ショスタコーヴィチ 交響曲第7番 ハ長調 作品60|新時代のシンフォニー名曲選(2019年記事)
※本記事は、2019年頃まで雑誌「ぶらあぼ」編集部が運営していた、あるサイトに掲載していた連載記事から、記事自体に関する内容等を整理・調整したもの。(「ぶらあぼ」編集部の了承済み)
初~中級くらいのリスナーを想定した記事で、これから注目のシンフォニー、という趣旨での連載だった。2019年執筆。
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この数十年で演奏機会が著しく増加した作曲家といえば、ドミートリー・ショスタコーヴィチ(1906〜1975)は筆頭候補に挙げられるだろう。交響曲第5番だけは以前から広く聴かれていたものの、30年近く前にはかなりのマニアが聴く作曲家という扱いだった。それが「平成」の時代に広く受け入れられ、プロアマ問わず多くの作品が積極的に演奏されるようになり、いまやプロオーケストラでショスタコーヴィチのない年間スケジュールは考えられないほど。
そのなかでも、「レニングラード」と呼ばれる交響曲第7番は、単独でコンサートが成立するような大作であり、指揮者やオーケストラにとって「勝負曲」的な存在でもある。今年(2019年)に入って本作をテーマにした番組(NHK BS『玉木宏 音楽サスペンス紀行』)が放送されるなど、作品成立についての特殊な背景を踏まえて、改めて注目が集まっている。
1941年6月、ヒトラーのドイツ軍が、独ソ不可侵条約を一方的に破ってソヴィエト連邦に侵攻を開始。9月にはレニングラード(現サンクトペテルブルク)がドイツ軍に包囲されてしまった。それから44年1月まで封鎖が続き、熾烈な攻防戦と過酷な飢餓により死亡した市民は約70万人とも100万人以上とも伝えられる。この「レニングラード包囲」は映画などの題材にもなっており、ご存じの方も多いだろう。
同地に生まれ育ったショスタコーヴィチは、当時すでに著名な作曲家でありながら戦線に残ることを希望し、消防隊に参加して、市民を鼓舞する声明も発表した。レニングラードのための新しい交響曲の作曲にもすぐに取りかかったが、作曲中に当局の命によりクイブイシェフに疎開し、41年12月に同地で完成、42年3月に初演された。
ソヴィエトでの初演は国家的一大イベントとなり、全国にラジオ放送されて熱狂的に歓迎された。そればかりか、反ファシズムを掲げる西側諸国の代表、アメリカ合衆国にはスコアがマイクロフィルムのかたちで極秘裏に運ばれ、本作のアメリカ初演の権利を巡って名指揮者たちが争奪戦を繰り広げた。7月のアメリカ初演は、イタリアの名指揮者トスカニーニ(彼もファシズムに抵抗し母国を離れた象徴的存在だった)の指揮で行われ、これも中継が放送された。そして、包囲下のレニングラードでも、生き残った楽員が集結して8月に本作を演奏、しかもドイツ軍に向けてその模様をスピーカーで流したという。ひとつの音楽作品がこのような破格の役割を果たしたことは、それまでの音楽史全体でもほとんど類例がないだろう。
ただ、楽曲の評価や解釈は様々で、作品の真意についても、作曲者自身が友人に「ファシズムについてというより、われわれのシステム、あるいは、あらゆる形態の全体主義的体制について語っている」(千葉潤著『作曲家◎人と作品 ショスタコーヴィチ』音楽之友社 より抜粋引用)と話しており、内容の捉え方については研究と議論が続いていくだろう。
芸術作品としての歴史的背景や解釈についての研究は重要だが、その上でここで改めて注目したいのは、本作の楽曲としての「面白さ」である。3管編成の大管弦楽に、別動隊の金管群も加わるという、ショスタコーヴィチ作品中でも最大級の編成。しかも約70〜80分かかる大曲で、要所では大音響をたっぷり浴びることができる。あえて単純に言えば「オーケストラを聴く楽しさ」に満ちていて、エンターテインメント作品としてハイレベルで面白い、という点は押さえておきたい。
そういった特徴を堪能できる、本作で最も有名な場面は、第1楽章の中間部だろう。「戦争(侵略)の主題」がスネアドラムのリズムに乗って繰り返されて、ひたすらクレッシェンドしていくという、ラヴェル「ボレロ」方式の音楽だ。この主題、最初は最弱音で可愛らしく始まるが、最後は凶暴な爆音ですべてを蹂躙するという展開で、その異常な“悪”が生み出す興奮もまた作品の本質だろう。なお、この主題については、皮肉な裏の意味が込められているという説や、これを巡るバルトークとショスタコーヴィチの引用合戦など、興味深い話もあるが、本稿では触れるだけに留めたい。
また、緩徐楽章である第3楽章主部の美しさは特筆もので、心洗われるようなハーモニーは聴きどころ。特に楽章後半のヴィオラの長大な歌と清冽な弦のコラールは、本作最高の名場面であろう(ソヴィエト出身の名指揮者テミルカーノフは、なぜかここをごっそりカットしてしまっている)。
全曲の最後、第4楽章の大詰めにおけるフルボリュームの音響は、オーケストラの醍醐味のひとつであることは間違いない。そして、その圧倒的な音楽を楽しむたびに、体験した一人ひとりが、この音楽が「生まれざるを得なかった」背景に自ずと思いを馳せることになる。このことこそが、ショスタコーヴィチが心血を注いで作り上げた本作の最大の意義と言えるのではないだろうか。