、十分承知している人とそうでない人がいるのではと思います。特に、アウトリーチをさきほど説明したような意味で理解して取り組んできた現場の方々はおそらくそうなのではないかと、僕は感じています。

このことを整理するために、以下ではまず「アウトリーチ」の歴史を概観します。そのうえで現在の思想的広がりと現状を確認します。そして次に、「社会包摂」系のプログラムの発生経路として大きく影響を持つ、現代芸術の中の「アートプロジェクト」の歴史を概観したいと思います。この両者を改めて振り返ることにより、今回のテーマである「社会包摂をめざすアウトリーチ」の理念や、これからの実践の方向性が、よりクリアに見えてくることが出来ればと思います。

アウトリーチ——移動音楽教室、地域活性化、総合の授業

よく解説される内容ではありますが、「アウトリーチ/Outreach」とは「手を差し伸べる」という意味を持つ、もともとは社会福祉分野で用いられていた概念です。そしてそれが文化芸術の分野で用いられるときは、先ほども書いたように、とりわけ文化芸術に触れる機会の少ない方々に演奏や表現を提供することを理念として取り組まれてきた訪問コンサートやワークショップのことを指しており、いまだにその捉え方は一定支配的だと言えます。この用語がわが国の文化芸術分野で用いられるようになったのは1996年が最初と言われており、それはその後2010年に、後述する一般財団法人地域創造が発行した『新・アウトリーチのすすめ』の中で体系化されました。

もっとも、このようにアウトリーチという言葉が用いられるよりずっと前から「アウトリーチ」は存在していました。戦後最も早い記録では、1947年に群馬交響楽団が小学校移動音楽教室を開いています。それに続く形で1950年には文部省が地方公演を支援するようになります(今の文化庁公演の元祖だと思われます)。そして1968年に文化庁が発足して以降は、1974年にこども芸術劇場、1984年に中学校芸術鑑賞教室が実施されます。以上のような施策は一貫して、よい芸術を広く提供することを理念においていました。

その潮目が変わったのが、1994年に自治省(現総務省)の管轄下で地方公共団体の出捐により発足した財団法人地域創造(現在は一般財団法人地域創造、以下「地域創造」)の登場です。当時の自治省、そして現在の総務省は20世紀後半から深刻化する地方都市の人口減少と、バブル期に乱立した公共施設の稼働率低下の克服を至上命題としており(今もそうです)、地域創造とは、それをソフト面で解決するために文化事業を活用する目的で設立された団体でした(1999年~平成の大合併)。そして設立の4年後(1998年)から開始し現在まで続く「公共ホール音楽活性化事業(通称:おんかつ)」こそが、小林が念頭に置いていた「アウトリーチ」ですが、これはあくまでホールの存在を前提として、ホール活用と地域の活性化を実現することが期待された事業でした。

そしてもう一つ大きなポイントが、2002年に施行された学習指導要領において新しく「総合的な学習の時間」が設けられたことです。同じくこの要領では「音楽」において和楽器の授業が追加されたこともあり、学校現場は音楽をはじめとする外部人材・外部専門家を強く必要とするようになりました。すごく雑に言ってしまえば、「総合」を消化してくれるアウトリーチや、教師では対応できない音楽の授業をしてくれることが、学校としてとてもありがたかったわけです。ここに至り、アウトリーチの中でも学校を対象としたものは、戦後すぐから続いていた「よい芸術を広く提供すること」だけではなく、指導要領に基づいた教育ニーズの回収が求められるようになりました。そしてそれが地方公演の場合には、地方ホール活用や地域活性化の文脈とも接続するようになったのです。

こうした歴史と並行する形で、地域創造設立の2年前である1992年には文化政策学会が発足しています。また2001年には旧法である文化芸術振興基本法が制定され、居住地に関わらず等しく文化芸術が享受されなければならない旨が明記されました。これは地域活性化と連動していると言えるでしょう。そして2003年には地方自治法が改正され、指定管理者制度が立ち上がりました。小泉民営化路線の一環として、今日に至る公共ホールの在り方がここで方向づけられることになります。

以上を改めて整理すると、戦後から世紀末までのアウトリーチとは「よい芸術を広く提供すること」だったところ、一方では公共ホール活用と人口減少地域の活性化を前提とするアウトリーチが生まれ、他方では学校でのアウトリーチが教育プログラム化して現在に至る、というのがアウトリーチの歴史だったということになります。

これは「アウトリーチ」の今日的な展開と言えます。その最たる要点が「よい芸術の提供」ではなく「現場の〈具体的な〉課題や目標(またはニーズ)にいかに応えていけるのか」であるところは、続くアートプロジェクトの特徴である「場の具体性」ともまさに関連してきます。

欧米でもアウトリーチは早くからコミュニティ・プログラム、あるいはエデュケーション・プログラムとして位置づけられており、子どもとのコミュニケーションやコミュニティとの関わり方を専門的に学んだ音楽家がアウトリーチを先導してきました。またプログラムの目的によっては、手法としてリトミックや音楽ワークショップの技術が求められるようになりました。

わが国でもそのような人材を育てなければならないという問題意識の下、神戸女学院大学(2001年~)、東京音楽大学(2005年~)、昭和音楽大学(2007年~)がアウトリーチを本格的に研究・実践するようになり(三大学連携は2009年から)、また2016年には大阪音楽大学でもミュージック・コミュニケーション専攻が開講して、音楽家が企画を考える訓練となる環境を大学として準備するようになりました。神戸女学院大学ら三大学連携を報告した津上智実は、こうした今日的なアウトリーチの要素を、①近代的な演奏会システムの超克、②人間的な営みとしての音楽、③音楽の根源的な力の快復、だとしました(津上2013)。

他方で、わが国の事例の多くではいわゆる訪問演奏的なプログラムから脱出できず、制作サイドがアーティストに現場の趣旨を伝え、またアーティストのやりたいことを現場に翻訳する、いわゆるコーディネーター的な機能が、もっと必要であるという指摘があります(砂田2007、林2013)。それは実際に僕自身も、これまでいくつかの現場を見聞きして感じたことでもあります。また先ほど紹介した「おんかつ」の年次報告書に目を通してみても、上述のような理念に呼応するにはまだまだ工夫が必要な事例が多くあるように感じられます。

いずれにしても「アウトリーチ」と呼ぶとき、そこで期待されていることは素朴な「訪問」や「提供」ではない、ということです。加えて僕は、仮に今日的なアウトリーチが「近代的な演奏会システムの超克」を念頭に置くのであれば、しばしば言われがちな「〈本物〉を届ける」という表現にもかなり注意が必要だと思っています。本物などない、とまでは言いませんが、仮にもアウトリーチが「エデュケーション・プログラム」なのであれば、何を本物かと見る視点の中には必ず権威が存在する、ということに無自覚な教育はあり得ない、と僕は考えています。

アートプロジェクト――場の具体性/ソーシャリー・エンゲイジド・アート——何が取り組むべき課題か

さて、このように「アウトリーチ」の歴史・文脈を駆け足で概観してきましたが、ここからはもう一方である、「社会包摂」についてどのような歴史・文脈があるのかについて見ていきたいと思います。ここであらかじめ申し添えておきますと、この「アウトリーチ」と「社会包摂」が全く別物というわけではなく、すでにお気づきのように、今日でも考え抜かれたアウトリーチは社会包摂的な問題意識にも立つことがあります。なのでこの文章は、「アウトリーチ」「社会包摂」それぞれが生まれ辿ってきた経緯を一旦分けて考えることで整理がしやすくなる、言ってみれば「補助線」のようなものだと思っていただければ幸いです。

そう断ったうえで、いきなりあえてかなり図式的に表現すれば、「アウトリーチ」が近代芸術的な、言ってみれば「届けるべきよき芸術」の存在を前提とした啓蒙的なところから出発していると言えます。それに対して「社会包摂(的なプロジェクト)」はどちらかと言えば現代芸術的な性格があると言えます。言い換えると、それは「届けるべき何か」から出発するのではなく、ある場所/場から立ち現れる価値を可視化したり表現したりするメディアとして音楽・美術・演劇・ダンス等を活用するような活動だと言えます。

例えば若者の就労支援や、団地に住む高齢者の居場所づくりを音楽ワークショップによって実現したり(日本センチュリー交響楽団)、ルールを色々と組み替えることで障害者と健常者の立場が逆転するようなスポーツ大会を開催したり(世界ゆるスポーツ協会)、水面上のダムで沈んだ家屋の真上にLEDをともす光景を見ながら、ダムで分断された住民たちの関係性を取り戻す試みをしたり(天若湖アートプロジェクト)。

実践者たちは簡単に括られることを拒むかもしれませんが、これらにはどこか「アウトリーチ」とは違うことが分かるかと思います。それはまず、「何を取り組むべき課題とするか」「そこはどういうところか/どんな人たちがいるか」から出発していること、そしてその表現として多様な「芸術」が用いられていることです。

こうした取り組みは第二次大戦後の現代芸術の文脈で、「アートプロジェクト」と呼ばれてきました。その出自は美術ですが、20世紀以降、絵画や彫刻、そして舞台芸術や音楽が新たな表現を目指して脱ジャンル的になり、技術的になり、パフォーマンス的になることで、戦後の現代芸術の基礎を作りました。

以下は主に熊倉純子『アートプロジェクト』に依拠しながら歴史を概観していきます(熊倉2014)。まず熊倉によれば「アートプロジェクト」とは1990年代以降日本各地で見られるようになった芸術活動であり、「作品展示にとどまらず、同時代の社会の中に入り込んで、個別の社会的事象と関わりながら展開される。既存の回路とは異なる接続/接触のきっかけとなることで、新たな芸術的/社会的文脈を創造する活動といえる」として、制作プロセスを重視し、プロジェクトに際して場の文脈を踏まえ、複数の人びとの協働で実現する、そして芸術以外の社会分野に働きかける活動であると説明しています。このわが国における源流は、1954年の具体美術協会が行った野外展や1963年まで開催されていた読売アンデパンダン展に求められます。ここにおいて作家たちは、既存の制度/装置である美術館を相対化/否定し、さまざまな空間に展示の可能性を求めました。

このように1970年頃までは「空間」が作家の関心の対象だったところ、熊倉によれば1980年~1990年には徐々にその関心が「空間」から「場」に移るとしています。そのメルクマールのひとつが1988~1989年開催の「アートキャンプ白州」です。これは舞踏家の田中泯が自らのカンパニーを率いて山梨県白州町(限北杜市)に移住したことがきっかけで生まれたフェスティバルで、土地/場に「暮らす」ことがフェスティバルに持つ意味を熊倉は評価します。それは「社会の中に入り、個別の事象と関わりながら展開されるアート」として、90年代以降各地で立ち上がるアートプロジェクトの嚆矢とします。

さらに2000年になると、北川フラム「大地の芸術祭:越後妻有トリエンナーレ」が開催され、以降地方都市では地域芸術祭ブームが起こります。これを文化芸術の地域振興利用として否定的に見る向きもあり、確かに功罪ありますが、それぞれのフェスティバルが各地域に根差し、そこで具体的な関係性を築き、その中でその場に固有なアートが表現されていく様子は、僕には良くも悪くも、わが国のアートプロジェクトのひとつの完成形のようにも見えます。

以上が熊倉2014に主に依拠しながら概観したアートプロジェクトの歴史ですが、何よりもアートプロジェクトの特徴は「場の具体性」に着目し、それを起点としているところです。具体的な現場、地域、コミュニティから出発し、その固有性に立脚して作品制作やパフォーマンスを展開していく。そしてそのプロセス自体がその「具体的な場」への関与であり、その結果起こることこそがアートプロジェクトの目的とも言える。アートプロジェクトとはそのような行為なのです。

また、このアートプロジェクトと並べて語られる動向で、かつそれ自体重要な固有の特徴を持つ「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」について、併せて触れておきたいと思います。

まずソーシャリー・エンゲイジド・アートとは、あえてカタカナのままで使われている用語で、それは「engaged」の適訳がないことによります。そのまま訳せば「社会関与型の芸術」ですが、日本語の「関与」の語感よりももっと積極的に社会に問題意識をもって参画し働きかけていくようなタイプの芸術活動のことを指しています。

その源流は1960年代のウーマンリブや公民権運動などの政治活動にさかのぼります。女性や黒人、LGBTQ+といったいわゆるマイノリティの権利に関する運動、植民地主義批判、資本主義批判など、社会的・政治的な問題意識に基づいて活動を行うアーティストたちのプロジェクトこそが、このソーシャリー・エンゲイジド・アートです。アーティストが明確にこの意図を持って活動を始めた例のひとつが、1990年からニューヨークで開催された「リビング・アズ・フォーム展」で、日本では2014年に東京において巡回展が開催されています。そしてその翌年、2015年にはソーシャリー・エンゲイジド・アートを体系的に紹介したパブロ・エルゲラ『ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門』の邦訳が出版され、わが国にも徐々に広まるようになりました。ほんの一例だけあげれば、麻薬取引の拠点で発砲事件が絶えないメキシコの街で住民たちとともに銃を溶解してシャベルを作り、木を植えるプロジェクト〈銃をシャベルに〉があります(ペドロ・レイエス、2008年)。

このソーシャリー・エンゲイジド・アートは、第一に社会や政治に強い問題意識を持ち、その解決や変革を活動の目標としています。なので、作品の制作が最優先ではありません。むしろアートプロジェクトよりも徹底して、そのプロジェクトのプロセスに関わることで人びとがいかに変容したかが重視されています。星野太はクレア・ビショップの議論を引いて、こうしたソーシャリー・エンゲイジド・アートの傾向を、アートの「社会的転回」とそれに付随する「倫理的転回」と表現しています(星野2018)。

この「倫理的転回」は、今日の「社会包摂」を考えるうえで大切なキーワードとなります。つまり「社会包摂(的なプロジェクト)」を考えるうえでは、特定のジャンルにこだわる必要はなく、場合によっては作品の完成すら第一ではありません。最初に来るのは「いかなる課題を解決するのか」ということで、手法(art/技術)はその中から導かれるものだということです。もっとも、目的に応じてそれに適した芸術ジャンルがあることも確かであり、特にコーディネーターはそれを見極め、事業毎にアーティストを選び、連携していくことが重要となります。「作品はどうでもよい」とまで言い切るラディカルさをどこまで引き受けるかは人によると思いますが、アートと社会との関係におけるひとつの形を示したのが、このソーシャリー・エンゲイジド・アートでした。

以上のようなアートプロジェクト/ソーシャリー・エンゲイジド・アートの歴史に連動する社会の動向としては、まず1998年には日本アートマネジメント学会が発足し、アートプロジェクトを企画運営する側にまつわるマネジメント上の課題を分析研究する流れが生まれました。また同年にはいわゆるNPO法が施行されましたが、震災を契機として生まれたこの法律は、他方でアートNPOが主体となってアートプロジェクトを推進する動きにつながっていきます。そしてその動きをサポートする団体として、2006年にはNPO法人アートNPOリンクが設立されました。また2012年にはアーツカウンシル東京が発足し、文化芸術に関わる団体や個人を支援する制度が、わが国にも少しずつ定着する兆しが見えてきました。僕がいる堺市でも、まさに今年度から堺アーツカウンシルが発足しました。

アートプロジェクト/ソーシャリー・エンゲイジド・アートと「アウトリーチ」との関係——文化芸術基本法的なサイクルの中で

改めて整理しなくてはなりません。今回提示した二つの文脈とは、「アウトリーチ」と「社会包摂」という二つの概念が踏まえている歴史的な経緯でした。非常に図式的な表現であることを承知で繰り返せば、アウトリーチとは近代芸術的で、社会包摂的なプロジェクトは現代芸術的です。この図式をさらに簡略化すれば、モノ的な「作品」の芸術とコト的な「場」の芸術との対比、とも言うことができると思います。

もちろんすでに見たように、事業としてのアウトリーチでは、1998年以降の地域創造事業開始、2002年以降の総合的な学習の時間設置以降、①地域課題への取り組み、②学校教育との連携、③その中でコト的な価値の発揮が重要だとされてきました。ただその中で神戸女学院大学のような事例がある一方で、すでに言及したように、わが国の多くの事例は、当初の「移動音楽教室」的なイメージにあまりにも引きずられ、コミュニティ・プログラムやエデュケーション・プログラムになり切れていないケースが多いと言われています。つまり、「アウトリーチとは訪問演奏/訪問ワークショップだ」というイメージは、地域創造や「総合」を経て今日に至るまで、わが国文化事業の相場であり続けたということでしょう。もしくは、いかに個々のアウトリーチが近代的な芸術観の強い影響のもとにあるか、それを客観視するフレームがまだ広く共有されていない、ということなのかもしれません。

そんなアウトリーチだからこそ、「社会包摂」の理念と出会うためには段階を踏んだ整理が必要だと感じており、この文章が少しでも参考になればと思います。社会包摂を念頭に置くプロジェクトは、その多くがアートプロジェクトであり、それは古くは、かつての移動音楽教室のように「ハコ」から飛び出して、既存の制度とは違う表現を求めるところから始まりました。ただ、アウトリーチと決定的に違うところは、戦後の現代アーティストたちが、「ハコの外ならではの表現」を求めていたのに対し、アウトリーチでは訪問先でも「ハコ」に近い芸術の再現が大切なので、音響や楽器の調子が優先されがちだということです。この違いはすなわち、ある場所に特有の芸術とはいかなるものかを問う〈アートプロジェクト的思考〉と、よき芸術をいかにして届けるかという〈アウトリーチ的思考〉との違いにつながっています。

ちなみに、日本センチュリー交響楽団が実施したコミュニティ・プログラム/アートプロジェクトでは、ワークショップの成果として最終的に楽曲が完成しており、それらを同楽団はコンサートで演目として取り上げたことがありました。振り返れば、このたびの文化芸術基本法は、文化芸術が社会の関連分野に関わり価値を発揮することで、その結果新たな文化芸術の価値が生まれるというサイクルを理念としていました。アートプロジェクト的な活動が「社会の関連分野に関わり価値を発揮すること」であり、そこで生まれた価値/よき芸術を広く届けるのがアウトリーチ的な活動だとすれば、アートプロジェクトとアウトリーチは相補的で、言ってみればサイクルの両輪でもあるわけです。

そしてやはり、ある事業が「社会包摂」だというときには、何より「倫理」の部分が重要になってきます。そして「倫理」から出発する、つまり何が向き合うべき問題・課題かから出発するプロジェクトを企画実施しようとしたときには、すでに指摘されているように制作者は相当「コーディネーター」になることが求められます。あるいは、アートキャンプ白州の田中泯が地域で暮らしながらフェスティバルを開いたように、企画者がまず地域に深く入り、地域のことを知り、そこでいかなる場を作ることができるかを考えることから出発するような動き/体の使い方こそが求められているのだと思います。この点が今日「社会包摂をめざすアウトリーチ」を企画するうえでもっとも難しく、やりがいのあるポイントなのだと、僕は思っています。

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以上、いささか長文となりましたが、今回は「〈社会包摂〉をめざす〈アウトリーチ〉」の理念と実践を理解するために、それぞれの歴史的な経緯をさかのぼりながら「補助線」を引いてみました。図式的な話に終始してしまったところはありますが、現場で行われていることを理論的に把握する「補助線」となれば幸いです。


■干場辰夫(2018)「文化芸術基本法の成立:文化芸術振興基本法改正の背景・過程・改正内容・残された課題」『昭和音楽大学研究紀要』第37巻,pp.96-114.
■文化庁×九州大学 共同研究チーム編(2019)『はじめての“社会包摂×文化芸術”ハンドブック:一人ひとりに向きあい共に生きる社会をつくる』九州大学大学院芸術工学研究院附属ソーシャルアートラボ
■小林美津江(2011)「公立文化施設による地域活性化:アウトリーチと社会包摂」参議院事務局『立法と調査』第322号,pp.86-97.
■津上智実(2013)「神戸女学院大学のアウトリーチ教育と3大学連携:「コミュニケーションとしての音楽」再発見の試み」『音楽教育実践ジャーナル』第10号第2巻,pp.29-36.
■砂田和道(2007)「クラシック音楽におけるアウトリーチ活動とそれに関わる音楽家養成の課題」『文化経済学』第5号第3巻,pp.87-99.
■林睦(2013)「音楽教育におけるアウトリーチを考える:基本的な考え方、歴史的経緯、最近の動向」『音楽教育実践ジャーナル』第10号第2巻,pp.6-13.
■熊倉純子監修(2014)『アートプロジェクト:芸術と共創する社会』水曜社
■星野太(2018)「ソーシャル・プラクティスをめぐる理論の現状:社会的転回、パフォーマンス的展開」アート&ソサイエティ研究センター SEA研究会編『ソーシャリー・エンゲージド・アートの系譜・理論・実践:芸術の社会的転回をめぐって』フィルムアート社,pp.121-152.

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