食育のためにヴィーガニズムの「真実」を知った私が反対の立場をとってみる話
ヴィーガニズムに対する反証
前回の記事ではヴィーガンの定義や主張などをまとめたので今回はそれに対する反証をまとめることにする。
私は雑食主義者なのでどちらかと言えば反対派に近いのだが例によってこの記事は「ヴィーガンの主張は嘘wwはい論破www」という主旨ではないので、そういうのがみたい人はYouTubeでも見てください。
畜産業は動物搾取なのか
ヴィーガンの主張の中でも最も大きなテーマとして扱われていた動物の搾取や動物愛護について考えるにあたり、ヴィーガニズムの根底にある
殺生=非倫理的(悪)
を前提にすると話が終わってしまうので「動物、魚、昆虫、植物、全ての生物が餌を食べ、生息地を広げ、子孫を残し、種として繁栄するために、食物を取り合い、縄張りを争い、間接的に命を奪いあっている。人間は広い縄張りと頑丈な住処を持つが、同じ生物である」というのを前提としておきたい。
その一方で、感謝や有難いという気持ちがあれば「いただきます」の名の下、何も気にせず生き物を殺していいというのも噓だと思う。知能と理性をもって最も生息域を広げた人間の生活圏に組み込まれた生き物を健全に利用する必要があるだろう。
後述の文章はその「仕方ない」と「何をしてもいい」の間のバランスを考えるために人間社会における畜産の歴史や役割を改めて見直してみようという趣旨である。
畜産の歴史と課題点
家畜化について何年のどこで始まったと断言はできないが、山羊、羊、豚は紀元前8000年頃の南アジア、ウシは紀元前7000年頃に西南アジア、鶏は紀元前6000年頃の東南アジアの遺跡に家畜の形跡と思われる化石が残っているという。断定はできないが1万年近く前から人間は動物を飼育し、長い歴史の中で飼育技術を発達させ、人為選択による品種改良を行ってきた。
大きく状況が変わったのは19世紀後半、産業革命によってそれまで一般的な飼育方法だった放牧に大量生産の技術が導入されはじめた。更に20世紀に入って抗生物質やビタミン剤の発明で工場のような施設に高密度に家畜を飼育する集約畜産が可能になったことにより、爆発的に増加する人口へ食料を供給できるようになった。
さらに、少ない従事者でより多くの動物性たんぱく質を生産できるようになったことで、人手が他業種に流れ間接的に20世紀以降の第二次・三次産業の発展にも貢献したとされる。
世界の肉消費量は年々増加しており、FAOによれば2022年の世界の食肉生産量は牛肉が7626万トン、豚肉が1億2228万トン、鶏肉は1億204万トンだという。この膨大な量の食肉を生産できるのも上述の畜産技術の向上によるものであり、80億を超える世界人口の食生活および栄養状態を支えているといえるだろう。
その一方で集約畜産の倫理・持続可能性の問題点について指摘が多いのも事実である。
極端に高い飼育密度によるストレスはもちろん、
ケンカや共食いを防ぐための歯や嘴の除去、
妊娠ストールと呼ばれる身動きの取れない繁殖施設、
抗生物質耐性をもった細菌・寄生虫・ウィルスの発生による健康問題、
他にも畜産業界の経済構造に関する問題点として業界を牛耳る大企業が強い権力を持っているために家畜どころか畜産従事者が搾取されているという話や、南米や東南アジア等を中心に自然資源利用に反対する環境保護活動家が襲撃され毎年200人強が殺害されているという報道もあり、畜産業全体として抱える問題に対する自浄作用が失われているという指摘がある。
畜産現場の問題点を指摘するドキュメンタリー映画は多く制作されているので少し紹介しよう。少し前のアメリカのドキュメンタリーではあるが私の文章より分かりやすいと思う。
[Prime video]スーパーサイズミー2 ホーリーチキン
[Netflix]What's the Health
屠畜技術の発展
畜産業と共に発展した技術として「屠畜」がある。家畜を手早く、苦しませず、美味しく食肉として処理するための技術である。
屠畜の方法は生きたまま鈍器による殴打や刃物による放血、炭酸ガスによる失神といった方法も歴史の中で行われていたが、現代の日本の屠畜場における食肉処理の手順例は以下である。
健康状態などの生体検査
牛の場合はボルトピストルによる打額、豚や鳥の場合は頭部への電気ショックによって気絶させ無意識状態にする
首などの太い血管を切り放血させる
足先や内臓内容物などの汚れがうつらないよう前処理を行う
皮をはぎ、内臓を摘出する(これらは専門業者によって別で加工される)
専用の電動ノコギリで半身(枝肉と呼ばれる状態)に切断する
各種検査に合格したものが冷却され食肉として取引される。
ヴィーガンの主張にあったようにこの手法を使っているからといって100%の家畜が確実に何の苦しみも感じていない、とはならないだろうが、少なくとも気絶させずに切り刻むような方法よりは人道的といえる。
こういった屠畜の情報は全国の食肉市場や保健所のHPで公開されており、屠畜技術に関する詳細なマニュアルも日本食肉生産技術開発センターから公開されている。中には内臓や皮をはいだ頭部などの検査状況を写真つきで公開している自治体もある。こういった情報が公開されている背景には屠畜場を取り巻く状況が関係している。
日本において動物の死に関わる仕事をする人を穢れた存在、いわゆる「穢多」と呼ぶ差別問題は平安時代頃にはあったといわれる。武具が重宝された鎌倉時代から戦国時代には皮革の生産という役割を担っていたが、政治が安定した江戸時代からは特に激しい差別が行われた。
明治時代に呼称自体は廃止されたものの、家畜を殺す残酷な仕事という偏見は根深く、現在でも食肉市場に誹謗中傷の手紙が届いているそうだ。
また、日本の食肉市場(屠畜場)の歴史にも目を向けると、1867年に今の五反田・大崎辺りに最初の近代屠畜場できたところから始まり、1904年頃までに私営を含めて全国に1500近くの屠畜場ができた。当時の屠畜場は衛生的な不備や血抜きなどの技術が未発達であったことから現在の食肉よりも生臭かったという。また、流通経路が不明確で価格も不安定だったという問題もあった。その後、屠場法の制定、行政の直営によると畜業の開始、と畜場法改正などを経て、現在 屠畜場は全国に約170程あり、BSE対策やO157対策といった衛生管理を重視した食肉工場という役割が強くなっている。
こういった背景から差別や偏見の解消、衛生や安全管理の周知として情報を積極的に開示している、というわけだ。
アニマルウェルフェアという考え方
屠畜に関連して動物を人間のために利用するため概念としてアニマルウェルフェア(以下AW)という考え方を紹介する。
AWとは家畜だけでなく実験動物や動物園、ペットまですべての動物に人間が与える苦しみやストレスを最小限に抑えるよう配慮しようという考えである。動物愛護と違う点は生き物を殺すことや利用すること自体は否定せず、苦痛を減らすことに重きを置いている点だ。1960年代に欧州で始まったこの考え方は欧米では既に法制化されている国もあり、2022年には国連環境総会でSDGsのための行動として採択されている。
中でも家畜動物福祉の基本原則として国際獣疫事務局は
飢えおよび渇きからの自由(給餌・給水の確保)
不快からの自由(適切な飼育環境の供給)
苦痛、損傷、疾病からの自由(予防・診断・治療の適用)
正常な行動発現の自由(適切な空間、刺激、仲間の存在)
恐怖および苦悩からの自由(適切な取扱い)
の5つを示している。この他にも12章からなる国際基準が策定されており、欧州が中心となって動物衛生の向上を推進している。
日本でも2011年から農林水産省がAWに関して家畜飼育の実践事項をまとめた技術的指針を打ち出しており、年々更新を重ねながら周知や普及・推進活動を実施し、独自のガイドラインを制定する企業もでてきている。
しかし、罰則を伴う法的な規制などは設けられていないことや世間一般にAWの考え方が普及していないという実情もあり、効率と安定生産を重視した従前の飼育方法が維持され、最も基本的な給水の確保においても全国的な普及は遅れているといった指摘もされている。
当然のことながら、家畜達が自由に動き回れる広大な畜舎や、自由に食べられる餌と水、糞尿を撒き散らしても清潔が保たれる設備、これらを飼育だけでなく運搬や屠畜の施設に導入するには莫大なコストがかかり価格を上げざるを得ない。
欧米に比べて経済的な低迷が続く日本においては価格上昇による消費減と業界縮小が懸念され、行政も生産者も強い取り組みに踏み切れないという背景もあるようだ。
反ヴィーガン派による動物搾取への反論
生き物を殺して食べることに抵抗があるのは現代的な倫理観や権利意識ではなく遥か昔から意見として主張されてきた。ピタゴラスやソクラテスといった肉を食べない哲学者をピュタゴリアンと呼んだりアヒンサー(非暴力)といった食べるための殺生は不道徳だという文化や考えは紀元前から存在している。生き物の死体に食欲よりも忌避感が先行するのは当たり前の感覚なのだろう。
しかし、人類は繁栄のために家畜を屠り利用するという選択をし、現在まで安定して世界人口を増やし続けてきたという歴史的な事実がある。
人間の生存戦略は社会的分業による協働である。各々が専門性をもった仕事をすることで個人では持ちえない高度な専門技術の恩恵を受けられる社会を形成するということだ。建築業が安全な住処を、製造業が便利な道具を、サービス業が情報や娯楽を提供してくれるのと同様に現代の畜産業は衛生的な食肉を安定的に生産するという役割を担い、健康という社会基盤を支えている。
こういった人口増による発展を享受し、業界が相互に支えあうことによる恩恵を受けているという視点を無視し、家畜を殺しているという点だけに焦点をあて、畜産業という業種や肉を取り扱う飲食店を名指しにして非倫理的や搾取という主張することに対して反ヴィーガン派は「視野が狭い」と批判している。
「種」としての家畜
面白い意見だと思ったので紹介しておく。
生き物の目的は子孫を残し仲間を増やすこと、という考えに基づけば家畜は人間以上に生存競争に成功しているといえる。
「個」として家畜を考えると食べられることが好ましくないのは事実だが、「種」として考えれば世界各地に億を超える数で生息している牛、豚、鶏などは野生動物とは比べ物にならないほど繁栄しているということになる。彼らがなぜこんなにも増えたかといえば人間に家畜化されたからに他ならない。
野生動物は食べ物を探し、外敵から身を守ることに多くの時間を費やすが、家畜は人間に飼われることでそういった時間がほぼ0になり、種として生存する方法を模索する必要がなくなった。極端な例として蚕がある。蚕は家畜化されることで自然界で生き残る自然回帰能力を失い、絹糸を生産することに特化した種となった。
これから牛や豚が更に「種」として繁栄する方法は蚕同様に、いかに飼いやすく、美味しくなるか、という人間にとってのメリットを伸ばす方向性になるだろう。
逆に「個」としての繁栄を目指すなら愛玩動物になるのが手っ取り早いが人間社会、とりわけ都市部において牛や豚ほどの大きさの動物をペットとして飼育するのはかなり無理があるため人間社会において家畜を「個」として繁栄させるのは現実的ではない。
我々は人の手が加えられていない自然、天然、野生、といったものを感覚的に良いものと捉えがちだが、そういった先入観を捨てて別の視点から生き物の生存戦略として家畜化を考えた面白い意見だと感じた。
地球環境への影響
温室効果ガスの排出源として
IPCCの報告書によれば大気中に放出される温室効果ガスの76%が二酸化炭素であり、メタンガス(二酸化炭素換算値)の割合は16%である。加えて、その地球全体で排出されるメタンガスの約半分は沼地や海洋といった自然環境から排出されるものである上に、人間の活動から排出されるメタンガスの半分はエネルギー分野によると言われている。
つまり、人間の活動が排出源となるメタンガスは温室効果ガス全体の8%程であり、その中でも最も大きな要因は農畜産業ではなくエネルギー生産によるものとされる。
主な排出源と言われるエネルギー分野(化石燃料による発熱・発電)が畜産業に比べて圧倒的に高い割合を占めるため、本気で環境問題に取り組むなら比率として低い割合の畜産業由来の温室効果ガスの削減するよりもエネルギー分野への削減策を講じたほうが問題解決につながる、というのが反対派の主張だ。
さらに付け加えると、確かに温室効果ガスの増加と地球温暖化は相関関係が認められ、温室効果ガスによって過去50年間で世界平均気温が約1℃上昇したとされる。しかし、この1℃という温暖化が気候変動や地球環境にどこまで影響を与えているかは明確になっておらず、環境変動と温室効果ガスとの相関性は低い(ほかの原因が大きく影響している)とする意見も少なくない。
つまるところ、食糧生産と環境問題を天秤にかけたときに、エネルギー生産ほど主要な環境変動要因になっていないと思われる食糧生産を減退させる必要はない、という主張だ。
(なお、昨今の日本の夏の気温が大きく上昇している原因は温室効果ガスではなくヒートアイランド現象やエルニーニョ・ラニーニャ現象といった建築物や気象の影響が大きいとされる。)
とはいえ、農地開拓により熱帯林の面積が減っているのは事実だし、世界人口70億の人間が先進国と同じ量の肉を食べられるほどの資源は地球上には存在しないということも既に分かっている。加えて全世界数十億頭の家畜が環境に全く何の影響も与えていないというのも噓くさい。地球環境に及ぼす影響は明確になっていないが、畜産とそれに付随する土地開拓や運輸などから何かしらの影響はあるのではないか、とは思う。
経済活動の面からみた菜食文化
ヴィーガンが浸透しない理由に金がかかるという点がある。
日本における状況で言えば、野菜のほか大豆食品や海藻類などは入手が容易という菜食主義的な土壌はあるものの、出汁や添加物まで動物性食品を使用しないヴィーガン向けの商品がある飲食店は都市部でも非常に少なく、一般的なスーパーマーケットでも取り扱いは少ない。完全なヴィーガンを実践するとなると必然的に専用のプラントベース食品を取り寄せるか、原材料や添加物を調べて自炊をすることになる。日本にヴィーガンが浸透しない最大の要因の一つであろう。
また、代替肉やヴィーガン向け食品は工業的な製造過程が増えれば増えるほど価格に反映され、市販されている代替肉は通常の肉よりも6~7割程度高いといわれている。不足する栄養素をサプリメントで補うというのも通常の食費に加えて金がかかる選択肢だ。(野菜のみを食べることによる栄養の偏りに関する問題は後述する)
つまり、ヴィーガンを継続するには金か手間をかけることが前提になるため、食べ物へのこだわりを強く持ったうえで金銭的あるいは時間的な余裕がある人という素養が求められることになってしまう。結果として金と暇を持て余した「金持ちの道楽」という批判につながっている。
とはいえ代替肉の人気が失速しているのは、雑食主義者からは肉に比べて高価な割に味が劣るという点、環境問題や動物福祉の問題に関心の高い人々は加工品よりもシンプルな材料で作った健康的な食べ物を選びたいという点で、どちらのニーズも掴みきれていないという問題もあるので、今後技術発展により状況が変わる可能性は十分にあるだろう。
人体に肉食は必要なのか
菜食文化が普及した理由
観光庁の発表によれば訪日外国人数上位20ヵ国のうち最も菜食主義者の比率の多い国はインドであり、次いで台湾である。インドはヒンドゥー教やジャイナ教の非暴力、台湾は仏教的な台湾素食が根付いていることに由来しているとされ、観光庁の資料にはないがイスラエルも同様の理由で世界的に菜食主義者比率が高い国だとされる。
一方で、ここ20年程の菜食主義者数の増加率に着目すると欧米が2倍近くと圧倒的であり、アジア圏の約1.1倍と比較してその伸び率は遥かに高い。これは、持続可能性や環境問題への関心が高まったことにより欧米的な食生活が見直されたことが大きく関係している。その影響は日本にもおよび、ヴィーガンの増加や菜食主義メニューへの注目として現れている。
しかしながら、根本的な話として日本は欧米ほど肉を食べていない国であるため欧米的な食生活の改善を背景としたヴィーガニズムをそのまま当てはめるのは間違いだという反対派の主張があった。
WHOやOur World in Dataのデータによれば欧米諸国の過体重(BMI25以上)の割合は50~60%前後、肥満(BMI30以上)だとおよそ20~30%程度であるのに対し、日本は過体重が25%、肥満は5%程度だそうだ。
また、OECDなどのデータによれば肉類消費量はアメリカの年間約100kg/人をトップに欧州諸国はおよそ60~70kg/人のところ、日本は約40kg/人だという。
つまり、欧米諸国は平均的に毎日200g近い肉を消費し、国民の3~4人に1人が治療が必要なレベルの肥満体型である、ということだ。
なお、厚生労働省や農林水産省によれば日本の食生活でさえ、たんぱく質も脂質も摂取推奨量を上回る量を食べているらしいので、遺伝子的な差はあれど欧米の食生活は明らかに肉を食べ過ぎている。
そんな行き過ぎた肉食文化に歯止めをかける思想がヴィーガンであるため、比較的肉を食べていない日本ではヴィーガンという思想は文化的にマッチしない、というのが反対派の主張だ。
栄養素に関する問題
肉類を完全に排除した食事は栄養成分の偏りから不足する栄養素があるというのはヴィーガンの人々も認めている事実だろう。具体的にはタンパク質に加え、ビタミンD、ビタミンB12、カルシウムなどの微量栄養素などが不足することが分かっている。タンパク質やカロリー不足に関しては豆類やナッツ類を多く食べることで補えると主張されるが、食事量の少ない女性や子ども、高齢者は必要量に対して摂取量が不足してしまう場合が多い。
さらに問題になるのは推奨摂取量がmgやμg程のごく少量だけ必要といわれるビタミンやミネラルの微量栄養素だ。これらが欠乏すると体の不調だけでなく慢性疾患や発達障害等、様々な影響が出ることがWHOや各国際機関の調査で分かっている。
不足する栄養素はサプリメントで補えるという主張もよくされるが、精製されたサプリメントの多量摂取は肝臓に負担がかかるという報告もあるため、保健機能食品による不足する栄養素の摂取は補助的なものと考えたほうがよいだろう。
そもそも、人間の体には何がどれだけ必要か、というのは専門家も分からないというのが答えになる。上記の微量栄養素が人体においてどのような働きをしているか、個人差はあるのか、どの食材にどれほど含まれているのか、長期的な影響はあるのか等、分からないことがほとんどである。
ゆえに、活動家がSNS等で発信する「健康にヴィーガンが実現できる食事」といった情報はあくまで個人の感覚の話であり、人体に必要な食事としての実証的な根拠はないとされる。
また、雑食主義者よりヴィーガンの方が健康な人が多いという主張に対しては、食に気を配っていることが前提にあるヴィーガンと食に興味のない人では食事以外の生活習慣も違うことから単純な比較に懐疑的な意見も多い。
加えて、前回の記事で扱った国際がん研究機関(IARC)が発表した肉の発がん性に関して、農林水産省は肉を大量に消費する欧米と日本とでは状況が違うことも踏まえ、
「日本人の平均的な摂取の範囲であればリスクに与える影響は小さく、日本においては心筋梗塞より脳卒中の罹患率の方が高いことから、評価を受けて極端に量を制限する必要性はないと言える。」
と発表している。
もちろん専門的な食事管理とトレーニングに行い、ヴィーガンでありながらアスリートやボディビルダーをしている人物も多くおり、Netflixでもドキュメンタリーが配信されている。
[Netflix]ゲームチェンジャー
しかしながら、肉体的パフォーマンスや健康管理が直接仕事に繋がらない一般的な労働者が専門のトレーナーのアドバイスなしに同じことをするには、専門知識と身体の状態を客観的に評価する視点が必要なため難易度は極めて高いといえるだろう。
人間の身体の作りからみる食性
かなり極端な主張ではあるが「人間の歯は臼歯が多く草食動物と同じであることから本来は草食動物である」、「ゾウやゴリラなどの大型の草食動物が植物のみで体を維持できるのだから人間も同じことができる」という意見に対する反証も書いておく。
草食動物が植物のみを食べて大きな体を維持できる理由は、体長の10~20倍の長い消化管に住む大量の微生物が植物の細胞壁を構成するセルロースを分解しタンパク質やアミノ酸を生成しているからである。草食動物は植物自体を栄養として吸収しているのではなく、植物によって増えた体内の微生物を吸収して体を維持している。人間の消化器官はセルロースを消化できないため明確に草食動物とは体のつくりが違う。人間にすむ微生物は上記のような消化酵素は生成できず、消化管(おもに胃)の酸性度が高いのでそういった微生物を体内に住まわせることもできない。
一方で人間は目が正面にあり立体的にものを見れたり、消化管が体長の5~6倍であるという特徴から肉食動物に近いという意見もあるが、肉食動物が肉のみで健康に生きていけるのは獲物の肉だけでなく内臓も生で食べることで草食動物が体内に持つ栄養素を全て摂取するからである。人間は部分的には食べられるものの食中毒の観点から基本的に火を通さずに食べることはできない。
これらの事実からヒトの体のつくりは肉食と草食の中間である雑食動物だといえる。
ちなみに、雑食動物というと何でも食べらられる便利体質という文脈で語られがちだが、中毒にならないものを経験から選んで食べる必要があるという弱点と表裏一体でもある。また、ヒトの他に哺乳類ではネズミ、リス、サル、クマ、イノシシ、タヌキ、鳥類ではスズメやカラス、魚類ではコイやフナなどが雑食とされている。
日本の肉食の歴史
前回の記事で「古来より日本の為政者は度々肉食を禁じるお触れを出し、肉食禁止の文化は飛鳥時代から1200年近く続いた」と述べたが、この日本の肉食文化について反証を書いておく。
675年に天武天皇は牛、馬、犬、猿、鶏を食べることを禁じたが、このお触れには「それ以外の肉はいいがこれらは罪となる」という続きがあり、日本の野生動物の代表である猪と鹿は除外しているそうだ。
また、その後も天皇や貴族から何度も禁止令が出ているというのは、裏を返せば何度禁止しても肉は食べられ続けていた、ということになる。
確かに飛鳥・奈良時代の仏教文化と共に肉食禁止は広まったが、これは貴族や僧侶の話であり、庶民は野生動物を食べ、鶏や猪を飼育もしていたという。現代と違い、凶作や戦争で大規模な飢饉が度々起きていた時代に、野生動物を捕まえて食べていた、というのは至って普通のことだろう。
平安時代になると庶民の間でも仏教が広まり、肉食を避け魚を中心に食べるようになったそうだが、屠畜技術の章で書いた通り、獣肉を処理する職業(当時は屠児と呼んだ)があり差別される存在であったという記録が残っている。
その後の鎌倉時代から戦国時代には武士の台頭により狩猟による獣肉食は公卿の間にも浸透することとなり、南蛮貿易で伝来した牛肉も薬として支配階級の間でごく少数だけ流通するようになったそうだ。(献上品として有名なものに彦根藩の近江牛の味噌漬けがある。)
江戸時代にも建前上は肉食の禁止はされていたものの、江戸市中には獣肉食の専門店があったという記録があり、馬肉を「さくら」、猪肉を「ぼたん」「やまくじら」、鹿肉を「もみじ」と呼ぶのはこの頃の隠語が一般化したものだという。
以上の話を総合すると
建前上、長らく禁止とされたが人々は生きるために食べていた
公卿や僧侶による仏教由来の肉食禁止文化と、武士や庶民による生活のための雑食文化が別々に発達した
食べるために飼育されていた家畜はごく一部だった
鹿、狸、猪、兎、熊、犬などの野生動物は古くから食べられていた一方で牛は薬として一部で食べられる程度だった
といったところだろうか。
日本においても明治時代よりずっと昔から肉を食べる文化は存在し、禁止された時代があっても消えずに今日まで続いてきた、というのは疑いようのない事実であるよう思う。
ヴィーガン関係の話を浴びまくった感想
今回の反証については人間が肉を食べるってことが当然のこととして扱われすぎて具体的な数字や根拠をもった意見としてまとめるのがめちゃくちゃ大変で合間に色々はさんだ結果3か月もかかった。もうやりたくない。
それとヴィーガンの主張を調べたおかげか反ヴィーガンの主張(特に動物愛護に関係する話題)を的外れだと感じることも多く、あ~こうやって嚙み合わない議論が生まれるんだな~と感じた。
ともあれ調べながらずっと思っていたのは、ヴィーガンは言うなれば0か100かの議論における0側の極端な意見であることを自覚した上で、人体に肉は不要みたいな明らかに偏った主張をしない方がいいだろ、ってこと。
「肉は今や嗜好品!誰もが肉を食べ過ぎています!」みたいな主張にしといたほうが長い目で見て畜産業の健全化とかにも繋がるんじゃないの?と感じた。
あと何故か知らんが自分がヴィーガンになったきっかけを語りたがる人がやたらと多いんですよね。ヴィーガンの有用性を信じていればいるほど「私が悟りを開くに至った経緯」みたいな語り口になって宗教勧誘に近い胡散臭い不気味さを孕んでしまう。(変な対話風の台本を子どもに読ませている自然派you tuberの動画とかマジで酷かった)
んで長々と語る割に結局、家畜の死だとか生物感のある塊肉を目の当たりにして動物愛護に目覚めヴィーガンになったって話がやたら多い。そりゃ今時家畜サイズの生き物の死に立ち会うことってめったにないからカルチャーショックはあるんだろうけど、エピソードが被りすぎてることと前述の胡散臭さも相まって、初めて海外旅行とか行った後に「人生観変わったわ~お前も海外行っといた方がいいぞ」とか言う大学生の話を聞いている気分だ。
まぁ私も近々、品川の中央卸売市場の見学にでも行ってカルチャーショック感じてみようかな。
と、ヴィーガン活動家への文句を垂れてしまったが、文句がある一方で現在の畜産業を取り巻く状況が家畜動物にとって、あるいは地球環境にとって健全な状況ではないこともわかった。雑食主義者として人類が健康に繁栄を続けるには肉食が必要という意見は変わらないが、「屠畜は当たり前のこと」「命をもらうために、いただきますと言うべき」などと雰囲気で語るのではなく、自分が食べるものへの知識は常に更新していかねば、というある意味当然のことが今回の学びでした。