thanatos #8
25.
三月中旬。終に人革連は全ての軍事勢力を平定し、日本を再び一つにまとめ上げた。しかしここ数年の内乱により各地方では独自の自治体制が残っており、それを中央集権体制にするにはまだまだ時間が掛かりそうだった。そこで人革連は新たな日本を「大日本国連邦」の名の下に新政府を樹立し、それを世界へ正式に発表した。
日本が再び一つになれば諸外国がまた攻め寄せてくるのは目に見えていた。瑞貴はそれを見越して国際宣言より前に、三菱UCと結託し武器補給を十分に整え、国家総動員法を発令して更に軍事力を蓄えていた。国民へは「挙国皆兵」のスローガンを発し、国民総決戦を唱えた。
彼らが宣言した時には既に準備を整えていた日本に対し、外国は下手に手出しの出来ない状態となっていた。瑞貴の計画したとおりに。
厳しい経済、精神の統制に当然の如く民衆の不満は高まっていった。しかし報復を恐れ誰一人として新政府へそれを訴える者などいなかった。
*
四月。冬の寒さは地球の自転に追い立てられ、足早に去っていった。
小鳥の鳴き声がチュンチュンと聞こえる。
役所の庭の桜が窓の外で散るのを暁珠はちらりと見た。朝の明るい光が窓枠に反射して眩しかった。
彼女の横には萌鏡も腰を下ろし、ぼうっとテレビ中継を眺めていた。
画面に映し出されていたのは皇居前の雑踏や、白く高い壇の上に座る革和天皇の姿だった。
*
――東京、皇居前――
そこでは丁度一年前に足達少将が初心表明を行なった時と同じような会場の壇上に、煌びやかな格好をした瑞貴が玉座へ堂々と座っていた。以前とは比べ物にならないほどの新たな信者が瑞貴の足元で恭しく彼を見上げていた。壇の脇には綺麗な着物を身にまとった瑳夕が、顔を伏して椅子に座っているのが見える。
瑞貴は民衆を見渡し深呼吸して立ち上がる。テレビカメラが一斉にこちらへ向けられた。
「長きに渡り、この国は混乱の渦中にあった。各地で人々は脅かされ、襲われ、正に他が人肉を喰らう世であった」
瑞貴は厳しい顔でそう言い、改まって民衆を見渡した。そして顔の筋肉を緩ませる。
「しかし、それもこの日で全て終わる・・・」
一歩前へ進み出て瑞貴は大きく息を吸った。
「今ここに、平和が蘇る!」
数千の民衆から歓声が沸き起こる。隣の者と抱き合ったり、嬉し涙を目に浮かべたりする者もいる。確かにその瞬間、彼らにとって平和は訪れたのだろう。
しかしテレビ中継を目にする地方の人間にとって、それは恐怖政治の始まりを表明するのと同じであった。ある家族は子供を抱えて身を寄せ合い、老夫婦は愚かしげな目で画面を眺めた。暁珠と萌鏡は何も口にすることなく、ただ無表情でブラウン管を見つめた。
小一時間後、全ての事項を終えた瑞貴は一歩一歩段を踏みしめて下りていった。地上が迫る。人々の顔が分かる。畏怖。それだけしか感じられない。まだまだ遠い場所だというのに最前列のジャーナリストが後退りする。
後十数段という所になって、民衆を掻き分けて誰かが姿を現した。
「ピ、ピリオド!」
誰かが叫ぶ。
親兵が武器を構える。それを瑞貴は手で制した。
顔半分を隠した仮面、体中を覆った包帯。黒い軍服と外套、腰の刀など正にピリオドその人が瑞貴の前に立っていた。
ピリオドが無言で歩を進める。カメラの群れが自然に脇へ退く。階段を上って瑞貴の前で彼を見上げる。
そして――
「うぐっ!」
ピリオドが素早く抜刀した切っ先が瑞貴の腹を深々と刺した。
瑳夕が目を見開いて二人を見つめる。民衆から悲鳴が上がる。それは次々に飛び火して雑踏を混乱させた。瞬時に親兵が民衆や残りの軍人たちへ銃口を向けて威嚇する。民衆の中の各地点からも武器を隠し持っていた者たちが人々の身動きを封じる。
「・・・っ・・・くっ・・・う・・・」
低く唸るように声を漏らしながら、瑞貴は血で真っ赤になった手をピリオドの肩へ載せた。彼の耳元で何かを囁く。ピリオドは瑞貴の体の向こう側へ突き出た切っ先を黙って眺めた。
ピリオドが一気に刃を引き抜く。激しく出血しながら瑞貴の体は階段を転げ落ちていった。
「瑞貴!」
悲鳴を上げて瑳夕が足を引きずりながら彼の下へ駆け寄る。倒れこむようにして瑞貴の手を取った。まだ温かい滑りの感触が掌に伝わる。
「み、瑞貴・・・」
おろおろと彼の体を眺めながら瑳夕が呟く。
瑞貴は何かを言おうとするも、言葉は口から溢れる血で泡立つだけだった。
「何・・・?」
瑳夕はいつの間にか涙を零しながら瑞貴に顔を近づける。瑞貴の左手がゆっくりと持ち上がる。
「さっ・・・さ・・・ゆ・・・瑳夕・・・ねえ・・・」
瑞貴の頬を流れた涙が口元の血に混じる。
そして静かに目を閉じていった。
続きの言葉を発することなく、瑞貴は息絶えた。瑳夕の頬へ触れそうだった左手は途端にその場へ下ろされた。だらりと垂れ下がった腕が二度と動くことはなかった。
「瑞貴・・・?」
瑳夕が幾ら揺れ動かしてもその瞳が再び光を宿すことはなかった。ぼろぼろと零れ落ちた涙は、固く結んだ二人の血塗られた手を洗い流した。
「いやああぁぁぁ!」
瑳夕の姿は瑞貴の亡骸と共に全国へ届いた。その悲鳴は全ての人の耳へ響き渡った。その場で混乱する民衆らを除いて。
「聞けぇ!」
壇上でピリオドが人々を見据えて叫んだ。彼の声は全ての人に届き、彼に視線を釘付けにされた。急に辺りに静けさが広がり、瑳夕のすすり泣く声が異様に響く。
「恐怖政治の下に民衆を虐げようとした者は、このピリオドが討ち取った!これより、日本はかつての民主主義に基づき、真の平和を目指した国へと生まれ変わる!」
民衆を威嚇していた者たちから歓声が上がった。瑞貴をなじる声も上がる。
放送局のマイクが捉えていたのは、彼らよりももっと近くにいた瑳夕の泣き声であった。
第3楽章 ロマンスグレーの複合性色素
瓏はIDGF抑制剤を握り締めながら青紫の頭上を仰いでいた。
赤と青のグラデーションがオレンジを侵食していく。
煌びやかな太陽が地上へ逃げ込んだ瞬間。
昼でもない、夜でもない。
影の消える次元。
魔法の時間。
26.
命篤16年、夏。混乱しきった情勢を早々に収めるべく、ピリオドは沖縄へ移っていた旧政府関係者たちを呼び寄せていた。内乱を引き起こす原因を作った者らと言っても過言ではない人間たちではあったが、当時の混乱を手早く収拾するためには確実な政治力を持つ者たちが必要であった。
彼らはまず国家体制を大統領制的議院内閣制へと移行し、より強力な三権分立を図った。国会は維持したまま、内閣における行政権は内閣総理大臣と連邦大統領に依存させ内政に内閣が、対外政策に大統領が責任を有するようになった。これにより二つの府によって責任を有されるようになった国会は権限を抑えられることとなった。
この連邦大統領の席に着いたのが、意外な才能を見せた瑳夕であった。ピリオドはその秘書という形で彼女のサポートを行なうことになった。体制が整うと瑳夕はまず、大村前首相の行なった軍備拡張による国軍省以下三庁を解体した。しかし対外国への牽制のため軍事力を手放すことはどうしても出来ず、代わりにアメリカを模した国防総省を置いた。陸・海・空軍、そして海兵隊を傘下に収め、出来うる限りの軍備削減を行なった。
ここで初めてイギリスに逃れていた皇家が帰国した。瑳夕は義父にあたる命篤天皇を鉄の仮面を被って迎えた。今まで母国と国民を捨て、安全な場所で何の苦労もなしに暮らしてきた彼らに、瑳夕はどうしても親しみを感じられないのだった。
こうして日本は9月4日、改めて「日本国連邦」として国際社会へ新政府樹立を宣言した。その頃の国際情勢は、第二次朝鮮戦争に勝利した韓国がリュウ・ドンヒョン首相の下で念願の南北合一を果たし、東西両国も激しい戦争に疲弊していた。しばらくしてアメリカのワシントンで同盟軍と連盟軍の間に休戦協定を結ばれ、ここに極東戦争は幕を下ろした。
この大戦を期に、インド共和国のマダンジート・ラーシュマニー首相の提案によって首都ニューデリーにおいて、東西勢力のどちらにも属さない第三勢力の代表らが終結し会議が催された。そこで作成された原案を基に、改めてマハーラーシュトラ州のムンバイで開かれた会議によって「世界平和維持機構憲章」が採択された。この世界平和維持機構、WPKO(ワプコー)とは、国際連合に並んで国際社会の経済、平和維持による法案の作成及び執行を決定する機関として創設された。初めインドを筆頭とする原加盟国49カ国で発足したが、徐々に国連から脱退してWPKOへ移転する国々も出てきた。そして世界は国際連合と世界平和維持機構の二つの機関が互いに牽制し合い、より権力分散を目指すようになっていったのだ。
同年、10月。サンフランシスコで催された会議に瑳夕はピリオドと共に太平洋を渡った。そこで日米安全保障条約の改定が行なわれることとなっていた。表面上の戦争は終結したものの、未だ緊迫するアジア情勢の中で日本はアメリカに頼らざるを得ず西側勢力へ再び加担しなくてはならなかった。ここで瑳夕はアメリカの要求事項を強固な意思で一部変更させ、自国に対する直接的保安目的にのみ軍の派遣責任を負うというものにさせた。
*
――青森県、海坂町――
小さなアパートの屋根を雀が数羽、辺りを行ったり来たりして互いの和音を確かめ合っている。秋の朝日が小さな部屋の窓から射し込み、朝露に屈折して微かな虹のラインを描き出す。
パタパタと部屋の中を急いた足音が木霊する。
「行ってきまぁす!」
萌鏡の声が戸口から響いて玄関へ一瞬明るい光が入り込んだ。
「気を付けてね!」
真新しいスーツ姿に身を包んだ暁珠が応えた。棚の上に置かれた鏡で最後のチェックをする。長い髪を一つに束ねたその姿には初々しい清潔感が感じられ、落ち着いた笑みにも何処かはつらつとした元気が滲み出ている。
鏡の隣に放り出された鍵を手に、急ぎ足で玄関へ向かう。
携帯電話の着信音。
置き忘れていたことに気付いて、慌てて取りに戻る。床の充電器に差し込まれた携帯をさっと取り、素早くを開いて確認する。
時は流れて 更に2年後・・・
――命篤18年夏、東京都連邦大統領官邸――
執務室の窓は開け放たれ爽やかな風が部屋の中を通り過ぎていく。足元を括られたカーテンが微かに音を立てて揺れ動く。真っ白な壁に陽光は至る所で反射し、部屋の中を明るく照らし出していた。
トントンッと資料を机の上で揃えると彼女はそれを脇へまとめた。
「さぁ、終わりましたよ。お話とは?」
大きな机の向こうに腰掛けていたのは、今年二十四歳を迎えて引き締まった顔を瑳夕が上げていた。車椅子のまま高い机に着いているので、どうしても少しこぢんまりとした印象になってしまう。
しばらく彼女を見つめていたピリオドは黙ったまま、ゆっくりと手を上げた。喉もとの変声器に指をかける。
瑳夕の胸が一瞬鋭く叩かれた。
ピリオドは機器を取り外すとそれを懐へ収め、次に顔の仮面へと手をかける。
鼓動が徐々に早駆けする。
瑳夕は息を呑んで彼の動作を見守った。
ゆっくりと彼の仮面が外される。
額・・・眉・・・目・・・鼻・・・そして――
「あなたが・・・ピリオド・・・」
そこに現れたとても若い顔に、瑳夕は思わず声を震わせた。
ピリオドが頭を下げる。
再び顔を上げたのは由玖斗であった。
「驚いたわ・・・。あなたのようにお若い方がピリオドだったなんて・・・」
「大統領閣下こそ、お若いではありませんか?」
澄んだ若々しい声で由玖斗は微笑みながら応えた。瑳夕は少し視線を外してはにかむ。
「それに、私は最初からあなたの知っているピリオドではありません。言わば彼の後継者です」
「それは・・・どういうことです?」
瑳夕は怪訝な顔をして問い返す。
「かつて人革連軍を率いたピリオド・・・。それはあなたの弟、葛西瑞貴です」
瑳夕は目を見開いて驚いた。咄嗟に何かを言おうと口を開くが、素直に言葉が出てくれない。由玖斗は辛抱強くそれを黙って見守った。
「・・・では、あなたは一体・・・?」
しばらくしてやっと瑳夕はそう尋ねた。
「私は永見由玖斗。旧政府空軍の空士長でした」
「永見・・・由玖斗・・・」
思案顔で瑳夕が数年前の記憶を辿っていく。
「あっ、人革連が日本を統一する前、最後に処刑された・・・!」
「処刑・・・されましたよ。この三年間の私は」
由玖斗が朗らかな顔のまま応える。
そして長くもたついた呼吸を一つ吐く。
再び年不相応な輝きの瞳で瑳夕を捉える。
「全ては、彼の策略通りだったんです・・・」
*
――2年前、拘置所内
カチリ。撃鉄が弾かれる。
タッァアンンン・・・
――ンンンン・・・。
拘置所に乾いた音が木霊している。
何故聞こえる?
「っく・・・あはははっ」
次に瑞貴の笑い声が耳に届いてきた。恐る恐る瞼を開くと、そこにはまだ汚れた手の甲が見えていた。混乱した由玖斗の顔を見て、更に瑞貴が笑い声を上げる。
「一体・・・何のつもりだ・・・?」
憤るでもなく、ただ何が起こっているのかが知りたくて由玖斗は尋ねた。
「くっくっ・・・申し訳ない。ただの空砲だ」
必死に笑いを堪えようとしながら瑞貴は返す。
「お前・・・!」
やっと頭に血が上って由玖斗は再び瑞貴を睨み返した。
「悪かった。許してくれ・・・。最後の戯れだ」
笑いの引いた瑞貴の瞳は、先ほどの冷えた鉄のような印象は感じられなくなっていた。
「だが、犠牲になってもらうのは確かだ」
「何が言いたい?」
それでも尚言葉に棘を忍ばせながら由玖斗が問い質す。瑞貴はにやりと笑って膝を折り、ゆっくりと由玖斗へ顔を近づけた。
「お前にはこれからピリオドとして、しばらく自分の人生を削ってもらう」
「何・・・?」
再び瑞貴は腰を上げた。
「予めピリオドという男を追放していて、結果的に都合が良くなった。ピリオドを容赦なく追い出して恐怖政治を続ける主に人々の不満は募り、逆に彼の伝説的英雄としての存在は更に民衆の心へ深く刻まれるようになっていった」
詩集の一節を読み上げるように、瑞貴は滑らかに語り続ける。
「この後その暗愚な主が日本を統一し、更なる悪政を敷けば人心は彼から更に遠く離れていくことになるだろう」
「・・・それを分かっていて何故?」
ちらりと由玖斗へ瑞貴が視線を向ける。
「人の心とは何とも単純なものだ。ある一定の同一目的のためになら、たとえ昨日の仇同士であろうと手を取り合う。人間の心理とはどうしてこう、進化と共に退化していくものなのだろうな?」
怪訝な顔のまま由玖斗は黙したまま瑞貴を見つめる。
「つまり私の本当の目的は、日本列島の統一ではなく日本人の統一なのだ」
「日本人の・・・統一・・・」
由玖斗が未だ半信半疑の顔で繰り返す。
「そう。いくら国が一つにまとまろうと、その国を動かす人民たちがいがみ合っていては何の意味も成さない。そのような弱い国などすぐに外国に攻め滅ぼされてしまうだろう」
「その同一目的が・・・お前?」
にやりと笑いかけて瑞貴は満足そうな顔をした。
「その通りだ。人民は私を恐れている。人民は私を憎んでいる。いずれ彼らは私を打ち倒そうと、その一つの目的の上に意思を重ねるだろう。そしてその一つとなった心は、後の諸外国へ対する最大の力となるだろう」
語り終えた瑞貴は静かに小窓の方へ足を進めた。
見上げる。
汚れた窓を透して白い月明かりが彼の目を優しく照らした。
「お前は・・・それでいいのか?」
由玖斗の声を背中に受け、瑞貴はゆっくりと振り返る。
「いいさ。それが人々のためだ」
瑞貴は微笑んだ。その笑顔に初めて由玖斗は彼の人間らしさを理解した。
すくっと立ち上がった。
「分かった。共に最後の犠牲になろう」
瑞貴は月明かりを背に、陰った笑みを湛えながら静かに頷いた。
*
「――そしてあの日。私は彼に言われたとおり、彼を殺害しました。人々の心をまとめ上げるために、私はピリオドの仮面を被って民衆を先導してきたのです」
長い話に由玖斗はそこで一呼吸置いた。瑳夕へちらりと目を向ける。両手で口元を覆っているが驚愕の色を隠しきれていない。
「最後に彼が言っていました。あなたのことを頼む、と」
由玖斗は懐から一通の手紙を取り出し、それを瑳夕の手元へ置いた。
「瑞貴から預かったものです」
瑳夕は片手を口元に置いたまま、震える手で手紙を掴む。何かが彼女の動作を遅らせる。すぐにそれを開くことが出来なかった。
「私は彼に頼まれたとおり、閣下に尽くしてきたつもりです。しかし閣下は私の力など無くても一人で立ち上がられた。今やこの日本国連邦の大統領にまでなられた。私の出来ることは全て無くなってしまいました」
瑳夕は手紙から視線を外して由玖斗へ向ける。
「これで私は、全ての責務を全うしたと受け取っても宜しいでしょうか?」
由玖斗はそう言って真っ直ぐに瑳夕を捉えた。瑳夕はその清らかな眼差しを心に受け止めた。未だ鼓動は早駆けするものの、何とか笑顔を浮かべて彼を見つめ返した。
「少し名残惜しい気もしますが。そうですね。あなたはこの国のために、私のために身を削って働いてくれました。あなたには本当に感謝しています。ありがとうございました」
瑳夕は車椅子の上で身を折った。彼女の姿を眺めながら、由玖斗は最後の疑問を口にした。
「私があなたの弟を殺した男であるにも関わらずですか?」
瑳夕は少し悲しそうな笑顔で答えた。
「ちゃんと理解していました。そして今日、あなたの話を聞いて本当に理解しましたよ」
由玖斗は黙って頭を深々と下げた。そして踵を返して扉へ向かっていく。戸口でまた一礼し、お互い何も口にすることなく由玖斗は大統領官邸から去っていった。
はらりと手紙を広げた。
瑳夕ねえ。
この文を読んでいる頃には、俺のことを理解してくれているだろうか。俺は他の誰にも理解されなくたっていい。たとえこの国全ての人たちから非難を受けようと、ただ瑳夕ねえに分かってさえもらえればそれでいい。
生活は順調にいってる?彼には出来る限りの支援を頼んだ。あの男なら瑳夕ねえを無事に守ってくれると信じてる。
瑳夕ねえ。あなたは俺にとって女神のような存在だった。瑳夕ねえのためになら何だって出来た。瑳夕ねえを受け入れる世界を造るためなら、世界を潰すことだって出来た。でも、あなたはそれを望んではいなかったんだね。もっと早く気付いていればよかった。そうしたら、俺は今も瑳夕ねえの隣にいれたかもしれない。
でも俺は後悔なんかしてないよ。瑳夕ねえのために生きた俺の人生は、俺にとって一番幸せな生き方だった。誰よりも愛しい人のために尽くせた俺は、とても幸せだ。
瑳夕ねえ、愛してる。誰よりも、あなただけを愛してた。
今頃全て俺の計算通りになってるだろうね。俺の策に間違いはない。
ただ一つ。斉藤だけは誤算だった。あいつがあんなに思いつめていたなんて気付かなかった。自らの命を犠牲にしてまでも俺の国を創ろうと尽力してくれたのに、俺はそれを成すことは出来なかった。斉藤にだけは本当に申し訳ないと思うよ。あの世で会ったら平謝りでもするかな。誰の目も気にすることないんだし、身分なんてものもないのだから。
瑳夕ねえのことはいつまでも俺が見守り続けるよ。心配しないで精一杯自分の人生を生きて。
それじゃあ、瑳夕ねえ。いつかまた会う日まで。
ぽたり。
手紙へ涙の粒が零れ落ちる。
インクの文字が滲んでいく。
瑳夕は手紙を握り締め、胸に抱いた。息を押し殺してむせび泣く。
爽やかな風に押されて彼女の髪が舞う。
晴れやかな情景に似つかわしくない泣き声が、流れるように空へと羽ばたいていった。
*
夏の日差しが地面を焼く。
ジージージー・・・ジージージー、ニーンニーン・・・
色々な蝉の喧騒が祠の上の枝から鳴り響いている。
サアァァ・・・サアァァ・・・
浜辺を必死に駆け上がろうとする波の音が断続的に耳をくすぐる。
ザッザッザッ――
浜辺の砂が爪先を引きずり込もうとするが関係ない。
遠くに人影が見える。
ザッザッザッ――
近づく。
ザッザッザッ――
身を包んだ真っ白なワンピースが向かい風になびいている。
ザッザッザッ――
飛ばされそうになった帽子を両手で押さえる。
ザッザッザッ――
丸い瞳をこちらへちらりと向けた。
ザッザッザッザッザ・・・。
穏やかな心で由玖斗は暁珠を見つめた。
半身のまま暁珠が由玖斗を見つめ返す。
サアァァ・・・
由玖斗は口元に穏やかな笑みを浮かべたまま彼女へ更に近づいた。
数十センチのところで足を止める。
暁珠は応対に困っているのか視線を下げてしまう。
半分開いていた口から息を吐く。
「暁珠・・・」
消え入りそうな声だったはずなのに。
自分でも聞き取れそうになかった声なのに。
帽子のつばが上がって暁珠が顔を覗かせた。
他に何もいらなかった。
さっと伸ばした腕の中に暁珠の体を包みこむ。
温かい。
背中に彼女の掌を感じる。
「ユキ君・・・」
暁珠の震える声が耳元で聞こえる。
由玖斗は目頭を熱くさせて暁珠の頭を抱いた。
ジージージー・・・ジージージー・・・
ミーンミーンミーン・・・
サアァァ・・・サアァァ・・・サアァァ・・・
*
雲。
雲。
雲。
そして真っ青な空。
中型飛行艇の狭い客室のシートから由玖斗は窓の外を眺めていた。
懐かしい世界が広がっている。
雲の上の世界。
初めてそれを見た時の感動が思い起こされる。
真っ白に輝いた海を前に、由玖斗は少し寂しい気分になった。
「こぉらっ。あんまり騒いじゃ駄目でしょ?」
暁珠の声がする。
「は~い」
「は~い」
よく似た二つの幼い声が応える。すぐに二人できゃっきゃっと騒ぎ出す。
「もう・・・」
由玖斗はいつの間にか心が満たされているのに気付き、にやりと笑って窓から視線を外した。彼の隣に並んで座る双子の娘に向き直る。
「もうすぐだよ。結珈(ゆいか)、瑛乃(あきの)。見てごらん」
そう言って由玖斗は幼い二人を抱えて窓の外を見せてやった。
「ほら、あれだよ」
結珈と瑛乃は同じ顔を輝かせた。
雲の下まで降下した飛行艇の窓から、青く煌く海面にぽつんと浮かんだ小さな島が見えた。
黒離島。あの時と変わらない姿でそれは鎮座している。
「えっ、どれどれ?」
「っ!馬鹿、足踏んでる!」
突然やってきた萌鏡に由玖斗が声を抑えて叫ぶ。
「馬鹿だって、お父さん。ひど~い」
萌鏡がおどけて双子へ向き直る。
「ひど~い」
「萌鏡ちゃん、かあいそ~」
二人が頬を膨らませて由玖斗へ顔を向ける。
「うっ・・・悪かったって。あぁ・・・男の子も欲しい・・・」
賑やかな光景を暁珠は楽しそうに微笑んで見守った。そこへ由玖斗がやれやれというような顔をして彼女の隣の座席へ腰かけた。暁珠はそんな彼の顔をじっと見つめた。
「後悔してない?」
少し心配そうに暁珠が尋ねる。
「不安は感じるよ・・・。でも、暁珠と一緒なら何だって乗り越えられるさ」
微笑みながらそう答えると、由玖斗は彼女の手に自分の手を重ねた。
数十分後、飛行艇は水を滑走路に激しくしぶきを上げながら着水した。白い尾を引きながら島へと近づいてゆく。
浜辺へ乗り上げた飛行艇から五人は降りると、雇った操縦主たちを残して砂の上を歩いていった。
南へ南へと下る。穴だらけの浜辺を過ぎると、森林地帯には旧政府軍が切り開いた道がそのまま残っていた。幾らか草花が新たに生えていたが、それほど苦もなく彼らは道を進んでいった。
「待って、二人とも!走らないで!」
二人一緒に先を行く結珈と瑛乃の後を、暁珠が駆け足で追いかける。
萌鏡は三人を眺めながら、本当に良かったと思った。
ちらりと隣を歩く兄を見やる。由玖斗は右手側にそびえる山岳地へ顔を向けていた。その顔は幸せを感じているものではなかった。
萌鏡は由玖斗の手をとった。すぐに由玖斗が彼女へ視線を移す。
「ん?何?」
「ううん。別に」
「何だよ?」
「いいってことよぉ」
由玖斗は軽く噴出して萌鏡の手を握り返した。視線の先には両手で双子の手を握る暁珠と、片手を母親に繋がれた結珈と瑛乃の姿があった。
しばらくして双子が音を上げだした頃、やっと森林が開けて島の南端の草地へと出た。そこに揃っていた懐かしい顔ぶれに由玖斗は思わず顔をほころばせた。赤城、瑳夕、井澤、ナターシャ、梶取、そして幸の、それぞれ少し年を重ねた顔が並んでいる。
「たいー!」
「たいー!」
駄々をこねていた双子が突然元気になって井澤大尉の下へ駆けていった。
「おう!でかくなったな、珈琲豆!」
「こーひーじゃないもん!」
「何?永見空士長の娘か?」
賑やかな声を耳にしながら由玖斗は杖をつく赤城の前に立っていた。
「赤城・・・。久しぶりだな」
赤城はにやりとして由玖斗へ笑いかけた。右目の義眼はそっぽを向いているが、左目はしっかりと由玖斗を捉えていた。長い髪が風になびいて平な耳が微かに見えた。
「そうだな。あの時以来か」
「あぁ・・・。あ、そうだ。お前、親御さんとは?」
赤城は気恥ずかしそうな笑みを浮かべた。
「二人とも俺が帰った時には一晩中泣いて喜んでくれたよ」
「そうか・・・。良かったな」
赤城はいつものように耐えられなくなって、それっきり視線を外してしまった。
続いて由玖斗はナターシャへと向き合う。
「暁珠から話は聞きました。俺たちのために色々として下さったんですね」
ナターシャはにっこり微笑んで首を振った。
「私たちはやるべき事をやったまでよ。・・・それはもしかしたら、自分たちのためだったかもしれないし」
「たとえそうだとしても感謝しています。ありがとうございました」
ナターシャははにかみながら軽く頭を下げた。
次に由玖斗は瑳夕へ顔を向ける。
「お久しぶりです。大統領閣下」
「そんな呼び方、あなたか梶取少将だけですよ」
瑳夕は嬉しそうに微笑みながら応えた。
「その後、政務にお変わりはありませんか?」
「テレビ局に叩かれているとおりです。私も早くアメリカへの依存を脱却したいとは思っているのですが」
「一番難しい問題ですからね」
「えぇ。でも、今日はあなたの本当の姿を見られて嬉しいです」
由玖斗は微笑んで頭を下げた。
「永見空士長!」
更に胴回りが大きくなった梶取少将が、力強く由玖斗の背中を叩く。
「っ、もう空士長ではありませんよ、梶取中佐」
「おぉっと、わしとてもう中佐ではないぞ。陸軍少将だ」
「これは失礼しました、少将殿」
おどけた声で由玖斗が謝る。
「残念だが、小倉殿は執務で忙しくて来れんかった」
少し申し訳なさそうに梶取少将が言った。
「彼は陸軍長官ですからね。私からも誘ったのですが」
瑳夕が後に続いて応えた。
「そうですか・・・。やはり、少し残念です。共に最後の戦いを切り抜けた同志ですからね」
そう言って由玖斗は改めて少将へ頭を下げて、賑やかな方へと顔を向けた。
井澤が肩に担ぎ上げていた双子を地面に下ろす。
「よぉ。元気でやってたみたいだな」
「はい。おかげさまで。大尉は・・・まだ大尉のままですか?」
「おう。俺は万年大尉だ」
誇らしげに井澤大尉はそう答えた。
「この男、昇進命令さえ聞かんのだ」
横から梶取少将が口を出す。
「自分はあまり人の上に立ちたくはないんですよ」
井澤大尉の弁解に少将は不満そうに首を横に振った。
その頃、他方では萌鏡と幸が互いに顔を合わせていた。
「元気でやってた、幸さん?」
長く髪を伸ばした幸が微笑む。
「えぇ。本当に久しぶりね。あれからもう5年が経つのね」
「今はどうしてるの?」
「家族と一緒に島根で暮らしてる」
「家族・・・って両親?」
「ううん。夫と息子」
「えぇ!」
萌鏡は周りをはばからず素っ頓狂な声を上げた。
「そんなに驚くことないでしょ?」
「だって、幸さんを虜にするような人が清の他に――」
そこまで言って萌鏡はしまったと思った。
「気にしないで。清たちだって私たちに語られることがなければ、本当にいなくなってしまうもの」
萌鏡はしばらく幸の笑顔を見つめていた。
「幸さん、幸せそうでよかった」
幸はにっこり微笑み返した。
そこへやっと話の終わった由玖斗が幸の前へやってきた。
「初めまして。萌鏡の兄の永見由玖斗です」
「本条幸です」
二人は互いに握手した。
「その節は妹がお世話になったそうで」
「えぇ。始めはとんだじゃじゃ馬娘が来たと思いました」
「もうっ、幸さん!」
二人のやり取りに首を傾げながらも、由玖斗は微笑んでそれを見守った。
「お互い辛い思いもしたでしょうけど、生き残ったもの同士最後までこの国の行く末を見届けましょう」
由玖斗の言葉に幸は笑みを浮かべて頷いた。
*
風になびいた草が白いウェーブを起こしながら静かな音を立てた。
由玖斗はゆっくりとその上を歩いていく。
視線の先には四つの墓標が並んでいた。
その向こうは崖で、水平線まで色んな青を彩った海が広がっていく。
由玖斗は墓標の前で足を止めた。少し虚ろな目で彼らを見上げる。
瑞貴
最後まで俺たちはお前に操られっぱなしだった。
お前はすごいよ。
お前がそれまでにしてきたことは、確かに酷いことだった。
たくさんの悲しみと憎しみを生み出してしまった。
でもお前はそれを知っていた。
ちゃんと理解した上で、いつも苦肉の決断だったんだな。
お前の意思は確かにお姉さんに伝えた。
ゆっくりやすんでくれ、瑞貴。
そして次は自分のためにも生きられるよう願っている。
久保
一番初めのパートナー。
長く一緒に空を駆け回ったのに、最期を見届けてやれなかった。
ごめん。
ごめんな、久保。
下平
一番俺を慕ってくれたのはお前だった。
でも一番苦しんでいたのもお前だったんだな。
家族を大切に思うあまり、仲間を裏切ることしかできなかった。
ごめんな、下平。
気付いてやれなくて。
和泰
和泰・・・
俺はお前に、必要とされる犠牲なんてこの世にはない・・・そう言ったな。
でも俺は自分が終に殺されると悟った時、俺の死の上に成り立つのが本当に平和なら、俺は必要な犠牲なんだろう・・・そう思ったんだ。
お前がしようとしたことに、やっぱり今でも俺は頷くことは出来ない。
でも、ただ何もせずに人革連が日本を占領していくのを眺めていた俺たちとは違って、お前は一刻も早く、将来的に一人でも多くの人を救おうとしたんだな。
そのためにお前は、汚れた旧政府軍を昇っていったんだな。
お前は本当にすごいよ。
お前の後を追って自ら命を絶った兵士がいた。
その兵士は、ちゃんとお前のことを見ていたんだな。
ごめんな、和泰。
本当のお前を見てやれなくて、ごめんな・・・。
ずるいよ・・・、皆
皆勝手に俺を残して・・・
由玖斗はがっくりとその場へ膝を突いた。
涙が止めどなく溢れだす。
俺を・・・
俺を一人にして・・・
「おとーさん泣かないで」
「泣かないで」
荒い息のまま由玖斗は左右の娘へ目をやった。
二人の小さな手が、彼の両目を優しく拭う。
霞んだ世界の波が静まって辺りがはっきり見えるようになった。
二人の顔を改めて見やる。
由玖斗は微笑んで娘たちの頭を優しく撫でてやった。
和泰・・・。
俺はまた思い違いをしてしまったらしい。
独りよがりな思い違い・・・。
「ありがとう・・・結珈、瑛乃・・・」
ありがとう。
皆に送る言葉もそれだけでよかった。
ありがとう。
ありがとう。
ありがとう。
ありがとう。
このレクイエムを常しえに
おわり