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「つまらない」は毒です

このnoteでは、

「つまらない」ことの考察から

人生の楽しみ方を考えます

気分転換用に猫の写真を添えておきます(笑)

学校は機械人間製造工場

学生でいる間は「おりこうさん」、「優等生」でいなければならない。そういう人が評価されやすい。模試,テストの成績や出席率、授業態度とかを基に優等であるかどうかが測られるのが学校だと思う。学校は社会の写しというなら、社会もそうなのかもしれない。。。

はっきりと言える。そういった教育は間違っている。そういった教育現場は、ご機嫌取りをしなくちゃいけない環境になりやすい。確かに社会に出てから必要なことなのかもしれない。でも、だとしたらそんな社会も間違っている。

僕は出席率は低かったけど低いにしては優等な高校生だったと思う。(天才ではないけど。)なぜ、授業に出席しなかったか。いろんな理由があるのだけれど、端的に言えば、「つまらなかった」の一言に尽きる。

僕が学ぶことを楽しんでいたのは、小学生のころだと思う。無邪気に遊ぶように学習することを楽しんでいたと思う。悩んだり、解決したり、冒険の際の不安のなかにいるような感覚だった。

学校を「つまらない」と感じたのは中学生のときだった。中学校はまぁたまに勉強を頑張ることがあった。友達と順位を競ったり、友達と満点を目指したりすることが楽しかった。ただ、「純粋な学びへの楽しさ」はなくなっていた。小学校まではその楽しさを感じられていたのに。

さて、どうして中学生になって、学ぶことをつまらなく感じ始めたのか。それは、半強制的なドリル型の学習だったことにそれとなく気づいていったからだと、思う。当時はなんで「つまらなくなった」のか理解らなかった。

それでもやはり、まだ、ギリギリ、中学生の時はちょうどいい競いがいのある相手がいたために勉強でする気に慣れた。僕よりかも点数を取る人がいて、競争していることが楽しかった。だから、まだ勉強ができていた。

僕の高校は成績がいいクラスってのがあって、ピンキリの高校。学校の偏差値も40とかだった気がする。だから、まぁ受験勉強しなくても、落ちることはなかったと思う。けれど、競いがいのある友達がいたからなんとか成績がいいクラスに入れたと思う。

でも、高校生になってなにかその競い合うときの緊張の糸がプツンと切れた。別に僕の成績が高くなって、競い相手がいなくなったわけじゃない。単純に学ぶこと(授業や学校の課題)が強制的に行われることを「つまらなく」感じたからだ。

この「つまらない」という感覚は機械人間を作るプロセスに入っていると思う。

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「つまらない」というのは人間にとっての毒だ。

つまらないという感覚が多いほど僕たちの人生の価値は低くなると思う。ここでいう「つまらない」というのは、主観的なことで、他者からの判断なんて関係ない。僕が勉強を楽しいと思えば他者がどう思おうがそれは楽しいもに違いないし、他者がつまらないと思えば僕にとって楽しくてもそれは他者にとってつまらないことは事実だから。僕の人生の価値は僕が決める。僕が死ぬときに楽しかったと思えたらそれでいい。

ただ、本当に楽しいことをしていてもいつか「つまらない」トいう感覚に陥ることがある。この時の「つまらない」ことへの対処法は2つある。

1つは、「つまらない」ことに対する自分の意識を変えてみること。これは一番難しいのだけれど、これができる人は変化に対応できる人間で強い。例を挙げるなら、マクドナルド的な人間だと思う。分刻みに変わるお客さんごとに接客の仕方を変える。あれはすごいと思う。僕はすぐに疲れた。

ということで、僕は1つ目の対処法は苦手なので、2つ目の対処法をおすすめしたい。

2つ目は、「つまらない」ことはやらないということ。これは、赤ちゃんでもできる。けれど、これにも難しいことがあって、「楽しい」ことにすべての情熱を注がなければならない。これとても大変だと思う。例を挙げるなら、ヤンキーだ。ヤンキーのように嫌なことは嫌と言う。言えなくても反抗しておく。(大人になるなら言わないといけないけれど、)

僕は2つ目の方が好きだ。なんというか1つ目は機械人間みたいでどうもああは慣れないと思ってしまう。でも、心からすごいと思う。高校生の頃にそれに気づいてから、レジでは意識的に「ありがとうございます」と言うようにしている。

ただ、なんか2つ目が得意な人にはなかなか感謝を言えない。まぁ、シンプルに関わりたくないような怖い人がいるのは事実なんだけれど、あえて言葉にしなくても伝わっているだろうな考えるから。あと少し恥ずかしい。(これも言えなきゃいけないと思う。)

ヤンキーでなくてもつまらないことを逃げだす方法を次に示す。

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「つまらない」からの脱却

結論から書く。

意識的にバカになろう。

僕がススメルのはこの方法。

よく「つまらない」ことにとらわれる人ってたくさんいますよね。でも、それは当然でつまらないことって、大事なように見えることだからとらわれると思う。例えば、特に行きたい理由はないけれど出席しないといけないから登校するとか、リーダーになることとか。誰かがやらなきゃいけなかったり、自分しかできる人がいなかったり。。。理由は様々、あるんですけど、どれも強制的だ。

洗濯とか皿洗いとかはやりたくなくてもやらなきゃいけないことだけど、やらなければやらなかったで、後々大変になるのはだれにでもわかること。

でもそうじゃなく、学びたいことじゃないとか、このまま死ぬのは嫌だとか、そういった問題への解決策となるのが、この意識的にバカになるという方法。

だいたいの人間って頭がいい。大人になるにつれて常識という知識を手に入れていく。もちろんその知識は必要なものだけれど、僕たちをつまらないことに縛り付ける言い訳になってしまう。

僕はある程度まで考えが煮詰まったら、この常識を意識的に外してしまえと思う。もちろんその際、人に迷惑をかけたりしてはいけないので、ちゃんと常識で考えてから、外してあげよう。

どこまで考えて常識を外すかは、その人の経験値にもよるから何とも言えないけれど、僕が常識を外すときに大事にするのは、「時間配分」。1日のうち起きている時間の中でどれだけそのことを考えているのかのバランスを大事にしています。満足できる決定ができなければ明日に回すか、明日も時間が無ければ、今日決まっているところで答えにしてやってみる。この生き方とても楽しく思う。

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まとめ

よく善悪を二極化にして考える人が多い。でも、悪いヤンキーがいて、いいヤンキーがいる。悪い知識人がいて、いい知識人もいる。つまらないことも絶対悪みたいなものじゃない。洗濯はつまらないし、雨の日もつまらないけれど、変えようがない事実だったり、どうしてもやらなきゃいけないことだったりするから、僕たちの意識を変えなきゃいけない。もっと柔軟に考えてみようよ。

きっと学校だって、いい学校と悪い学校がある。難しいけど。

難しいからこそ意識的にバカになることが大事だと思うんだ。


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