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20年後に向けてなおさら人と同じことはやっていてはいけない

最近、改めてそんなことを思うに至った。きっかけは、企業で働いている友人と会話をしていて、最近は社内の色々なデータから「あなたは〇〇な傾向があります。××な対応を心がけましょう」みたいなレコメンドが簡単に飛ばせるようになってきてますよ。という話が出てきたことだ。

6年前の夏頃から、今のAIの基本技術である機械学習を使って企業や世の中の色々なデータから、「モデル」を作成するお手伝いをする会社の立ち上げメンバーとして働かせていただいていた。
会社に3年間所属してする中で機械学習とは何か?統計とは何か?データ分析とは何か?ということは人並み以上には勉強させていただいた。

そのことを踏まえて、多少乱暴ではあるが、AI・機械学習モデルがレコメンドしてくれるのは、あくまでも正規分布の真ん中、「多くの人がやっていること」になってしまうと言える。統計的に見てより近しいものをパターン認識の結果として提示してくれるのが、機械学習の得意とするところである。
※技術的・専門的に見て、指摘があればぜひ教えて欲しいところである

つまり、正規分布の両端、言い換えるとそのケースにおけるそれぞれのユニークさについては特に感知できないのが、機械学習の特徴である。
そんな機械学習によって作られたAIたちは、今後、様々なサービスの中心を担っていくだろう。冒頭の例のように、ここ数年でそれまでには考えられなかった様なサービスが、僕たちの日常に次々と投下されていっている。

Googleでメールを書いている人、特に英語でメールを書く機会がある人は、定型文でやりとりをするビジネス的なメールだと、Googleが次のフレーズをどんどん自動生成してくれて、書き手はEnterボタンを押し続けるだけ、という体験をしていると思うが、これも機械学習によるものだ。こんな風に汎用的な作業はどんどんと半自動化⇒自動化していくことだろう。

さて、本題はここからだが、このメールの様に一定の内容に対して、こちらの対応がある程度決まっている汎用的な作業を行うような仕事は、どんどんと手間が掛からなくなっていくだろう。車の運転でさえ、あれだけ自動運転は危険だ!みたいに騒がれていた数年前とは打って変わって、高速道路では手放しで運転できるのが結構当たり前になりつつある。
この、車の運転を例に考えてみると、そんな自動運転が当たり前になった社会でも、ちょっと変わった運転をすることもあるだろうし、ちょっと急ぎたいからスピードを上げたい運転手もいたりするだろう。ちょっと変わった運転としては、サービスエリアに寄るつもりが、気が変わって「やっぱやーめた」「あ、でも彼女がやっぱり寄りたいって言ってる」みたいに、数分で気が変わったりするような運転が考えられるかもしれない。
そうなったとき、そんな独自性の強いパターンを「自動運転」をするAIに機械学習させるのは、とても効率が悪い。だから、機械はそういう独自性の強いパターンができるようにはなかなかならない。

別の言い方で繰り返すが、私たちの作業を代わりに実行してくれる機械は、独自性の強い行動は学習しない。
代わりに誰でも実行できる/しているような行動はどんどんと学習してくれる。

こう考えると、AIが自動化された作業を僕たちの代わりにやってくれるような社会が(もうすぐそこに来ているが)やってきたとき、誰でも実行できる/しているような行動を、僕たち生身の人間が実行していることにそれほどの価値はない。
もちろん、「あの人が作ってくれた」「僕のために手を動かしてくれた」という価値は、むしろ今以上に高くなるかもしれない。
でも、想像してみて欲しい。大好きなあの子が、自分のために、手編みのセーターを編んでくれることは、確かにそこにある「手間」を「愛情」と勘違い(すみません)することはできても、大好きなあの子が、自分のために、「昨日のご飯はとても美味しかったね。また行こうね」というメールを手動で打込んでくれた!というのが、どれほど嬉しいと思えるだろうか?
※もしかしたら、そんな社会も来るかもしれないですが、相当な認知の変化が必要そうですよね

タイトルに書いた「人と同じことをする」ということは、つまり機械が学習をする絶好のターゲットになりうるのである。
今の世の中でも、人と同じことをするよりも、ユニークであること、独自性を持つことは、特にビジネス上、つまりお金を稼ごうとする行動に関しては非常に有用だと言われている。
「ビジネス上」という言葉にピンとこない人は、誰かに喜んでもらえるかどうか、という観点で考えてみると分かりやすい。サプライズパーティなどを喜んでくれる人は、そういうユニークな行為を好む人だ。
そして、この傾向が、AI・機械が私たちの作業をより効率化し、肩代わりしてくれる社会においては、より顕著になるだろう、というのが、この投稿の趣旨である。

ただし、これは僕も自信の持てない点ではあるが、「誰でもできること」ということは、基礎的・基本的な行動であり、独自性のある行動を起こすために必須である可能性もあるということだ。言い換えると、独自性のある行動ができるようになるためには、誰でもできる行動にまずは習熟する必要があるよね、ということである。
もっと、ざっくばらんな言い方をするなら、匠の技を習得するためにもやっぱり基礎・基本は大事というやつである。

これが正しい場合、機械によって基礎・基本の行動の「社会的な価値」が奪われてしまった社会において、どういうタイミング・どういう場所で私たちは、基礎・基本に習熟していくのか?という課題がより深刻化していくことが予想される。
こういった観点からも、学びの場のアップデートが必要不可欠になるだろう。

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