日記/陰謀論への目覚め
なにせ、これから一冊通読し、明日は早朝から娘の卒園式なので、ほんの流し書きになるであろう。本題。たとえば猫は、うちのめんこいしりんでもよい、彼女は、あたしはあたしわよ、など思うのだろうか。おそらく思うまい。その難易を問わず、自己認知とは命題であり、命題の認識は言語的な営為であるから。そして、思わないがゆえに、どんなに思索的で聡明な人間より、彼女は純粋に彼女である。ひとが幾多の辛苦を踏み越え、「私は私である」とわかり果て、それを声高に何百万回唱えたところで、この非=知には、とうてい太刀打ちできない。人は、さまざまな偶然から、みずからを万物の霊長など、穴がなければ掘りたいような自称をしたりするのは、つまり、わかるから、これが全てである。手垢にまみれた言であるが、わかるは分かるであり、ことばはつまり、無くもがなの分断、腑分け、どのような洞察も、「あるはある」「ないはない」、この二つの fundamental な自同律を、かちゃかちゃと神経症的に切り刻んでいる。「私は私である」、これはつまり、まったくもう、一点の曇りもなくそうであるのだ。そうである、にもかかわらず、では、私とはいかなる、などと、目を覆うようなわかりの一歩を踏み出してしまう罠、陥穽、それこそが、ことばの本性だ。前だの後だの、こんなものは、「爪先が向く方」から方図なく拡がる比喩ではあるが、ことば(及びことばの副産物である知性)の限りをつくして、ひとはわざわざ、ことばを獲得して涅槃を去り、ひと命かけて、原初の出発点へと這う這うの体で戻ったり、戻れなかったり。迷子になるためだけに、網の目のような小径を張り巡らせてきたのだ。いやはや、こうではない知性の在り方は、不可能であったのだろうか。ぼくには、どうにもわからない。だが、そんな取り付く島もない疑問をもちたくもなるくらい、人間ってよほど変だ、とぼくは思う。人生とやらの成功/失敗、沈思黙考すればするほど、ナンセンスでヘンチクリンなものだし、同じように、人類史とやらの成功/失敗、これも笑えてくるほど、ナンセンスでヘンチクリンなものである。ひとつの陰謀論的仮説:おかねとことばはグルであり、人類を骨抜きに支配するための覚醒剤である。おや、実際、ひとの気配なきおかねもちらほら、ひとの気配なきことばもちらほら。ではそろそろ、さっき到着した「日本語の発音はどう変わってきたのか」(釘貫亨、中公新書)を読む。さばら。