死生観 生きるということ
『ぼくは しんだ じぶんで しんだ~ 谷川俊太郎と死の絵本』というドキュメンタリー番組を観た(2022年2月12日、NHKETV特集)。
子どもの自死という重いテーマの絵本『ぼく』(岩崎書店)を制作する、その道程を描いたものだ。
絵本のテキストを書いた90歳の詩人谷川俊太郎さんと絵を担当する合田里美さん、企画・編集者筒井大輔さん、岩崎書店編集堀内日出登巳さんとの間で2年間のやりとりが繰り広げられ、想いをすりあわせてこの深淵なテーマを子どもたちに手渡せるところまで深め、昇華させていくものだった。
私はこの番組のとりこになり、4回も観た。
そして絵本も買った。
編集者と絵を描いた合田里美さんのオンライントークイベントにも参加した。
外苑前のギャラリーで行われた合田さんの原画展にも行った。
合田さんと鎌倉の材木座海岸や由比ヶ浜の話をした。
どうしてこんなに執着しているのか、その理由は自分でもよく分からない。
ただ「死」を考えた。
番組を観てすぐにnote.を書きはじめたがどうしても想いが散るばかりで自分が集約できず、下書きのまま放置してしまった。
昨年は親友の死があった。私の心はまた動きまわり鎮められなくなった。
2年半の時間が経過したいま、静かな時を過ごしながら、また「死」と向きあって書きはじめた。
絵本ははじまる
「ぼくは しんだ
じぶんで しんだ
ひとりで しんだ」
生きている”ぼく”は
「あおぞら きれいだった
ともだち すきだった」
「おにぎり おいしかった
むぎちゃ つめたかった」
「でも ぼくは しんだ」
と、死んだ ”ぼく” が語っている。
普通に過ぎる日常生活の愛おしさ。
”ぼく” は小学校に通う12歳だ。
しかし、彼の日常の中に在る「孤独」にどれだけ思いを馳せることができるだろうか。
絵本は、答えのない問いに読む人一人ひとりの思いを重ねていくように作られる。
”ぼく” が死んだ理由はわからない。
”ぼく” は「死にたい」ではなく、「もう生きられない」んだなと思う。
だからこそ「死んではいけない」ではなくて「どうしたらこの世界で生きていくことができるのか」
谷川さんはそれを問い掛けたいのではないか。
谷川はいう。
「いまは意味偏重の世の中なんですよ。
誰でもなんにでも意味を見つけたがるわけね。
意味よりも大事なものは、何か存在するってことなんですよ。
何かがあるってことね」
「存在ってことを、言葉を介さないで感じとるってことが、
すごく大事だと僕は思ってんのよね。
なかなかその機会がないんですけど。」
「生きてるうえでそういうふうに、意味を回避するっていうのかな、
意味づけないで、じっと見つめるとか、
じっと我慢するとかっていうことがあるんだけど、
みんな結構そういうことはしなくなってるんですよね。
意味を見つけたら満足しちゃうみたいなね。
そうじゃないものをつくりたいとは思ってますけどね。」
「意味づけ」が大事と考え仕事をしてきた私。
仕事を意味づけたり、人生を意味づけたり………
人は自らのライフストーリーを語るとき、過去の経験を「いま、ここ」から意味づける。
過去の経験自体は変えられないが、ナラティブのなかでその「意味」は変わる。
だから人は、自身と対峙して自分の物語を語り、意味づけることでこの先を生きる力と勇気を得ると考えてきた。
谷川さんの言っていることは、意味づけで終わらない、
いや意味づける前に「いまここにいる」という存在自体をうけとめることか。考える前にね。
組織は1人欠けても1人増えても組織の存在目的は変化する。
人の存在は大きい。
それは実感している。その感覚に近い感じがする。
人は関係性の糸で繋がっているから糸の先に存在が消えるとそのテンションもなくなる、そんな感じか。
谷川さんは「引力」という言葉を使っていた。
谷川さんは、違う次元で「生」をみていた。
谷川さんがとらえる「生」は意味づける前にある、「生きている」という存在そのものだ。
谷川はいう。
「人の孤独は、〈人間社会内孤独〉と〈自然宇宙内孤独〉が意識するしな
いに関わらず、ダイナミックに重なり合っていると私は考えている。
友達や家族の中で生きる”ぼく”が自分を含めた自然に生き、ひいては限
りない宇宙のなかでも生きているのだということを絵本の中で暗示した
いのです。」
〈自然宇宙内孤独〉は自然界の中での生命としての孤独で、人間社会の人間関係の中にあって孤独になることとは全然違うという。
宇宙は未知のエネルギーで満ち溢れていて、宇宙は私たちの母。それは死後の世界にも通じる………。
思春期の頃、私は死にたくなったことが複数回あった。
生きている意味が見いだせなくなり、自分の人生を悲観し、自分の存在を消してしまいたくなった。
心傷つき、どん底まで落ちていった。
それはこの世に別れを告げて、死の世界へ行く感覚だったと思う。
しかしその感覚とは全く違う感覚で「死」を意識した体験がある。
10年前に癌を患い、手術後抗がん剤治療で入退院を繰り返した時期に、医師から「入眠剤」を処方されていた。
医師が一度その薬の種類を変えた時があった。服用した途端、私は抑鬱状態に陥った。朝起き上がる気力がなく、それどころか生きる気力さえ失いそうだった。もう生きていることがどうでもよくなった。
その感覚は今でもよく覚えている。「生」と「死」は地続きで、重苦しい肉体を脱ぎ捨てて、一歩前に進むと周囲が限りない時空間の景色に変わり解き放たれるのではないかという思いだ。
これは危ない、「鬱」なのかもしれないと踏みとどまった。
「うつ病チェックリスト」をやってみて「鬱」と自覚し、すぐに薬の処方を以前のものに戻してもらった。
しかし、鬱には波があり、間隔を空けて症状が出る。
その状態はその後数年続いた。
そのうち鬱状態か否かをチェックすることさえなくなった。
しかしいまだに不眠症だけは残っている。
思春期の頃の「死にたい」は意味づけからくる〈人間社会内孤独〉で、
10年前のは存在そのものを意識した〈自然宇宙内孤独〉に近かったのだろうか。
子どもは生まれてから時間が経っていなくて、人間社会内の関係性が薄いから、自然宇宙に敏感に反応しやすい存在なのかもしれない。
10年前の私は、病気と薬のおかげで肉体と「生」が分離しかけて ”素” の「生命」に近づいたのかもしれない。
谷川はいう。
「『生きたい』と『死にたい』は、別々のことでも、反対でもない。
自殺は、『生きたい』っていうことの連続」なのだ」と。
自分が死んでも、自分は生きるんだ。みたいなのがどっかに隠れている
と思うんだよね」
そうね。母なる宇宙の「生」に帰っていくのだものね。
(絵本)
「いなくなっても
いるよ ぼく」
(谷川)
「死んで何もかも忘れてしまうんではなくて、思い出とかそういうのは
持ってて欲しいという気持ちはあったと思うんです、 ”ぼく” にね。」
(絵本)
「おかあさん ごめんなさい
ジョイ さようなら」
やはり、自ら死んではいけないのだ。
親しい人が悲しむからではない。
生まれたことに感謝すべきだからではない。
ただ、生きて存在しているから。
生きているうちは、生きなくてはいけないから。
私がここで生きることは自然宇宙内に「生」としてあるのだから。
今日も「生きる」。
今日も「生きよう」。
毎日毎日、一瞬一瞬、積み重ねていく………………生きる連続。
それでいいのだと思う。
「死」を怖いとは思ったことはない。
肉体を持って生まれた以上、必ずその肉体は朽ちるときが来る。
それは受け入れられる。
そういうものだがら。
死んだ友だちとはもう語り合えない。
死んだ友だちを思い出して彼女だったらどう言うだろうと考える。
共通の友だちと彼女のことを語る。
それでいいのだ。
人間社会内の記憶なのだから。
この絵本はものすごく透明で
悲しいほどに美しい。
合田さんの描く表情がない ”ぼく” が海辺の街に静かに立っている。
”ぼく” の毎日がある。
合田さんがモチーフにした宇宙のスノードーム、
背景に選んだ鎌倉の海岸。
それらに親近感を持ちながら、
この悲しく広大で深い問いの中を私はいまも彷徨っている。
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