「コロナ後の社会」をつくるのは、今ここにいる私たちの行動だ~内田樹氏のインタビューを読んで
内田樹さんがロングインタビューに応えている「コロナ後の世界」を読んで、それを軸に今考えていることを整理してみる。
<内田樹の研究室>
http://blog.tatsuru.com/2020/04/22_1114.html?fbclid=IwAR1AHSGFLmTtw3G_LQPXoBLjUqtM01unbgBhQuvZ3EkZLm_V8_HX-jjTLeg
「独裁か、民主主義か」の歴史的分岐点
これは昨日のTVでハラリ氏も言っているし、私も同意。どの国も危ういエッジに立っている。どっちに転ぶかは国民がどれだけシティズンとして成熟しているかで決まるように思う。とすると、日本は…?危なっかしい状態であることな間違いない。
コロナ後の世界構図
コロナ後の世界の構図は、たぶん随分変わるんだろうなと想像はつく。米中がコロナはどっちのせいだとか稚拙な言い争いをしていたけれど、習近平の方がトランプより狡猾だ。中国はすでにコロナ後を睨んで、世界のあちこちに救援の手を差し伸べている。特にこれから蔓延するであろうアフリカに積極的になるに違いない。昨年ケニアに旅して中国の進出ぶりに驚いた。想定以上であった。たぶん、中国はコロナを契機に一段とアフリカに進出するに違いない。医療が手薄なアフリカの人々の命を救うのは喜ばしい事なのだが、やり方が汚いのがとても気に掛かる。
「アメリカの有権者は自分たちと知性・徳性において同程度の人間に親近感を覚える。」とアレクシス・ド・トクヴィルが洞察したそうだが、これには納得する。世界を左右しかねない米大統領が米国民の知性と道徳で決まってしまうのは乱暴な話だが、直線的に解釈すれば、米国民の知性と道徳が堕ちれば国威も堕ちるということだ。万が一愚鈍な大統領が、米の「しっかりした連邦制と三権分立」を壊すようなことがあれば、世界の民主主義の危機になるだろう。
内田氏は、米中2大国にしか触れていないが、私はコロナ後の世界は大国がリードする構図から、複数の国が集団でリーダーシップを発揮していく姿になるのではないかと考えている。注目するのは若いリーダーたち、そして女性リーダーだ。特に、ニュージーランドのアーダーン首相(39歳)は素晴らしい。産後まもなく国政に復帰し、コロナでは緊急事態宣言が発せられた3月25日に、トレーナー姿で自宅からfacebookで国民に語り掛けている。彼女のそうした行動は政治が国民に近いことを感じさせ、信頼も厚いという。そのほか、カナダのトルドー首相(48歳)、フィンランドのサンナ・マリン首相(34歳)らだ。彼らもまた国民に語り掛ける発信をしている。国のトップではないが、台湾のデジタル大臣、オードリー・タン氏(36歳)の活躍も脚光を浴びた。今までの国を率いるリーダーたちとは違う在り方を模索していくには、こうした20世紀の政治体制にしがらみのない若きリーダーたちの活躍が望まれる。覇を争うのではなく、違いを活かした協調する世界に向かっていって欲しいものだ。
では、日本はどうか。
内田氏の我が国のコロナ対策に対する見解に私もほぼ同意する。今までの安倍政権のコロナ危機対策は失敗している。初動の遅さ、先発した中国・韓国に学ばない姿勢、東京五輪への執着、発信力の無さ、国民より経済を優先する政策、全てお粗末である。内田氏は「安倍政権が『イデオロギー政権』だから、政策の適否よりもイデオロギーへの忠誠心の方を優先させた。」というが、私は「イデオロギー」という立派なものではなく、ただの「稚拙な意地」だと考える。安倍政権は残念ながら「成人発達」が未熟な人たちの集団であり、インテグラル理論で言えば、パープル(血族の精神)かレッド(力のある神々)レベル辺りで、部族集団か封建制くらいの世界観しか持ち合わせていない。
内田氏の「たとえ有効であることがわかっていても、中国や韓国や台湾の成功例は模倣したくない。野党も次々と対案を出していますが、それも採用しない。それは成功事例や対案の「内容」とは関係がないのです。「誰」が出した案であるかが問題なのです。」や、「主観的願望が客観的情勢判断を代行する。『そうであって欲しい』という祈願が自動的に『そうである』という事実として物質化する。」という現政権への洞察はなかなか鋭い。
こうした現政権の失敗により、今後コロナ感染は酷い状態に陥るかもしれないし、その兆候はある。だが、もしかしたらこのまま爆発的に拡大することなく、長い時間をかけて緩やかに下降するかもしれない。それは、「民度」の高い日本国民が率先して「自粛」した成果が出る場合であろう。しかし、そんなときでも現政権なら「政策が成功したからだ」と功を自分らが持っていくであろう。逆に失敗したら内田氏が言うように、「憲法のせいで必要な施策が実行できなかった」と総括されて憲法改正に走ることになってはたまったものじゃない。
では、日本は独裁にむかうのか、これまでと違う社会に向かうか?
内田氏が言うようにコロナ後、「階層の二極化が進行すれば、さらに(日本は)後進国化する」と思う。では、どうすれば民主主義が進むのか?
「民主主義は合意形成に時間がかかるし、作業効率が悪い。でも、長期的には民主的な国家のほうがよいものなんです。」確かにその通り。そして国民の7%が市民的成熟していれば、民主主義は何とか回るらしい。
私は、自粛生活の中、国内のあちこちで湧き上がっている市民活動に期待したい。コミュニティには自分の住む地域に愛着がある。地元で商売をする人はもちろんだが、在宅勤務する人が増えて、サラリーマンたちが寝に帰るだけだったコミュニティを見つめるいい機会になっている。子どもたちも家にいて、家族が日々の暮らしの大切さを再確認している。そんな中から市民活動が起き始めているのだ。マスクを製作して必要な施設に届けたり、給食がなくなった子どもたちのためにランチを作ったり、SNS上で地域のための情報交換プラットホームを作ったり、といった小さな活動である。そのような活動は、上意下達ではなく、互いの強みを出し合って協調し、合意形成しながら緩く協働していく組織だ。そうした活動の中で、自ずと市民的成熟が培われる。あちこちの地域コミュニティで生まれた市民活動組織が、少しずつ連帯して社会を底辺から変えていくことはできないかと私はほのかに期待している。
私たちがどう行動するかで次の社会が決まる
こうした市民活動は、市民のささやかな、健康で幸せな暮らしが主体だ。地域のコミュニティに根差している。大きな国レベルの中央集権的リーダーシップとは違う。街を愛し、住む人々と住む環境を守り自然と共存していく在り方を追求する、顔の見える範囲での、しなやかな、地域の成熟市民によるリーダーシップだ。世界の在り方を予測したように、そうした地域コミュニティが集団でリーダーシップを発揮していくような国の在り方があるのではないかと考える。それは、イデオロギーでもなく、利益追求でもなく、「人々の暮らし」から発生した自然な営みから生まれるものだ。自然に根差すものは、自然の循環の中にあり、しなやかで強いレジリエンスを持っている。逆境の中でも生き残るのはそうした強さを持つ連帯だ。
では、連帯はどのように生まれるのか?
私たちは、今、自分の周りから自分にできる小さな行動から始めている。一人の力ではなせない課題に直面した時に起こるのは連帯である。連帯は共感から始まる。同じ課題を負った者同士が共感から協働を試みるからである。同じ目的に向かう協働の場合、そこに利権や従属関係がは生まれにくい。共感による緩い連帯である。それがコロナ禍で加速度がついてきている。こうした連帯がどこまで、いつまで続いていくかはまだ分からないが、おそらく長く続けば続くほど、活動の範囲は広がり、集団の深度も高まるであろう。そうすればコロナ後も活動は続き、やがて社会は緩やかに変わっていく。こうした連帯は、強いレジリエンスを持つからだ。
冒頭に述べてように、私たちは今、社会のパラダイムシフトのエッジに立っている。次に迎える社会をどのようにしていくかは今ここにいる私たちの在り方、生き方そして行動にかかっているのだ。
フランスの思想家ジャック・アタリ氏は、「利他主義は合理的利己主義」だという。周囲の人々のことを考える、未来の人々のことを考えて行動することは、10年後には全て自分に返ってくるからだ。決して自分をすり減らすだけの「奉仕活動」ではない。長期的な視野に立って、生きること、暮らすことに本当に必要なことを大切にする行動から、社会のパラダイムシフトは始まるのだ。