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第14回:『Sing Street』(2016)

映画の瞬間、なんてたいそうなマガジン名をつけてエッセイ(のようなもの)を書いているけれど、僕は映画についてただの素人、好きな映画を好きなように楽しんでいるに過ぎない。これまでに映画を撮ったこともなければ、体系的に映画を学んだこともなく、好きなジャンルも偏っているから映画好きならこれを見なくちゃ!という作品も、正直あまり見ていない。だから単なる映画好きが気ままに楽しんでいる。それだけです。



だからこのエッセイ群は、映画の解説でもなければ、構図に込められた秘密を解き明かす考察でもない。映画好きの一人が、独断と偏見で一本の映画についてああでもないこうでもないと楽しんでいるだけの文章だ。構成もでたらめで、話が横道にそれることも多々ある。仮に映画に関連する部分とそうでない部分を比率で表してみたら、3:7くらいになるんじゃないだろうか。それくらいこの文章は、映画そのものについてより他の話題が多い。もちろん、載せる情報は間違いがあってはいけないから、それなりに下調べはしているものの。


映画の選択は、あまり深く考えず幅広く取り上げたいと思っているものの、基本的には僕が良いなあと思えるものを書きたいと思っています。あくまで「良いなあ」という温度感。これが「好き」になると伝えたい思いが強すぎるあまりに空回りしてしまうし、安易に言葉にしてしまえばその映画が持つ様々な要素が削ぎ落とされかねない。映画を楽しむには、まず映画を見る必要がある。だからこそまずは映画を見てみようかなと思ってもらえるようなきっかけづくりをしたいと思っている。

とはいえ、実際はあくまで僕自身が自己流に気楽に、自由にのびのびと感想を述べているだけ。でも僕は、それでいいと思っています。そもそも映画の見方に決まった正解はないし、それぞれの見方があっていい。もちろん、この見方は映画の大事な部分を見落としたり見間違えたりするかもしれないけれど、そのかわりずっと、映画が好きであり続けられると思うから。


映画:『Sing Street(2016)』

映画『シング・ストリート』は、家庭の都合で荒れた公立校に転校させられた14歳の少年コナー・ローラーが、一目惚れした女性にアプローチしようとバンドを組む話。監督は、『はじまりのうた』のジョン・カーニー。音楽をテーマに少年の恋と友情を描いた青春ドラマだ。



あらすじはというと、1980年代の大不況の影響で、コナーの父は失業。そのせいで私立の学校から荒れた公立校へ転校させられてしまう。おまけに母親の不倫も発覚し、家の中も外も大変な状況に。唯一の楽しみは、音楽マニアの兄と見る海を隔てた隣国ロンドンで活躍するバンドのMVを見ているときだけ。

そんなある日、学校の校門近くにたたずむ一人の女性を見つける。彼女の名前はラフィーナ。大人びていて周りの人間とは違うオーラを放っている彼女に惹かれたコナーはとっさに話しかけ「僕のバンドのMVに出演しないか?」と誘う。バンドなんて組んでいないのに。

勢いで仲間を集めてバンドを組むコナー。最初は彼女にアプローチしたくて始めたが、才能あふれる仲間に触発されるように音楽に打ち込むように。兄にいわれた「自分の曲で口説け」にも後押しされ、オリジナル曲をつくり始めたコナーは、いつしか隣国ロンドンでの活躍を夢見るように……。


コナーのようなことって多かれ少なかれ経験があると思う。僕自身も高校生の頃に2ヶ月おきくらいで会っていた女性の気を引きたくて、生物系を先行する彼女が好きなマグロについて猛勉強して葛西臨海水族園でうんちくを披露したことがある。もっとも、彼女の知識は付け焼き刃の僕のそれを上回るものだったけれど。


最初は彼女の気を引きたい、近づきたいと思って始めたバンドだったが、次第に音楽そのものにのめり込んでいく。その姿は音楽そのもにも現れている。例えば1曲めに登場する「The Riddle of the Model」はデヴィッド・ボウイのサイケデリックな雰囲気を思わせるが、2曲めの「A beautiful sea」、3曲めの「UP」と作曲を重ねるうちにロックからバラード、ポップソングと曲調も大きく変化。14歳のバンドでそんなことが可能なのか?と思うけれど、その年代の少年少女は良くも悪くも不器用で、これと決めたら突き進む危うさも持っている。コナーのバンド「シング・ストリート」もそうした思いに突き動かされるように、音楽性を高めていくのだ。


具体的で、真っ直ぐな思い

その成長は、曲調だけでなく歌詞にも現れ始める。「The Riddle of the Model(謎の女)」のタイトルにあるように、最初の頃は兄にラフィーナを好きになったきっかけを聞かれてもコナーはうまく答えられなかった。しかし、彼女と過ごす時間が増えるとともに、単なる「好き」から「恋」に感情が変化。歌詞で触れる彼女の輪郭も、次第に濃さを増していく。特に「Up」は、彼女への思いが直接的に表現されている。

Going up
She lights me up
Se breaks me up
She lifts me up
(「Up」sing street)

家庭崩壊寸前で転校した学校は荒れている。家の中も外も平穏な場所はないコナーにとって、彼女は暗闇を照らしてくれる明かりのような存在に見えたことだろう。甘いだけじゃなく、ときに強い口調でコナーにせまる彼女。そんな彼女はまさに、成長させてくれる存在だとコナーはメロディーに載せて歌うのだ。


そして、映画クライマックスで流れる「Go now」。体育館で行われた初ライブを大成功で終えたコナーは、ラフィーナと駆け落ちをすべくモーターボートに乗り込んだ際に流れる曲だ。

So here we are
We’ve got another chance for life
It’s what you want
I can see it in your eyes
You see so clear
It’s coming into light
(「Go now」sing street)

しかし、彼らの思いとは裏腹に、船を出した海は大荒れ。大粒の雨とうなり声を上げる風が、彼らの行く手を阻む。それはまるで、彼らを待ち受ける未来の姿かもしれない。

Go on, be wrong
‘Cause tomorrow you’ll be light
Don’t sit around and talk it over
You’re running out of time
Just face ahead
No going back now
(「Go now」sing street)

僕は思うんだけど、失敗できることはある意味、すごく幸せなことなんじゃないだろうか。もちろん失敗にはそれ相応の痛みを伴うし、生涯残る傷になることだってあるかもしれない。だから無責任に失敗をしようとは言えないけれど、失敗から学ぶことだってたくさんある……かもしれない。弱冠25歳の僕が人生を語るなんざおこがましいから、これくらいにするけれど。


とにかく、コナーとラフィーナの人生はまだ始まったばかり。誰も君らの歩みを止められない。たとえその先に困難なことが待っていようとも正しいと思うのなら立ち止まらずに、後ろを振り向かずにただ、前だけを向いて進もうじゃないか。


好きであり続けることの大切さ

久しぶりにこんなにすがすがしい青春ドラマを見たという感じで、心が温まる作品だった。特にエンドロールで聞こえてきた歌声は大人になった彼ら?のような気がしてそれも良かった。

思うに、物事に対する姿勢として必要なことは、正しいとか正しくないかよりも、まずそれが「好きかどうか」なのかもしれない。正しさで見れば、おそらく最後の船出は正しくない。成功の見込みだって薄いだろう。けれど、彼らにとってそんなことはどうでも良くて。重要なことは、それが好きかどうか、納得できるかどうかじゃないだろうか。

安易な正しさが賞賛される時代だからこそ、内なる声に従う大切さを実感できる。まぁ、結局は自分次第なんだろうけどね。うん。

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