見出し画像

第14回:『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』

大学生のある時期、僕は少し貧乏な暮らしをしていたことがある。ちょうど大学に入りたての頃で世間知らずだった僕は、バイト代が入るとすぐにコーヒーや飲み会、本やらなにかにつぎ込んでしまい文字通り一文無しになってしまった。だから食事も節約して1日1.5食くらいにしていたし、エアコンの電気代ももったいないからと夏や冬は大学の図書館に一日中こもっていたこともある(ありがたいことに僕の家は大学から徒歩5分のところにあった)。お金が無いことをごまかすために散歩や街歩きが趣味だと嘘をついてデート代を節約したこともある。もっとも、それがきっかけで今では散歩が趣味になったけど。


今振り返ってみるとわりに大変だったなと思うこともあったけど、辛いと思ったことは無かった。第一、身から出たサビとも思っていたし、どこからかお金が降ってくるわけでもないのだからまあ仕方ないと思っていた。それに、無ければ無いでなんとかなると思っていて、実際になんとかなったから今の僕がある。でもまあ、それなりに大変だったこともある。



こういう話をすると貧乏自慢じゃないけれど「俺のほうがもっと辛かった」、「そんなのは貧乏に入らない」といったマウント合戦のようなものがたまに起こる。本当にお金が無くて大学の学生課から借金をしたとか、Suicaの500円のデポジットで1週間を乗り切ったとか。正直、貧乏の尺度なんて決まっていないのだから、それぞれの苦労話を面白がればいいのになぜか張り合ってしまうのだ。もしくはその逆で、「そんなに辛かったのね」とか「そういう経験も、たまにはしてみたかったな」というような遠回しな裕福自慢に発展することもある。これはこれで、我慢ならないけど。


思うに、どちらにも共通するのが「想像力の乏しさ」だろう。貧乏な人は自分のことに精一杯で違う種類の貧乏に気が付けないし、裕福な人はそもそも貧乏という状態をイメージできない。相手の状況をイメージするには考えるための材料や時間、そもそも考えたいという欲求が必要だが、彼らから見れば「他人の貧乏」は考えるのに値しないものや、遠い別の場所の話に写っている。だから話が貧乏自慢や裕福自慢にすり替わったり、別の方向に転換してしまうのだ。


もちろん、どれだけ材料を集めて想像してみたところで真実の姿ではなく、あくまで「イメージ」。間違って理解してしまう場合も多くあると思う。でもだからといって想像を働かせなくても良いと思ってしまうのは何だか違う気がする。少なくとも僕個人の意見としては、想像力があればある程度のところまでは物事に寄り添えると思うのだ。たとえ裕福でも貧乏だったとしても。



映画:『この世界の(さらにいくつもの)片隅に(2019)』

ついこの間、『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』という映画を見た。かなり話題になった作品だから、今更あらすじを説明する必要も無いかもしれないけれど、広島県呉に嫁いだすずさんという女性が戦時下で暮らす様子を描いた作品です。前作の『この世界の片隅に』に250カット追加しただけあって、省略されていた登場人物一人ひとりの背景も明らかになっており、とても良かった。


それにしても、戦争をテーマにした映画でこれほど日常に寄り添った映画は他に見当たらないんじゃないか。多くは兵士を主人公にした戦場の出来事だったり、政治家や軍人の視点から戦争のダイナミズムを描いていたり。すずさんのような戦争とは直接的な関係が薄い市井の人々に焦点を当てたというのは、かなり珍しい作品だと言える。


というわけでとても楽しみながら(時折悲しんだり)過ごした168分だったのだが、実は言うとこの映画を見ているあいだずっとおなかが空いていた。というのもこの映画では食事シーンが結構な割合を占めていて、そのどれもが美味しそうだから。最初は縁側にやってきた座敷わらしが食べるスイカ、次は呉に嫁いだ初日のごちそう、ほかにもすずさんが少ない配給の中やりくりして作った野草のご飯などなど。映画を見てそんなにおなかが空いたのは久しぶりのことだった。



どんな歴史の出来事にも、必ず人間の営みがある

衣食住という言葉がある。当たり前の感覚過ぎてつい忘れがちになるがこの3つがなければ生活は成り立たず、人間の営みには欠かせない要素だ。


思えば、戦争は、その3つともを奪いかねない。すずが過ごした時代は、衣食は配給制で家庭ごとに配られた切符がなければ物を手に入れられなかった。住居にしても空襲に備えるために防空壕を掘ったり、建物疎開として打ち壊したりもした。恥ずかしながら、いわゆる「モンペ」が手持ちの着物をリメイクして作っていたことをこの映画で知った。それこそ、嫁入り道具で持っていった着物にハサミを入れ、「戦闘服」に仕立てる。本当にギリギリのラインの上で、「生活」をしていたのだ。



僕らは普段、教科書的に歴史を振り返る向きがあるが、その一コマ一コマにも必ず人間の「生活」があった。もっと遡れば江戸時代も、鎌倉時代も、飛鳥時代も、古墳時代も、そのまた昔もずっと。人間は「生活」という営みを続けてきた。僕らと同じように、生きてきたのだ。

そのあいだ生きていた人たちが、なにに苦しみ、なにを食べて、なにを着て、どんな暮らしをしていたのか。どんなふうに死んで、どんなふうに生きのびてきたのか。


これらの日常は比較的地味で、目立たない。多くの人が注目するのは、もっと華々しくて、分かりやすい光景。でも、だからこそあまり注目されない部分に、真実に近いなにかが詰まっているのではないか。そのことを少しでも想像しようとすることこそ、必要なのではないか。間違いつつでも。


そう考えるとこの映画は反戦とか、戦争賛美とかといった評価は当てはまらないと思う。描いているのは広い広い世界の中の、日本という国の、ほんの小さな片隅に。僕らと同じような生活があったということだけ。だからこそ、それが持つ意味は本当に大きい。


あえて別の視点から、物事を眺めてみる

それにしてもやはり夏になるとこの手の映画が注目される。それこそ昔は戦争映画特集じゃないけれど『火垂るの墓』とか『硫黄島からの手紙』とかが金曜ロードショーで放送されていた。今はもう、あまり放送されなくなったけど。多分、何かと苦情のようなものがあるのかもしれない。確かに戦争系の映画は、賛否が分かれるから。

それにしても本当におなかが空く映画でした。見ているこっちがつられてしまうほどに。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集