昔の日本の自然観と監視社会〜性食考より〜
性食考という本を読んでいる。
まだ3分の1程だが、本のメインテーマとして食べる、交わる、殺すことの中に横たわっている自然における繋がりについて神話や昔話なども手がかりにしながら紐解いていくという本である。
その中で日本と西洋における動物の扱い方という視点が面白いと思った。
日本では動物を人間と同列とみなし、人間が動物に恋をするし、動物が人間に変身をし求婚を迫りそれを人間も許諾するといった行為が珍しくなく描かれている。
一方、西洋では蛙の王子様が例として出されているが、動物と人間は決して同列のものではなく人間が魔法によって蛙に変えられてしまい、それを姫が戻すというようなことがあっても蛙が人間に化けて出るといったようなことはない。
これは人間が自然界とはある種断絶した世界観を持っており、そこに契約の余地が無いことを示しているように見える。
このような物語の描き方には日本と西洋の宗教性の根付き方があるのではないかと思っている。西洋では、人間を作り上げたのは絶対的な神の力によってであり、その神の法によって人間は裁かれるし、救いもされる。そしてそこに動物といった第三者は存在しない。あくまで人間と神の契約なのである。
かたや日本のように八百万の神々といった信仰を持っている場合、神は無数に存在し、自然の中に溶け込んでいる。それぞれの土地によってルールは異なるが、様々な契約が重複して結ばれ人間はどのような対象にも神との契約を見出すことができるようになった。
これを昨今取りだたされている監視社会という枠組みで見るとどうなるか、というインサイトで見ると面白いのではないかと思ったので考察してみたい。
西洋の一神教のような世界観での監視社会は中央集権的な存在が常に不特定多数の人間を監視し絶対的な法によってその処罰を決めていく。それによって中央が善良であれば幸福度は上がるが、逆であれば一気に存亡の危機だ。
他方で多神教のような世界観では監視の仕組み自体は張り巡らされているものの、そのジャッジは様々な人たちによって成される。ある人の振る舞いに関して、是非を発し、それがネットワーク全体で共有され、最終的な妥協点が見出される。これは場所によって基準が違うもので良いと思うし、それでこそ土地に根ざした神が統治するというような感覚になるのかもしれない。実際に監視カメラの映像に不特定多数の人達がコメントを付けれるメディア・アート「Exausting a Crowd」もありこれは面白かった(ICCで展示されていた)。
アメリカなんかじゃ州によって法律が違うのだし、そのような世界も面白いのではないかと思う。標準化されたものがあるから大きくハズレたものが差別や苦難を受けるわけで、標準なんてものがなければ最初から人はもっと自由に過ごせるはずなのだろうと思う。
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