22歳の僕が思う、哲学と本質思考 - 孤独なピラミッド

前書き

僕が深い物思いを始めたのは、振り返ると記憶にあるのは「アイドルとは」について考えていた高校生時代だった。前書きでは今でもよく使う「アイドルとオタク」のメタファについて書いてみようと思う。

例え、地下アイドルでも、彼女らは彼女らなりに「私はアイドル」という認識を持っている。

アイドルと認識した彼女らが作る世界に存在するオタクとは、自分より下の存在なのである。超えられない壁であり、超えてしまうとアイドルではなくなってしまう。このジレンマがあるからこそ「オタクと付き合うことは奴隷の首輪を繋がれるようなもの」とさえ思っている。

(本当にアイドルと恋愛したかったら、自分をアイドルだと思っていないバカかオタクじゃないポジションでいるべきであるということだ)

実はこれと同じような体験をしたのが、会社に務めるということであった。

会社といっても一概に色々あるだろうが、僕の体験した会社は「社長の権限が絶対的であり、社長が例え、自分の行動に無責任で本質的でない場合でも、その枠組みでは社長が本質になってしまう」ということである。

そもそも、常識という綺麗事から作り出した法律がその枠組みを作ってしまっている。法律は真理ではないと言うことである。

権利上会社に所属している以上、社長がどんなに畜生でも、最高権限者は社長なのであって、社長に基づいて会社のピラミッドは構成される。

真理を見つめようとすると、法律もルールも欠点だらけなのである。自分がいくら正しくて、本質的で真理を見つめようとしても、会社に入っていたらその社長の間違いも、その会社の中では真理になってしまう。

そう考えると、僕にはあまりに窮屈な世界だった。

そんな窮屈な世界に耐えられなくなり、死んでしまう人もいると思う。僕ももしかすると、その一員だったかもしれないなと思うことがある。僕は思考することで、死ぬことはなかったが、悩み多き人にこそ読んでほしいと思っている。

ただ、このnoteを書くのは自分のため、僕が思っている真理について、本質について、哲学について、をざっくり書き残したいなと思っている。

誰かの役にたつ為に、誰かに希望を見せる為に書くんじゃなくて、ただ僕の真理への思考の過程を残したいと思う。1ヶ月後、半年後、1年後には全く違うことを思っているだろうし。1年前の自分が2年前の自分を浅いと思っていたように、今の自分は1年前の自分を浅いと思うように。

僕がやりたいことの第一は僕のトップアップであって、誰かのボトムアップではない。僕のトップアップが誰かのボトムアップにつながれば、最高だと思っている。(逆にこのnoteにコメントがついたとして、僕が実はデタラメを書いていて、コメント者が本質をつきまくっていれば、それは僕のボトムアップになると思う)

(※2018年9月の未来から見ると不十分であろう僕の思考をありのまま書き綴った。全てが自分の言葉で・認識で・解釈で行なっているからこそ、読んだ方にとって間違いがあればこっそり教えていただきたい。)

本質と常識

前置きが長くなってしまったが、まずは僕が考えている頭の中を無理やり図解した。今回のnoteを読み終えた人には、何故「無理やり」という言葉を使ったのかイメージできるだろう。


正直この図が僕の頭の中の全てなのだ。哲学をするということは、僕の中では真理を追求すると言うことに近い。

1. 本質と真理

例えば僕が「アイドルとは?」と悟る。そこにはアイドルという概念があり、そこには確実な真実がある。その確実な真実のことを「アイドルの本質」と僕は言っている。

本質と真理の違いは、シンプルで、本質は複数あるが、真理は一つしかない。つまり、本質は真理の一部分とも言えると思う。

例えば、僕はリーンスタートアップという本を気に入っているのだけれど、この本は「ソフトウェアを開発する」本質を突いているなと思ったから気に入っている。つまり、何事にも本質があると思っている。

会社員時代に、まさに常識人の鏡みたいな上司が突いていた頃があるのだけれど、高次元の真理を追求はしていなかったが、開発技法については本質的でめちゃくちゃ詳しかった。(今でもその人が世界の真理だとは思っていないが、当時は上司が絶対なんて死んでも信じたくなかった)

そんな上司が悟っていた、開発手法の本質みたいに、本質はあらゆるところに転がっているけれど、真理は1つである。

本質はプラトンのイデアにも似ているのかもしれない。

2. 自由と制限(生からの自由と死からの自由)

よく自由とはの議論があるので書いて見た。現実を生きる上で大事なバランス感覚も、自由と制限だと思っている。生からの自由は、現実に戻ってこれなくなる怖さもあると思う。僕は意図的に現実に戻ってこれるよう適度な制限を「意図的に」つけている。

死からの自由に振り回されるのは、真理を追い求める上では弊害にもなる。何故なら、死からの自由は常識のがんじがらめであって、真理ではないから。

身近な経営者の人がバランス感覚をよく語っているが、具現化させると、この図にも現れているのではないかと思う。

3.正義と幸福

今日の僕の考える、正義とは、それぞれの人が持っている真理のことであると思っている。つまり自分の視野の限界のことである。別名幸福とも呼ぶ、という認識だ。

つまり、これは相対的で、人によって変わってくるところだ。ただ、これは真理ではない。都合よく真理にしているただの点である。

後ほど、詳しく説明しようと思う。

4.疑問と論理的思考 / 仮説と検証 / 定量思考と定性思考

未知なる疑問が生じる時・人は定性思考になっていると思う。抽象度を何段階かあげることで、「このアプリを通して本当にしたかったことってなんだろう?」と考えるように。

逆に疑問に対して、抽象度を何段階か上げた先にそのアプリのイデアを見つけたならば、次はそれを具現化する段階である。

以前のエントリーでも書いたが、僕の認識ではこれが「デザイン」するということである。「そのアプリの本質」を形にするということである。

つまり真理を追求することは本質を追求することにも似ている。「私の生きている意味はなんだろう?」とか「人類は何故存在しているのだろう」とか「人は何故死ぬのだろう」とか「人を殺してはいけない理由はなぜだろう」とか。

実際に、「そのアプリを何故作るか」という悟りは、仕事の中で頻繁に行う思考だと思うし、身近なものだと思う。ただ本質の追求は一点であるが、真理の追求はそうはいかない。というのが図解で説明したかった、一部分である。

(そういう意味でベクトルを用いて図解している)

逆に論理的思考を具現化させると、デザインになる。つまり、デザイナーは本質の認識者とも言えると思っている。ただのお絵描きがうまい人という意味ではない。

幸福が相対性を持っていて誰でも定義できるように、本質を生み出すことは誰にでも行うことができる。デザイナーの質は本質の認識レベルだなと思っている。

5. アートとデザイン

以前、こんなnoteを書いたこともある。ちょうど8ヶ月くらい前の話だ。

芸術とは英語にするとArtである。図で言うと2次元のピラミッド、本質の塊たちのことをArt(=芸術)としている。

僕の共感する哲学者ショーペンハウアーの言葉にこんな言葉がある。

芸術の唯一の起源は理念の認識であり、芸術の唯一の目標はこの認識の伝達である。

うまく言葉にできないのですが、このピラミッドが何故存在しているのか、何故下に広がっていったのかと言うことを語っているような気がしている。

つまり、図で言うとアートとはピラミッドのことであり、デザインとは下に向かうベクトルのことである

そして、創造性とは、このピラミッドでいう上下に向かうベクトルの絶対値のことだと僕は思っている

ピラミッドの詳細

これ以降はピラミッドについて、僕の真理を追求しているなと思う哲学者をベースにして、偉大な資産から僕なりの解釈、僕の理論の中でどう言う意味をしているのかを少しだけ取り上げてみようと思う。

1. 孤独について

偉大な哲学を持っている大先生たちは何故孤独を愛したのだろうか。

孤独とは生命の欲求である

キルケゴールの言葉である。「生命とは?」、4.の天才と超人について書くときに納得がいかせられる解説ができると思っている。シンプルに語ると、人は人である以前に動物である。

そして、孤独について。「哲学実技」のすすめ - そして誰もいなくなった- と言う本を読めば、感覚的に何故孤独になっていくのかと言うのがわかるように思う。

僕の認識はこうだ。

"常識を破ること、真理を追求するということは、エゴイズムを認めてあげようということでもある。エゴイズムが生まれると、正しいことは正しい、間違っていることは間違っていると真理を追求する過程で「対立」や「衝突」が起こってしまう。"

だから、エゴイズムを認めて真理に近づく過程で起こってしまう「対立」や「衝突」を恐れ、自分の「正義」を真理より低い階層で設定してしまう。

真理の中の真理と幸福というのは、必ずしも一致しないというのは図のように、自分の中で真理(=正義)を定義しているからである。つまり、「自分の本質」を生み出して、そのからにこもってしまう。

ショーペンハウアーのいう

誰もが自分の視野の限界を、世界の限界だと思い込んでいる。

これも同じ理屈だと思う。

これは僕の経験則だけれども、本質的な友達は対立や衝突を好んでいるし、本質的に何かを作っている人は作っているものに対する課題や衝突を喜んでいると思う。本質的な友達の向かう先は真理であって、今そこにある本質ではない。だからこそ、正しいものは正しい、間違っているものは間違っているという姿勢があるように感じている。

スティーブ・ジョブズが残しているインタビューの一流の社員の話も同じ理屈なんじゃないだろうか。(このインタビューの動画は3年前みたときに衝撃的だった)

2.幸福とは

幸福とは、はじめに少し書いたが、個人によって変わる相対的なものであり、個人によって定義される真理(=正義、個人の本質)と考えている。

これは、真理に目を向けた結果ではないことが、あらゆることで言えるのではないだろうか。例えば、普段から「死ぬこと」を考えて生きているだろうか? 少なくとも、「人生60年」みたいな言葉があるように、まるで永遠かのように常識はできていると思う。年金制度もそうである。死ぬことは前提にされていないのだ。

時々、死生観の強い人がいるが、その人らから見ると、フザケンナとも思うだろう。死ぬことは真実なのに、時間は有限なのに、人生は永遠かのように60年と言っている。

死生観を持っている人の正義は真理に近いのかもしれない。今日生きているという認識はみんな持っているだろうが、明日死ぬかもしれないと言う認識は共通認識から遠いところにある

つまり、人生60年という認識ができ、明日も生きていると言う認識はAさんやBさんの正義であり、幸福なのかもしれない。

つまり、死ぬことを直視しないことで生まれる幸福があり、真理は都合が悪いので、それ以上見ない。ということである。

3. 神は死んだ


ニーチェは代表作ツァラトゥストラはこう言ったの中で「God is Dead」という名言を残した。これはキリスト教的な価値観を新しくアップデートする言葉で、つまり宗教とは・そう言ったキリスト教的な価値観はピラミッドで言えばどうなるのだろうか考えた。

宗教とは、真理のオープンソースのフレームワークのようなものであると思っている。

つまり、Bさんが宗教Aに入るということは、Bさんが宗教Aの真理を認識することができるというわけである。必ずしも高尚だったり真理だとは限らないし、汚いものではないと思っている

宗教AではBさんでも、真理に近いことを悟れるように手助けする、教えてくれるだろう。

この図の中にある真理のつじつま合わせとはなんだろうか。

エヴァンゲリオンは旧約聖書に基づいて作られているらしいが、そこで僕は勝手に閃いた。エヴァンゲリオンは使徒(=生命)と人間(=知恵)の戦いである。

エヴァンゲリオンが旧約聖書をモチーフにしているように、旧約聖書も真理の形を無理やり具現化させて物語にしたのではないかと思っている。

そう考えると、旧約聖書は実に真理的だと感じたのだ。真理のそのままの形ではなく、真理の形を創造主の認識する形に、作ると言うことである。

宗教が見つめる方向は真理であると思う。しかし、真理的かどうかは創造主と真理との間にある真理のつじつま合わせの精度が関係していると思う。

そして、エヴァンゲリオンの使徒(=生命)と人間(=知恵)が戦ってなぜ人類が補完されたりするのか。。。というのを1ヶ月くらい前にひたすら考えていたけれど、今回の話からはそれそうなので、今後に取っておこうと思う。

4.天才と超人

ショーペンハウアーは「才能のある人」と「天才」についても残しています。これを図解化すると

こんな感じかなと思います。ここはあまり深く言及しませんが、ニーチェの思考はショーペンハウアーに影響を受けていて、ニーチェの超人思考はこの天才と才能のある人の上位互換だと思っているので、ニーチェの方で説明します。

代表作ツァラトゥストラの中で、記述されていた言葉ですが、超人ってなんだろうと思いました。

実際に、ニーチェの言っている図を僕の理論であるピラミッドで書いて見るとこんな感じだと思います。(ショーペンハウアーのいう、天才も入れて見ました)

思考の薄い人間は本質の認識をせず、ピラミッドを広げようとしますが、本質を求めすぎる天才は現実に戻れずピラミッドを広げることができない

超人は、本質を求めながら、ピラミッドを広げる人のことではないか。

終わりに

僕は哲学者ではないし、どれだけこの理論が真理かはぶっちゃけ未知数です。実際読んでいる人の方が真理を悟っているかもしれないし、本質を掴みまくってるかもしれません。

今まで関わってきた、真理を追求する人との対話の中でしか深めることもできていないし、毎年1年で大きく変わるように、もしかすると入り口の入り口なのかもしれません。

ただ、僕が今感じている「僕の視野の限界が世界の限界だとは思わない。」それが全てかなと思います。

不完全なりに完全になろうとする存在でありたい。

そう思い今日も生きています。

---------------

画像引用先



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?