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どうか、朝まで生きていて

はじめまして、ゆぎ まさき と申します。

ここで出会ったのは何かの縁ですね。
ぜひ、少しだけお付き合いしてくださると嬉しいです。

まず、私がこれからこの場所で、だらだらと書き連ねていこうと思っていることについて軽く説明しようと思います。

私のプロフィールを読んでいただいた方は既にご存知かと思いますが、私は、
うつ病とADHDを抱えて普通に生きようともがいている、障害者の成人女性です。

私みたいな人、というか、鬱病やADHDなどによって降らされた雨で足元がぬかるみ、日常を上手く歩けない人達が、何かのきっかけでたまたまここにたどり着いた時、すこしだけでも、今だけでも、この先にきっとあるであろう暖かい光の存在を認識し、共にドロドロしたこの歩きづらい足場を踏みしめて先へ進んでいくためのほんの少しの力になれたらと思い、こうして文章を書いてみています。
そして、私が書いたこの文章で、そういう人のそばにいる人が、そういう人を支えたいという人が、その人の気持ちを想像するときの手助けになれたらと思います。

まず、ひとつお話をさせてください。

タイトルにある、「どうか、朝まで生きていて」というのは、私が復職して間もない頃のこと
私が過去に経験したことの無い程の強い希死念慮に襲われ、何とか耐えながら仕事へ行く準備を整えたものの、結局動くことさえままならなくなってしまった日のことです。
その日の昼
今日だ、今日こそが私の命日になるのだと
この世を去ることを強く決意しました。
家族が気づかない間、夜を狙って、確実に死のうと決めました。
しかし、そんな固い決意をしてしまった私を思いとどまらせてくれたのは、母でした。
介護士である母が夜勤に行く際、私にかけていった言葉の一部を載せます。

「どうか、朝まで生きていて。朝、私が帰ってくるのを待っていて。それまではどうか死なないで、お願い。」

普段は笑顔の絶えない母が、いつになく真剣な表情で、ベッドに座ったまま動かない私の手を握り、そう言いました。
ろくに目も合わせられない私の返事を少し待ち、それ以上何も言わず、母は仕事へ行きました。
私はその晩、大量に溜め込んでいた頓服用の睡眠薬を取り出してきて、鬱病になる前に買ったまま誰にも飲まれずに放置されていたワインや焼酎を部屋へと運び、涙をぼろぼろ流しながら、日記帳の真ん中のページに遺書を書きました。
これらをすべてを飲んで意識を朦朧とさせて、首を切って死のうと、もう決めていました。
痛いだろうとか、苦しいだろうとか、そんなことを考える余裕もないほどの強い希死念慮でした。もしも私が高い高いビルなどに住まう類の人間だったのなら、軽々とそのてっぺんから飛び降りてしまっていたと思います。
ただ、母の言葉が私を引き止めてくれました。

どうか、朝まで生きていて。

朝まで。

朝まであと、約12時間。

今朝から今まで、約12時間経っています。

家族に見つからない時間に死のうと夜まで待ってみただけだったが、もしかして、このまま、朝までなら、耐えられるのではないか?

もしかして、朝、母が帰ってきたら、私は死ななくても済むのではないか?

混乱しながらも、徐々に私は「死への恐怖」に震えだしました。ここで命を経つということは、激務を終えて帰宅した母が最初に見るのは、命の絶えた冷たい私ということになります。
それがどれだけ母の心を打ち砕くのか、想像するだけで涙が出ました。
私は自分のために死のうとしていましたが、母のために朝まで生きようと決めました。
ベッドの上でもがきながら、呻いて、眠ることも出来ない自分にまた絶望し、こんな人生に意味があるのか、こんな気持ちと戦いながら生きていくことに希望はあるのか、と葛藤しながらも、ただ朝を待ちました。
夜は長く、仕事中の母から送られてくるメッセージの通知音で、時間の経過を想像することしか出来ませんでした。
スマートフォンの表示を見ることがなぜかとても恐ろしく感じ、枕の下に隠しておきました。
そろそろ朝か、そろそろ朝かと、時折自分を強く殴り付けながら耐えました。あと何時間待てばいいのか思い知らされるのが怖くて、時計を見ることも出来なかったので、ただカーテンの隙間から見える、真夜中の紺色の空、早朝の白んだ空をじっと睨みつけて時間を潰しました。

一睡もできず、緊張でこわばって、体の至る所が痛くて、吐き気もして、酷い気分で迎えた朝でしたが、とにかく、それは朝でした。
毎朝鳴るように設定されているスマートフォンのアラームが、私に8時を知らせました。
水をひとくち飲み、窓を開けてみました。
死ねなかった私を、雨の匂いが包みました。
しばらく経つと、母が仕事から帰ってきました。
生きていてくれたね、ありがとう、と笑う母。
私は笑えませんでしたが、ただ、ここまで耐えられたのだから、また今日1日ぐらいなら耐えられる気がしてきた、とぼんやり思いました。

このような出来事があって、またその日も仕事を休み、薬を飲みながら耐えているうちに、2日間絶えず続いた希死念慮の襲撃は、3日目の朝から徐々に止んでゆきました。

強い希死念慮に襲われてから4日後、
ああもう大丈夫!と言った私に、
母は肩を震わせて泣きながら、ああ、よかった、とこぼしました。
そして落ち着いた後、母は、
死のうとしている人にかけるべき言葉は、まず、とても近い未来の約束なのだ、と言いました。
真っ暗闇の中でもがいている、今にも命を脱ぎ捨て、ここを去ろうとしている大切な人にかけるべき言葉が、「近い未来の約束」と聞かされて、はじめて、
「どうか、朝まで生きていて」
「私が帰ってくるのを待っていて」
という言葉に込められていた、私をここに繋ぎ止めようとする必死の気持ちに気付かされました。


私と母は、幼少期からずっと良好な関係だったわけではありません。(このことも後に書けたらいいなと思っています)
しかし、死を決意した私を引き止めたのは、紛れもなく、母の言葉でした。
私は今後、この事実ときちんと向き合っていこうと決めました。

ここまでダラダラと書いてみましたが、うーん、やっぱり、これが誰かの役に立つとは思えません。
しかし、誰かの暇つぶしぐらいになればいいなと思います。
あとは、もし誰かが、次の朝を待つまでの間に、これを読んだ時、少しだけでも気持ちが軽くなれば、いいなと思いました。

これから、
なぜ私はうつ病になったのか、うつ病になって辛かったこと、闘病中にそばにいる人の言動で傷ついたことなどを書いていけたらいいなと思っています。
あとはADHDの私の日常についても、箸休め程度に。
文章にまとまりがなくてすみません。
ここでいったん終わりにしようと思います。


私が好きな映画は、
チャーリーとチョコレート工場
です。他にもたくさんありますが、今は一つだけ教えておきます。これからまた読みに来てくれる人がいたら、その時はまたなにか私の好きな物を教えます。別に知りたくないという方にも知ってもらってしまおうと思います。
ではまた。
出会ったあなたたちみなさんが、
いい夢を見られますように。








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