重なる世界を、いかに拡げるか。|2024,Week38.
僕にはいろいろと苦手なものがあるけれど、中でも苦手なのが「雑談」です。
もちろん、僕は今年の夏で28歳を迎えた「大人」だし、会社でもいちおう管理職と呼ばれるポジションにいるわけで。どうしてもやれと言われれば手っ取り早い会話の種を見つけ、相槌を打ち、その場を乗り越えることくらいはできる。しかし、苦手なことには変わりがないから、無理した結果どっと疲れが出てグッタリしてしまう。たかだか雑談で…と思う人もいると思いますが、これが結構難しいものです。
ついこの間、友人とも、その話題になった。いわく、僕は雑談をすっ飛ばして「尋問」しているみたいだと。
友人:〇〇が好きなんですよね
僕:なんで好きなの?
友人:〇〇なんです
僕:どうして〇〇になったの?
確かに、今思い出しても会話を楽しむ雑談というよりも、何だか相手を詮索し情報収集してるみたいですね。でも、弁明するわけじゃないけれどこういうのって不用意に見当違いなことを言って相手を混乱させても良くないというこちらの勝手な配慮だったりもする。まあ、相手からすればそういうのはいいからさ、普通に会話を楽しもうよ的なノリなのかもしれないが。
だから、そういうときの雑談は極力相手任せになってしまうというか、聞かれたことにのみ答え、そこから会話を広げるようにしている。でも、それはそれで受け身すぎるとまた呆れられてしまうのだけれど…。
映画『(500)日のサマー』(2010)
2010年に公開された映画に『(500)日のサマー』という作品がある。監督は映像作家のマーク・ウェブ。建築家になることを夢見つつグリーティング会社で冴えないコピーを書いているトムが、社長アシスタントとして入社したサマーに一目惚れし、500日間を過ごすという映画です。彼もまた、僕と同じように(といってはおこがましいものの)、なかなかに面倒くさい人物です。
主人公トムは、少し夢見がち。映画『卒業』を拡大解釈し、運命を信じている、よく言えば純粋、悪くいえば世間知らずの青年だ。一方サマーは、そのような運命の恋を信じていない。運命を語るトムに「Love is a fantasy.(愛は絵空事よ)」とシニカルに言ってのける。ここまで書けば、よくある男女のラヴ・ストーリーのようにも思えるけれど、この映画は冒頭にはこんな注釈が入っている。
自分のアタマの中にいる、妄想のサマーを見続けるトム
詳しいところはこの映画を見て欲しいのだけれど、この映画はトムとサマーの「すれ違い」っぷりが、見ていて痛々しいほどに描かれている。こちらは良かれと思ってしたことが、相手からすれば「ぜんぜん違う!」となってしまうような。この映画は、トム目線で描かれているから割とトムの心象風景は理解しやすい一方で、サマーのほうはほとんど分からないつくりになっている。だから、余計に「お互いのすれ違い」が浮き彫りになりやすい。
出会って28日目。会社の飲み会でカラオケバーに行くトムとサマー。そこで二人は恋愛観について解釈をぶつけ合う。サマーは「愛は絵空事よ」と言い、トムは「君は間違っている、愛を感じればわかるよ」と。その後、酔った友人をタクシーで見送ったあとに見つめ合う二人は、こんなすれ違いを起こしてしまう。
この会話の少し前、サマーは愛について「恋人になるのは嫌なの、誰かの所有物になるのは最悪」と語っていた。だからトムは、サマーに配慮して「友達として好き」と言ってしまったのだろうけれど。思っていた答えじゃなかったサマーは、足早にその場を後にしてしまう。
他にも、109日目にトムは初めてサマーの部屋を訪れるも、その感慨に浸りきっていてサマーの話を全くと言っていいほど聞いていない。あまり本心を見せないサマーが、よく見るという夢の話をしているというのに。
こんな調子だから、トムはずっとサマーを見ていない。
いや、実際に行為として見ているのだけれど、その対象はトムのアタマの中にいる「妄想のサマー」であって、そこに確かに存在している「現実のサマー」ではない。なぜサマーが「恋人になるのは嫌」といったのか。そこに隠された意図は何だったのか。なぜトムに夢の話をしてくれたのか。トムはまったく知らない。いや、知ろうとすら、していないのだ。
変わりつつあるサマーと、全く変わらないトム。
そのズレっぷりが頂点を迎えるのが、2人で映画『卒業』を観たあと。この映画のラストは、主人公が結婚式当日に花嫁を奪いに行き、それに応じた花嫁と二人でバスに飛び乗り安堵するものの、次第に二人の表情は笑顔から真顔に曇っていくという、映画史に残るエンディングシーンの一つだ。この映画を観ながら、サマーは涙を流すのだ。
なぜ彼女が涙を流すのだろうか。愛は絵空事よとシニカルに言ってのけるサマーならば、それみたことか、愛は永遠じゃない。あんなに不安になるくらいならそのまま元の人と結婚すればいいのに、と笑い飛ばしそうなものなのに。彼女は嗚咽混じりに、涙を流すのだ。
おそらく、これは彼女の中で愛に対する価値観が段々と変わっていったことを示しているのだと思う。トムとの生活の中で運命のような恋愛があるんじゃないかと、少しずつでも変わってきた。だからこそ、映画のラストシーンで二人が見せる真顔に、「現実はこんなにつらいものか」とショックを受けている。
しかし、トムは涙を流すサマーに戸惑い「ただの映画だよ」と言ってしまう。もともと、トムは映画『卒業』を拡大解釈するような人物。おそらく、卒業のラストの真顔なんて気が付かなかったのではないだろうか。サマーに「愛は感じればわかるよ」と豪語するものの、本人は肝心の愛などこれっぽっちも分かっていない。いや、分かろうとしていない。そのことに気がついてしまったサマーは、その日の夕食の席で「会うのはやめるわ」とトムに告げる。
僕が主観的に見える世界と、彼女が見える世界。それらを包み込む客観的世界の狭間で
良かれと思ってしたことが全然いることが裏目に出たり、思いがけない一言が相手を傷つけてしまったり。これは別に色恋に限る話じゃないけれど、こうしたすれ違いについて、割と誰しもが同様の経験を持っていると思う。別に何かの悪気があるわけではない。トムにしたって自分なりにサマーを思った結果でもあるし、サマーにしたって自分なりにトムを思った結果でもある。でも、うまくいかない。思うようにいかない。
思うに、自分が主観的に捉えている世界と、客観的にそこにある世界は、その成り立ちからして全然違うものなんじゃないかと考えている。僕から見える世界は、僕の目から見た彼女がいて、彼女の見える世界は、彼女の目から見た僕がいる。客観的事実だけを並べれば、世界には僕と彼女が存在している以上の意味は含まれないが、それぞれの世界において、お互いは特別な意味を持ち合っている。特別だからこそ、客観的事実を超えた主観的な「意味合い」が肥大化し、現実を飲み込んでしまうのだ。だから何だ、と言われればそれまでだけれど、500日のサマーを見ていると、そうしたお互いが感じる特別さが「運命的」なだけに、噛み合わなさが余計に目立っててしまうのではないだろうか。
僕らはトムとサマーを客観的な世界から第三者的に見ているから「おいおい、なぜそこで好きと言えないんだ、トムよ」とか「サマーよ、経験が薄いトムにはそれは酷だって」と言ってしまえるのだろうけれど。当の本人たちからしたら、精一杯やった結果なのかもしれない、と。
自分の心をちゃんと知ろうとしてくれた夫と出会ったサマーと、
運命的な次の出会いに心躍らせるトムの新しい門出を見ると。
彼らは出会うべくして出会い、すれ違うべくしてすれ違って言ったのだろうと思う。その意味で言えば、この映画は冒頭にある通り、ボーイ・ミーツ・ガールの映画だ。ラブストーリーではない。
僕らが主観的な世界から抜け出すために…
とまあ、だからといって自分が主観的に捉えている世界に浸ることを肯定するかと言われれば、違うと思う。「そういうものだ」「それがどうした」と居直ってしまえば、得られるものは少なくなってしまいますからね。むしろ、お互いの見えている世界が違うからこそ、僕らはコミュニケートし合い、お互いを確かめていくのだ、と。
そんなわけでこの3連休は「雑談」と名の付く本を2、3冊読みました。なんとか、自分も変われるきっかけになるといいのだけれど…。