鋳物師と職人、あるいは創作にむけた断章
2021年に僕が生まれ故郷の堺市に戻り、仕事の一環で改めて各地域を回り始めた時、堺市が鋳物文化発祥の地だということを知った。8世紀頃に活動を開始したとされる河内鋳物師(かわちいもじ)は、今の堺市美原区(旧美原町)を拠点とした。丹南鋳物師ともいわれ、地域内にある丹比神社とも並び、金属や鉱山にゆかりがある「丹」の字が付く(「丹」は鉱物由来の赤色の意味)。また丹治や広階といった姓は河内鋳物師がルーツだと見られている。同じ堺市でいえば美原区だけでなく、中区日置荘や新家、北区の長曾根にも鋳物師が活動していた。さらには海側でも活動していた鋳物師があるが、これはどちらかと言えば、制作だけでなく流通(海運)にも関与していた鋳物師集団の拠点である。
堺市は刃物や鉄砲、自転車の町として知られており、その意味でも鉄にゆかりを思わせる。だがそれは別の角度から見れば、「火」の技術が卓越していた町だったとも言える。江戸時代の堺では壺焼塩という塩を生産しており、それは塩田から採取された塩を壺に入れて、時間をかけて煮沸して精製された塩だった。その精製を支えたのはとりもなおさず火加減の技術であり、その塩は当時の京懐石や江戸前料理に用いられていた。僕は2021年当時、この塩を再現したいと思い、堺港のどのあたりの塩田で塩を採取していたのか調べようとした。実際に旧堺の地図には「新濱塩田」という文字があり期待したのだが、学芸員に訊ねたところ、どうやら塩は和歌山の雑賀崎から「輸入」していたようだ。拍子抜けしたと同時に、加工貿易やブランディングも我が町堺らしいと思った。なお実際には、堺でも塩田はあったらしいが採算が取れなかったらしいことも教えてもらった。
そうした火を扱う鋳物師が、在りし日に堺(河内)で活動を始め、その後全国に拡散した。僕が最初に強く興味を引かれたのは、高岡市に残る「弥栄節(やがえふ)」という踊りだ。この歌詞の一番は「河内丹南鋳物の起こり(ヤガエー)今じゃ高岡金屋町エー(エンヤシャ、ヤッシャイ)」と始まる。以前、山名酒造との企画で『丹州蔵人之譜 - Kurando no Fu -』(丸谷雪作曲)を構想した際に、「酒造りの歌」という労働歌に注目したことがあった。これは重労働の気晴らしであり、かつ歌の長さや周期が、作業工程の目印になっているものだ。鋳物師の世界で言えば、『もののけ姫』に登場する「たたら歌」もこれと同じである。僕は『丹州蔵人之譜』以来、労働歌にとても興味がある。この「弥栄節」もまた労働歌として歌われ、今なお芸能として息づいている。ただその歌い出しにある当の河内では、どんな歌が歌われていたのか分からない。他の町でも、たたら歌が残念ながら残っていないところがある。僕はこれについては、むしろ創作の源泉ではないかと思う。
我が国の鋳物師は、一面では国家と共にあり、もう一面では律令の中で特殊な立ち位置を保ってきた。このある種の二面性こそが、鋳物師の生き方である。僕にはこのことが魅力であり、この後たびたび立ち返ることになるだろう。
東大寺大仏の鋳造などで国家プロジェクトに深く関わってきた鋳物師は、10世紀頃には蔵人所(朝廷における秘書機能)の直轄となり、燈炉供御人(とうろくごにん)という地位を持つようになった。ただのちに、かつて束ねられた鋳物師とはやや異なる地域で活動していた鋳物師が、別のトップを立ててもう一つの供御人集団を組織するようになる。この「供御人」とは天皇に物品を献上することで保障される地位であり、一般に租庸調・官物雑役をおさめる農民とは別の体系に置かれていた。
この両集団の内、前者は右方作手または土鋳物師と呼ばれ、後者は左方作手または廻船鋳物師と呼ばれた。土鋳物師が鍋・釜などの生活用品を生産していたのに対して、廻船鋳物師は梵鐘を受注したり、素材である打鉄を全国に買い付けて他の鋳物師に供給していたとされ、流通にも深く関与していた。これら左右の鋳物師に対して、平重衡の焼き討ちに遭った東大寺大仏を再建するため、1182年に僧重源が集めた鋳物師が、東大寺鋳物師として新たな集団を形成する。これらの派閥は互いに商業上の権利をめぐってしばしば対立してきた。
供御人としての地位を得ていた鋳物師は、雑役免といい様々な課役を免除された田畠を支給されており、またその田畠はおそらく小作人によって稲作がなされていた。田畠を任せた鋳物師たちは、いわゆる「移動の自由」を権利として行使しつつ居住地を越えて行商していた。また天皇・朝廷ではなく、寺社に奉仕して地位を保証された者は寄人(よりうど)や神人(じにん)と呼ばれた。いずれにしても、鋳物師は通常農民が組み込まれているのとは別の体系の中で国家と関係を持ち、自らの生業を営んでいた。こうした在り方は網野善彦が整理したように「職人」と呼ばれるもので、古代~中世においては鋳物師だけでなく、漆、鞍、紙すき、櫛など様々な生産品を取り扱う者から、傀儡、田楽、白拍子などの芸能民をも広く含んでいた。なお、網野が指摘した「職人」と「道々の者」の概念的関係性やそれを問う動機は僕にも大変興味深いが、ひとまずここでは立ち入らない。
ところで、先ほど言及した派閥同士の対立をはじめ、彼ら職人が自らの生業における正当性を主張する時に用いられるのが「由緒」とよばれるものである。時に神話の時代に遡り、一例では、自分はこの仕事で天皇の病気を治した、その頃から続く仕事であるので、生業としての権利が保障されるべきである、というような訴えの仕方があった。この由緒を基に権利を訴えることについて、鋳物師の世界では「真継文書(まつぎもんじょ)」が有名である。近世におけるこの真継文書は、一時期崩壊しかけていた鋳物師の権益をもう一度統制・復活するのに一役買ったとされる。壮大な作り話が展開されていたことの不思議さももちろんあるが(しかも偽造文書として大量に発行されていた)、ある種ファンタジーが訴求力を持っていたことの面白さの方が、僕は勝ってしまうといったところだ。
さて、少しずつ本題に立ち返りたい。僕はオーケストラを通してこの鋳物師を考える中で、「職人」と「音楽」が響き合う地点に創作が生まれると直感している。以下、現時点ではまとまっていないが、僕の関心を羅列していきたい。
当たり前の話だが、古代や中世において職業選択の自由などなかった(浮浪・逃亡はあったが)。だが少なくとも当時の「職人」とは、租庸調・官物雑役を課役された農民を仮に社会の主流だとするのがあながちおかしなことではないとしたら、人間の生き方におけるありうべきオルタナティブであったと言ってよい。少なくとも古代や中世までは、様々な生き方・慣習が併存していた。それは現代社会のように、日本が国家としてあたかも一民族として統一され、あるいは雇用される生き方が「普通」であり多数派であるとされるような、単純な社会観ではない。いやむしろ、いつの時代にも「失われた多様性」「失われた生態系」があったのであり、それを思い起こしオルタナティブな生き方に出会うことが必要な人はそれなりにいる——ちなみに最も原初的な非農業民の在り方は「無主」であると言われている。
社会には統合や包摂の力学が常に働き、人々の便益のために効率化・機能化が進む。ただそれは常にミクロな生き方を取りこぼす。本来的に避けられないことだ。だから、オルタナティブな生き方があることは希望である。僕は、人間は常に、今とは違う生き方が開かれているべきだと考えている。そして芸術(音楽)はそれを予感させてくれる。だがこれは、何もかつての鋳物師の生き方に学ぼう、などという狭い話ではない(それはあまり意味がない)。そうではなく、これからの創作が、僕たちに何か新しい世界を開いてくれるようなものであるとよいなと思うのである。そこで、例えば由緒の伝統は、僕たちに物語を作ることの背中を押してくれそうではないか。僕は芸術という領域においては、虚構こそ大切だと思う。
職人における国家(制度)との関係性が多様であったように、音楽もまた制度において確立されてきたものと、制度外で発展してきたものとがある。雅楽や教会音楽は前者の部類に入るだろうし、琵琶法師や吟遊詩人は後者の部類に入るだろう。だがよく言われるように、ハイカルチャーとサブカルチャーは常に入れ替わるか、互いの方向にまでウイングを広げる。その意味で芸術はやはり自由だ。あるいは時として権力的な牽引から逃れられない。また、職人が近世では座を組んだように、例えば吟遊詩人もまたギルドを形成していた。この座とは、由緒によって権益を確保しようとした時代の次に一般的なものとなった。職人のサバイバル方法もまた、時代によって変わっていく。
職人のひとつである傀儡子はいわゆる人形遣いであるが、彼らは人形をつかい今様を歌っていただけでなく、同時に櫛を売って生活をしていた。ヨーロッパにおいて音楽家が専業になったのが19世紀後半以降であることを振り返るまでもなく、本業と副業とか、1つの職業を選ぶとかいうことは、特に当たり前ではなかった時代も長い。多くの仕事を組み合わせて生きること自体を「百姓」とも呼べる中で、僕たちの職業観や、音楽家観というのは、実はもっと広げられるのかもしれない。
鋳物師をはじめ職人を支えているのは「技術」である。余談であるが、この技術についてアリストテレスは『ニコマコス倫理学』において、職人とは「親切にする人」と同義であり、職人は愛し慈しむことで作品を作っているとした。これは興味深い表現だと思う。親切と鋳物、親切と音楽について考えるのも面白そうだ。現時点では、書いている自分もあまり意味が分かっていないのだが。
本当はもう少し具体的に考えていることもあるのだけれども、これ以上は本当に実施が決定してから、また少しずつ皆さんと共有していきたいと思う。