見出し画像

「センスがいい人」に共通するコト

最近、周りの友人から「大森さん、note更新が遅くなった理由ってさ、もしかして婚活とか恋活してない?」って言われて、完璧な『ちゃうわ!あほ!』が出た大森です。

『ちゃうわ!あほ!』とは
タイミング=若干笑い気味、そして食い気味であることが重要。
声=張りと大きさが絶妙でないとダメ。半径5mにいる人が聞き取れる程度。
意味=『ちゃうコトなくて図星なことを言われたときに使う恥じらいツッコミ』である。

書籍【センス入門】を買った理由

先日、私のnoteバディの一人、蓑口恵美さん(ミノさん)からお勧めされた書籍【センス入門】(著:松浦 弥太郎)。

「何を言うてるんや、俺はセンスの塊や」と心で自分に言い聞かせながらAmazonカートに2秒で入れてました。

はっきり言うときますけど、センスはある方やと思ってるよ。くるくるパーマネントあててるし(関西弁らしい)、柄パン履いてるし。
知人からも「大森さんってセンスあるよね!」って何回も言われてるし。同時に、「ちょっとズレてるよねw」って数倍言われてるけど。

「センスのいい人」とはまた会いたい

※こっからは本読んでの感想や抜粋入り混じった「俺note」的な感じになってます。

「情報」とは自分が実際に見たものや体験したものと定義してる人がセンスあると言われる。他人とコミュニケーションとる時に「あぁセンスええなぁ」と思うのは見た目じゃない。

この人と話をしたらちゃんと目を見て話聞いてくれる。
具体的なアドバイス欲しいときはちゃんとくれる。
そのアドバイスも実体験とかで説得力あるし刺さる。
ただ聞いて欲しいだけの時は余計なアドバイスせんと聞くに徹してくれる。
ほんでタイミング見計らって求めてる答えを「スッ」と出してくる。
こういう人とは信頼関係が深まる。
また会いたいな、一緒に何か考えたいなと思われる。
この人から何か学びたい。そう思わせてくれる。

センスは磨ける

「敬語を使うクセをつける」これもセンスを磨くための一つです。

議論が始まったり、会話が盛り上がってくると自然と関西弁になるんです。
真剣になり過ぎて感情的になることもあるんで、言葉が強くなりがちです。

もともと関西弁やから強めの口調っぽいので、どうも傷付く人もいるみたいで。
それは文化の違いなので私には非がないとは思ってますが、相手が萎縮したらもうそこで終わるんです。
良い議論も台無しやし、ファーストコンタクトがマイナス印象ってのは損ですね。

仕事だろうがなんだろうが、ツッコミポイントを見つけたらツッコミたくなるのが関西人なんですが、この時に意識的に敬語を使ってると、柔らかいツッコミになります。

信頼関係が構築できていればこんなことを気にすることはないんですが、それがないとただの攻撃とかイジメになりかねないので気をつけてます。

わざと高い価格設定の店に行く

これもすぐに実践して訓練できる「センス磨き」の一つ。
宿泊場所、ショッピング、エンタメ、どんな消費場面でも良いんですが、わざと高いお店や体験にお金を払うことがセンスを磨くことに繋がります。

大阪出身の私なんかは普段めちゃめちゃ損得考えてお金使います。
隙あらば値切るしゴネるし(TPO弁えます)、ちょっとでも安いお店でハイボール飲めたらラッキーと思ってます。

ケチとか性格が悪いって言われたらそれまでなんですが、「お得感」に対して敏感ということにしといてください。

そんな人こそ消費金額が高いお店に行って「良いな」と思うものを素直に感じることです。普段行かないお店、普段立ち寄らないブランド店、「たっか!」と思う体験を敢えてする。

高いものには高い理由がある。
値段じゃわからない良さを学ぶ。

どこがいいのか?なぜいいのか?「あぁ、だから高いのかぁ」と。
これって人に対しても同じなんちゃうかなと思います。

人と会う時って肩書きや前情報で判断しがちなんですが、まずは会って話を聞く。事実を確かめる。物でも人付き合いでも最初の入り口が大事です。

最初に「値段だけを見るという行為」って、これから感じるはずの感動を見逃したり、手放しているのと同じで結果的に損をする可能性が高いですよね。

情報収集もセンスが必要。

センスのいい人って持ってる情報もイケてたりしません?
どこからの、誰からの、『情報』を優先して引き出してるかですね。

今の時代って情報が溢れ過ぎてて、引き出しが多いですよね。どんな情報でも自由に引っ張ってこれる。ちょっとした情報ならネットで数秒。

そこで大事なのって「どこから」の「誰から」の『情報』かということであり、
加えて、ネット以上にオーガニックな情報はオフラインにありがちです。

理由は、オフラインの情報って「温もり」以上の「熱」を感じるから。生の魅力ってあるし、空気感とか周囲の反応とか。

考えること=書くこと

人が何かをを考える過程のなかで、書くという作業はとても大事です。
僕のなかでは、「書くこと」が、すなわち「考える」ということなので、思考においては、書かなければ前に進めないこともあります。

自分の頭のなかでふわふわ漂っている、非常に感覚的なものをつかまえて、ひとつひとつことばに落とし込んでいくというのが「考えること」だと僕は思っています。つかまえてきてことばにしたものを文章にしていくと、さらにいろんなものが見えてきます。

文章を書くということは、大変な集中力がいることですし、時には苦しいことですが、その末に生み出されるものは、純粋な自己情報です。
ひょっとしたら何の利益ももたらさないこともあるかもしれませんが、どこから持ってきたものでもない、完全な自分のものです。

残念なことに、ここ最近の傾向として、多くの人がものを考えなくなってきているように思います。下手をすると、そのうち「考える」ということばは死語になってしまうのではないか、とすら僕は感じています。

「考える人である」というのは、「美徳」のひとつです。
考えることができる人は、間違いなく魅力のある人で、センスのいい人です。
【センス入門】(著:松浦 弥太郎)より抜粋

このnote書きながら思わず抜粋してやったぜ。

私は書くことがめっちゃ苦手なんで、このnoteも少し苦しい作業なんですが、考える時間を作るためのnoteと思うと「あー確かにそうかも」と頷ける。
今ってなーんも意識してなくてもいろんな情報入ってきてインプットが多いから、
自分の頭を整理するためにアウトプットする時間やと思ってます。

おおきに!

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?