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うつ病を治す過程のはなし

前回、うつ病になったきっかけや、なり初めの頃の症状などを書きました。
今回は、それらが治っていったときのことを話します。

まず、病状を家族に理解してもらうため、母に受診の付き添いをしてもらいました。
精神科の主治医からの説明を受けると、精神科で働いていた経験のある母は、すぐに私への対応を考え、様々な方法でアプローチしてくれるようになりました。
退職してすぐ、母に手助けをしてもらいながら、傷病手当をもらう手続きと、失業手当を貰いはじめるまでの期間を延長するための手続きを行いました。

次に、うつ病に理解のない恋人と、話し合いの末に別れました。結婚を考えていたのに相談もなく退職したことを非難されたり、就職活動もせず家で寝ていることを揶揄されたり、体調不良で寝込んでいる時に突然友人を連れて訪問してきたりしたことなどが心の中に重なってゆき、次第に彼と過ごすことが大きなストレスになっていったため、お別れしました。
結婚を前提に3年ほど付き合った恋人だったため、このお別れは大変悲しいものでしたが、自分を大切にする練習をしましょう、自分を守るための判断をしましょうとカウンセリングで常に言われていたので、きちんと自分の現状を説明した上で彼からの理解を得られなかったために、今の状態では結婚も妊娠も考えられないので別れましょうとお話をし、別れました。
向こうも私も未練があり、しばらくはまだ元に戻れるような気がしてお互い離れがたく、連絡を絶つことはできずにいましたが、彼にかけられた言葉のひとつひとつが胸を切り裂くような思い出になってしまっていたため、少し経ってから完全に連絡を断ち、彼のことは忘れるようつとめました。
投薬治療のおかげで、私は徐々にねむれるようになっていきました。退職すると、それまで眠れなかったのが嘘のように、今度は過眠の時期を1ヶ月ほど過ごしました。薬を飲む時と排泄以外はほとんど布団から出ずに過ごしました。
親友が、私がうつ病になって退職した2ヶ月後に、抑うつ状態になりました。部署異動がきっかけになり、ストレスで体調を崩したのだそうです。
LINEでお互いの病状を報告し合いました。
それからずっと、眠れない夜や起きられない日々のことをお互いとりとめもなく話し、ただひたすらゆっくり、とにかく体を休めることに徹しました。
半年ほど経った頃、私はある日とてもスッキリした気持ちで目が覚めました。空さえ飛べそうな気持ちでした。一日を快活にすごしました。

その日の夜、睡眠薬を大量に飲み、リストカットをし、自殺未遂をしたことによって救急搬送されました。その時の記憶は、薬を沢山飲んだことによる記憶障害により、なくなっています。
かかりつけの心療内科の、どこかの病棟で、身体拘束をされた状態で目が覚めました。
母が私のそばに座って泣いていました。
何も覚えていない私に、母は、滔々と説明をしてくれました。
私は睡眠薬をたくさん飲み、リストカットをし、その後、裸足のまま外へゆき、車の行き交う道路へと歩いていったところを近所に住まわれている方に保護され、自宅へ連れ帰られ、救急車を呼ばれ、母から薬を吐くように処置され、搬送され、胃洗浄などを受けてからも激しく暴れたため、鎮静剤を打たれて拘束され、今に至るのだと聞きました。現実味がなく、夢の中のような話でした。
目覚めてからは拘束も解かれ、非常に穏やかに過ごし、塗り絵をしたり音楽を聴いたりして過ごし、週に1度お風呂に入り、1ヶ月ほど入院し、回診に来た先生に希死念慮がないことと退院したいことを強く主張し、やがて退院に至りました。
実を言えば、まだ希死念慮は、薄い羽衣を纏うようにわたしに絡みついておりましたが、とにかく退屈なその入院生活を脱したいために、嘘を吐いてしまいました。
退院してからは、睡眠薬を鍵付きのケースで母に管理され、刃物を全て隠されて過ごしました。
何度か、首吊りを試しましたが、適切なひもがなかったために何度も失敗し、諦めました。
首吊りに失敗すると両の白目が充血し、首に赤黒く跡がつきます。オススメできません。
私はそれからも、希死念慮と戦い、地べたを這うように生き続けました。
休むということに罪悪感を抱かなくなるまで1年ほどかかりました。
ある時、カウンセリングでADHDを疑われ、テストを受けたところ、ADHDの診断が降りました。
私は障害者になりました。
1年6ヶ月、傷病手当をもらって休みました。
そこから先は失業手当をもらいながら休みました。
うつ病になってから2年目は、最初あった色々な症状もだいぶ落ち着いておりましたので、ゆっくり休むことが出来ました。だんだんと、家族と楽しく会話ができるようになり、小説が読めるようになり、ゲームができるようになり、たまに料理をするようになったり、休み休みではありますが映画や音楽を鑑賞することができるようになり、それまで趣味としていたものにも興味がもてるようになっていきました。
薬が増えたり減ったりして、最終的に、うつ病と診断されてからちょうど2年経った頃、うつ病の寛解を言い渡されました。うつ病の薬が必要なくなったということです。
残った不安障害や、新しく現れたADHDの治療のため、投薬治療は続きましたが、社会復帰のために求職活動を始めました。
障害者サポート施設の支援を受けながら求職活動をして、うつ病の寛解後、約5ヶ月で就職に至りました。
とても素敵な職場でした。
人間関係が穏やかで、仕事内容もあまり厳しくなく、病気にも大変理解のある職場でした。
しかし半年後、再び体調を崩し、うつ病の薬を飲み始めましたが、食事をすると吐く、眠れないなどの症状が段々と酷くなっていき、安定して仕事に行くことが出来なくなってしまったため、残念ながら退職しました。
退職から3ヶ月経った頃には、また症状が落ち着いてきたため、うつ病の薬などを飲みながら求職活動を始めました。

本当に治ったのか、と聞かれてしまうと、実はまだよくわかりません。うつ病になる前の自分に戻れたような気持ちは、微塵もありません。
しかし、何も無いのに泣いたり、食べることや眠ることがままならなかったり、死にたいと言いながら自傷行為を繰り返していた時期よりは、今の方が健全だとハッキリ言えます。

私のうつ病が治っていく過程については、こんな感じです。
ただ、ゆっくり休む。それが主な治療でした。
働いていない自分を責めないこと、薬をちゃんと休まず飲むこと。それをコツコツと毎日つづけることで、ここまで来ることが出来たのだと今は思います。
闘病中はこんな自分に存在する価値はないと思っていましたし、はやく死ねばいいのに、こんなにみじめに生にすがりついてダサいな、キモいな、自分なんか消えてしまえ、といつも思っていましたが、今はそれもマシになりました。
世界滅びないかな、程度になりました。

よく、やまない雨はない、明けない夜はない、と言いますが、うつ病との闘病の真っ最中というのは、自分が一体どんな目に遭っているのか、雨に降られているのか真っ暗な夜の中にいるのかも、まったくわからないような状態で、ただ苦しみに苛まれていますから、きっとそんな言葉では、心が救われることはないのではないか、と思います。
うつ病のとき、私が1番救われたのは、母の、「堂々と休みなさい」という言葉でした。
とにかく休め、上手に休め、休み方を覚えなさい、など、様々な言葉をかけてもらいましたが、とにかく、「休むことに罪悪感を抱かない」ことが、うつ病寛解への第1歩だと思いました。
休んでいることを非難しない、急かさない、など、周りの対応も、寛解には必要だったんだなと今は思います。

このぐらいです。
何をしたらすぐ治った、こんな先生の治療を受けたらすぐ治る、こんな薬を飲めばすぐ治る、などという言葉にだまされてはいけません。
焦らないことが大切です。
医者から出された薬をただただ毎日休まず適切に飲み、朝日を浴びたり、おいしいごはんをたべたり、よく眠ったりすることでしか、体も心も回復しません。
寛解への近道はないです。
コツコツと、日々、希死念慮を倒して、生きていくしかありません。

いつまでこんな生活続くのかな、死んでしまった方が楽だな、と思うかもしれませんが、適切な治療を受け、きちんと自分を大切にしていれば、いずれ、望む未来が訪れる日も来るでしょう。

私の好きな映画は、
ディセンダント シリーズ 1 2 3
です
一気に3つの紹介になりますが、これらは素晴らしいですよ、心が明るくなりました。
ディズニーやミュージカルが苦手でない方にはとてもオススメです。もちろん突然歌いだしますが、いい歌ばかりですし。
ではまた。

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