万葉時代 社会への中国古典思想の影響
私の記事の悪い所で、一般的な鑑賞とは違い、万葉集の歌を歌が詠われたその当時の時代を想像しながら眺めています。さらに、たちが悪いのは、世の中の解説をそこで示す根拠や理由をその原資料から確認し、それが正しいと確認したものだけから歌を眺めます。そのために標準的な鑑賞態度と比べ、ほぼ、眉唾のような眺め方になっています。それも私だけの特異な単独の作業ですから富山大学の文学部の教授が言う「トンデモ論」の定義そのものです。ただ、眉唾・与太話の垂れ流しでは申し訳ありませんから、その眉唾となった背景を私が運用するブログの資料庫に参照資料として収容しています。そこを確認していただければ眉唾・与太が、なるほど、与太だと判るようになっています。その分、現存する墨子や楊朱のものは全部を訓じて資料として提供するなど、実にアホなことをしています。
歴史で何が正しいかを考える時、例えば律令制度と当時の出納帳などの実録から街道での野垂れ死について考えますと、その多くは朝廷が「浮浪」と区分する里や一族内での集団生活に馴染まず、そこから溢れ出た人の可能性の方が高いと思われます。律令時代の郡衙・国衙などの出納帳に残す食料等の支給記録からすると、制度的にそれらの支給や救護を受ける公用の運脚・庸役の人々が野垂れ死する場面は非常に限定的です。また、通説とは違い、飛鳥浄御原宮から平城京神亀時代の郡司は世襲ではなく、国擬・式部省銓擬制度に従い能力考課により選抜された郡司候補を国司が推薦し、都の式部省で登用考課を行います。このような選抜登用が行われていますと、自身も都への往復を経験しますから公用街道で運脚などの公用旅人に多数の野垂れ死を出すような郡からの郡司候補には相当なプレッシャーになるのではないでしょうか。なお、この制度運用は藤原氏が政権を握る天平時代以降、別勅から考課規定を変更して終身・世襲任命へと変化します。一般にはこの別勅による特例施行以降から終身と考えます。なお、藤原宇合は式部卿としてこの制度変更を指揮します。
また、江戸末期から昭和時代の古典専門家は、平安時代の宮中女房達は訓点付きであっても万葉集が読めず、古今和歌六帖などのひらがな表記和歌から万葉集の歌を知ったとします。ところが平成時代の源氏物語引き歌研究書は逆に宮中女房達が訓点を持った二十巻本万葉集から十分に楽しんでいたことを報告します。
このように色々ありますが、根拠や理由を多方面から確認しますと、弊ブログ程度の眉唾・与太話程度のものを専門書の中でも眺めることが出来ます。
以前、令和三年に墨子や楊朱で遊んでいました。背景として、令和二年の秋、聖徳太子の万葉集歌について確認している作業の中で、季節性から「聖徳太子は大工さんの神様」と云う話題にぶつかりました。確認作業で、「大工さんの神様」から「規矩の統領」へ展開し、次いで古代中国での規矩、幾何学、建築土木技術と眺め、結果、『墨子』に行きつきました。ただ、日本人向けのものがネット上に無く、個人作業で整備した『墨子』の訓じと解釈を備忘として私のブログの資料庫に載せた次第です。また、noteに投稿するようになり、ここnoteにも納めています。
さらに、整備した『墨子』を与太的に眺めている過程で、孟子が「聖王不作、諸侯放恣、處士橫議、楊朱墨翟之言盈天下。天下之言、不歸楊、則歸墨。(聖王は作さず、諸侯は放恣し、處士は橫議して、楊朱・墨翟の言、天下に盈つ。天下の言、楊に歸せずんば、則ち墨に歸す。)」と、周代・戦国時代初頭の言論界を評論しているものにぶつかりました。その二大思想を比較・確認する作業の中で楊朱を理解する必要となり、ネットなどから私レベルで収集可能なものを点検し、備忘として『楊朱』の形で原文と訓読を資料庫に収容しました。ただ、この過程で、私が眺めた楊朱の姿と一般的な日本の儒学研究を中心とする漢文研究者側から評論した姿が相当に違う為に、さらに雑記として、なぜ、楊朱と墨子とが儒学にとって都合が悪いのかと云う視点から、楊朱に対する与太話を雑記として載せました。
紹介するように日本では墨子や楊朱は有名ではありません。墨子は漫画の「墨攻」から多少は有名ですが、そこで描く姿は儒学者側から近世の西洋思想との比較を通じて眺めたもので、墨子の本質ではありません。思想『墨子』が生まれた時代、周代・戦国時代初期にあって、弱肉強食の戦乱の最中です。その時代、自分の命を賭けた勝ち抜き戦を戦う君王・諸侯が、なぜ、『墨子』を選択したかを考える必要があります。キャッチ―な「兼愛」や「非攻」の言葉に惹かれて選択したのではありません。君王たちは自分の生命財産を守るために功利として具体的な富国強兵の政策として採用したのです。書籍の『墨子』の半分は言葉の定義の部分と論理的思考方法の提示に加え具体的な軍事技術方法論で占められています。現代の論理的思考方法から『墨子』を眺めれば、どのような統治論が展開しているか明白です。それが、荀子がいやいやながらも認めるように富国強兵の基礎は皆兵制度の国民軍の提案であって、伝統的な階層社会から実力主義への転換です。
非熟練兵を前提とした集団戦闘の国民軍と儒学が強調する身分階層を絶対的に区分する「分」と「礼」の理論は相性が悪いのです。戦闘中に友軍内での彼我の関係を「分」と「礼」から厳密に行っては自分の生命を守ることも困難となります。『墨子』が示すように、集団戦闘では彼我間での相互信頼=兼愛が重要になります。『墨子』では旅行中に残置する家族の保護を彼我の関係での例としていますが、これを戦闘状況で置き換えるとさらに理解が進みます。三人一組の隊にあって前方攻撃担当と側方防護担当との間に信頼関係が無いと、前方攻撃担当は攻撃に専念できません。疑心暗鬼では側方防御の二人が前方攻撃をおとりとして逃げるかもしれませんし、寝返って後ろから撃たれるかもしれません。ただし、このような状況は儒学が区分する被支配者層の労働や兵役での同輩共同作業などの場で現れ、他方、常に競争や個の存在が問われる諸侯や士大夫などの階層では同輩共同作業は想定しにくいものです。その分、儒学は、外国人と自国民、辺境民と近隣民、他人と家族の例を挙げて、それぞれでの愛情/信頼性の多寡や濃度は違うと反論します。日本人では墨子の指摘も儒学の反論も共に納得し、それでも実務的には墨子の相互信頼の必要性を優先的に理解します。一方、大陸では2500年に渡って、未だ、同輩共同作業での墨子の指摘と家族中心主義からの儒学による反論の間で議論が行われています。実に国民性です。
視線を変え、昭和期の思想家の好みを踏まえて、古代大和と儒学の関係について遊んでみます。私の理解で、古い時代の儒学は物事での調和・秩序を大切にしますが、その調和・秩序は厳格な長幼・父子・君臣などの上下関係を本にした礼によって保たれる必要があると説きます。それもそれぞれの心の中で思うのではなく、正しい外見を見せる礼儀として行われ、それを人々が目視でき、目視・体験から判らせることを基本とします。ここで、私の理解での儒学は、前秦時代、前漢時代末期以降、唐代末期以降など、時代に合わせて変化したと考えます。この理解の下、今回の与太話は唐代末期以前の万葉集時代に関わる古い時代の儒学、孔丘の『論語』を対象としています。つまり、近世からの新解釈により作り替えられた新しい時代の孔子の『論語』は対象外ですのでご理解下さい。
私が示す古い時代の儒学に対する理解が正しいのなら、標準的な古代史研究者の指摘とは違い、聖徳太子の憲法十七条の基本精神に儒学はありません。一般に、『礼記』の「礼之以和為貴」、『論語』の「礼之用和為貴」の文節から、その表記からすると憲法十七条の「以和為貴」はそれらと同じだから、憲法十七条は儒学の影響を受けたとします。ところが、文に示すように儒学の「和」は上下関係を基準にした「礼」による調和、つまり社会秩序を指します。一方、一般に憲法十七条の「和」の理解は大和言葉のやわらぎ(和らぎ)からの仲間内感覚や融和を指すと解説します。人間関係において大陸の上下の縦と、大和の対等の横との違いがあります。示すものでの根本思想が違うのです。
このように単純な表記比較で話題とするか、本質的な内容比較で話題とするかで、結論は違います。ただ、古代史研究者にとって内容比較を話題とすると、聖徳太子や日本書紀が儒学以外のどこから大和言葉「やわらぎ」の漢字表記となる「和」と云う思想を得たかを示すことは大変に難しくなります。また、憲法十七条に『墨子』の「尚同」と「兼愛」とを合わせたような独自の統治哲学を認めますと、飛鳥時代に大和の人々が大陸とは違う独自の統治哲学を持ち、それを文字で示したことになり、従来の大和が儒学の四書五経により統治哲学を学んだという歴史の仮定が崩壊します。加えて、その時、大和と隋帝国との間で日出国の「以和為貴」と日没国の「礼之用和為貴」とで重大な統治論への論争があったことになり、歴史解釈が大きく変わります。もし、隋の学者がこの統治の本質論議に気付いていたら、当然、地理的距離に関わらずに視察団を派遣しても不思議ではありません。返書に示すように隋の学者や隋使は確かに大和の天皇と大王とによる二元統治に興味を示しています。歴史的に見ると隋と大和が連絡を取り合った時代、大和は倭五王時代以降では好太王碑が示すように半島への軍事派兵能力では渤海湾や山東半島の東海の渡海を軍事として求められた隋と同等の渡海能力を有する軍事大国です。
昭和時代の論議は別として、古事記や延喜式祝詞が大和の書物としますと、それが示すように大和は合議により仲間内から有能な代表者を互選し、その有能な代表者の指導に従うと云う社会です。万葉集で柿本人麻呂は草壁皇子の挽歌で「天の河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひ座して 神分ち 分ちし時に 天照らす 日女の尊 天をば知らしますと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひし極 知らします 神の命と 天雲の 八重かき別けて 神下し 座せまつりて 高照らす 日の皇子は 飛鳥の 浄の宮に 神ながら 太敷きまして」と詠います。そこでは、天界の神々が天の河原で集会を開き、天界の指導者は天照大神が、地界は天武天皇が執ると定めたとします。柿本人麻呂が示す社会は儒学が求める君王・諸侯・士大夫・官吏・民百姓と云うような上下関係が明白な絶対的な階層社会ではありません。確かに天界の神々は天武天皇を地界の指導者と定めましたが、思想は同じ一族での仲間内の合議制による互選です。当然、「仲間内」の範囲の考え方で儒学的な扱いも可能ですが、大和では皇族を除くと部民/賤民以外の国民は階層を持たない同じ良民に区分される仲間内です。
さらに、祈年祭の祝詞の一節「手肱に水沫畫き垂り、向股に泥畫き寄せて、取作らむ奥津御年」と示すように天皇は祭祀に捧げる豊穣物のために泥田に入り稲作と云う肉体労働を行います。これは、孔丘が「人」と「民」とを絶対的に区分した『論語』の世界ではありません。また、荘子や荀子が求めた社会での役割と立場からのそれぞれの「分」を説くものからすると君王たる天皇が絶対にしてはいけない「肉体労働」の姿です。つまり、柿本人麻呂が示す合議制の社会と同じように延喜式祝詞の祈年祭が示す貴人勤労の世界は儒学的な社会ではありません。これが大和の同じ仲間内と云う「和」なのです。
また、大化の改新以降、大和は支配者階層で行われていた規模を持つ古墳墓から薄葬へ転換し、これを人倫とします。この薄葬は一時的なものではなく奈良時代には仏教と結びつき、さらに先鋭化すると遺体を野に棄てると言う嵯峨天皇の檀林皇后九相図の世界として現れます。大化の改新までには儒教の影響が日本支配者層には普遍していたとする立場からすると、大変に説明困難な大和朝廷による薄葬への転換と定着です。そこで、その時代性から唐の高宗の葬儀を参考にしたのではないかとの説を提示します。その根拠として高宗の葬儀に関して儀礼を取り仕切る立場の秘書監 虞世南は薄葬方針で行いたいとの意見を述べた上奏文「其略日、昔堯葬壽陵、因山爲禮、無封樹、無立寝殿園邑、爲棺桿足以藏骨、爲衣衾足以朽肉(その略に曰く、むかし堯、壽陵に葬られ、山によりて鰐をなし、封樹なく、寝殿園邑を立つることなく、棺桿をつくるは、以て骨を藏するに足り、衣衾をつくるは、以て肉を朽ちさせるに足るなり。)」を提示します。つまり、大和は大唐の最新葬儀に模倣したとの主張です。ただ、なぜ、この時期から急に道教を主とする唐皇帝一族の模倣が必要となったかは示しません。
なお、その虞世南は『墨子・節用中』の一節「古者聖王制為節葬之法曰、衣三領、足以朽肉、棺三寸、足以朽骸、堀穴深不通於泉、流不発洩則止。(古の聖王は節葬の法を制為して曰く、衣三領、以って肉の朽るに足り、棺三寸、以って骸の朽るに足り、堀穴の深さは泉に通ぜす、流は発洩せずば則ち止む。)」を引用する雰囲気があります。先に聖徳太子は「規矩の統領」の話題を提案しましたが、その憲法十七条では第八条の「群卿百寮、早朝晏退。公事靡監、終日難盡。是以、遲朝不逮于急、早退必事不盡。」は、『墨子・非楽上編』に載る「王公大人蚤朝晏退、聴獄治政。此其分事也。」や「今唯母在乎王公大人説楽而聴之、則必不能蚤早朝晏退聴獄治政。」を参考にした姿があります。聖徳太子の時代、人々は十分に『墨子』を理解しているのです。そのため、大和朝廷の薄葬への転換が大唐の最新葬儀に模倣だけなのか、『墨子』の思想を取り入れたものなのかの判断は難しいものがあります。いずれにせよ、儒者が一番に活躍する場となるはずの葬儀に日本では儒学は関与していないのです。結果、日本では平安時代中期以降に葬儀を仏教僧侶が主業務として扱うようになります。
参考情報として、墨翟は『墨子』の中で厚葬は中華中原地域の風習であって、中国南方の国や西方の国では別の風習があると指摘し、人の死を悼む人倫の現れとして中原地域の風習が絶対的に正しいものではないと主張します。楊朱は葬儀では死者を悼む気持ちが重要であって、儒者後進派が重要視する「礼=形式」ではないと非難します。このように葬儀に地域性が出るとしますと、先に唐高宗の葬儀の薄葬を話題にしましたが、隋・唐は北方民族・鮮卑族が漢化した人たちにより建国したとしますから、その鮮卑族の葬儀は中原の風習からすると薄葬スタイルです。可能性として、大陸にあっても漢民族でない王朝では葬儀で儒学が求める厚葬を行わない可能性があるのかもしれません。おまけで、大化以降の大和の薄葬は男帝天皇以外を制限するのが本来で、皇位継承のごたごたで天武天皇以外、立派な墳墓を築く天皇が現れなかった結果論かもしれません。
額田王の時代から橘諸兄の時代までを万葉時代と呼びますと、私の知識程度では、この時代に儒学の影響を見つけることは困難です。「以和為貴」と同様に、表層的に語句の比較を行えば孟子や荀子に載る単語との共通点を見つけることは可能と思いますが、儒学を前提として万葉集和歌を鑑賞しなければいけないと云う可能性は少ないと考えます。逆に大伴旅人や山上憶良などを宋代以降の新しい儒学思想から眺めると誤解する可能性があると危惧します。例えば、旅人や憶良の時代、旅人たち高度な知識階級が僧侶に仏教哲学を教授する時代で、まだ、念仏仏教の時代ではありません。旅人たちの仏教は哲学として理解する必要があり、大和哲学のような形態を持ちます。また、令和で有名になった梅花三十二首の前置漢文の辞に蘭亭序の影響を指摘する人もいますが、梅花辞の目的は一字一音の万葉仮名だけで表記する大和歌による大和民族の文学創作の表明文で、漢文学からの影響離脱宣言です。ただし、漢文作辞では先行する多くの文章を引用して綴るのが作辞技法としますから、技法上、言葉の類似が現れますし、それを知識とします。引用に新奇を組み込むのが漢文作辞法です。その分、内実まで踏み込まないと影響評価は出来ません。
私の考えでは古語解説を除いて、万葉集の歌は現代日本人でも特別に語句への術語解釈の教育を受けなくても眺めることは可能と思います。逆に日本人の生活の中にどれほど唐代以前の古い儒学が浸透しているでしょうか。ほぼ、影響は無いと思います。万葉集時代、儒学の基本テキストは前漢代編纂の古い『論語』が中心と思いますが、その『論語』を原文直読した場合と近世以降の思想で解釈した場合とで内容理解が大幅に違う可能性があります。時代として、人間・孔丘の『論語』で扱う「人」の意味合いは士大夫以上の男子を意味し、近世以降の解釈「国民」や「民衆」を意味しません。近世以降の解釈となる「民衆」に相当するものは「民」で表現しますが、人間・孔丘の『論語』で扱う礼儀や精神論の対象は士大夫以上の男子である「人」だけです。
さらに、人間・孔丘の考える「民」は馬や羊の家畜と同類程度の扱いと理解する必要があります。中国共産党の「人民」と「国民」との基本概念の違いよりもさらに大きなものがあります。次の世代、そのような思想に反発した墨学が世に受け入れられるようになり、「民」は家畜と同類程度の扱いから「人間」に昇格します。現実的な統治論として、その社会を構成する大多数の「人間」を対象として為政を行わないと戦争に勝つための富国強兵策が実施出来ないことを君王や諸侯階級に理解されるようになります。「戦争に勝つ」、これを主題とする墨学が世の中の思想の中心になります。
統治スタイルの差から国力の差が決定的になった周代・戦国時代末期、荀子は諸国への視察旅行を行い、「人間」を対象とする為政を唱える墨学を国家運営の基本概念とした秦国が非熟練の国民兵で組成した大軍団と斉などの旧来の選抜精鋭部隊を中核とする軍団との比較を行い、大国同士の戦争では選抜精鋭部隊では国民兵の大軍団には勝てないと結論します。このような現実を理解しても特権階級に属する荀子は指導者層と被指導者層とを「分」の思想で機能分離し、指導者層には「礼」の思想に従った仁と徳を教育することが必要とします。同時に指導者層には秦国視察で無視された賢学者への厚礼を、正しく行うことを求めます。
荀子の前、墨学が世に受け入れられた時代、儒学側で墨学に習い最初に為政の対象に「民」を含めるように変更して「民爲貴、社稷次之、君爲軽」と述べて思想を展開したのが孟子です。ただ、その孟子は秦朝時代でも儒学八派の一つに留まり、儒学に「民=人間」の思想を取り入れた孟子が世の中で評価されるようになるのは唐代の韓愈による再発見以降です。孟子の時代では、「民爲貴」なら墨学で十分だったのでしょう。精神論としての再発見は安禄山たちの安史の乱(755~763)以降の古文復興運動の中での儒学復興の動きによると解説しますから、万葉集の時代より下った時代の出来事です。反って、儒学側から儒学復興の必要性が強調されるように韓愈以前では唐の思想界に儒学の影響は薄かったと思われます。それに、日本と大陸は安史の乱以降は遣唐使による公式の交流が途絶えますから、韓愈による孟子再発見の情報伝達は遅れたと考えます。
加えて、万葉時代、特に額田王や柿本人麻呂の時代、『日本書紀』の天武天皇二年の詔「又婦女者。無問有夫無夫及長幼。欲進仕者聴矣。其考選准官人之例」に示すように、女性は男性と同等に官人採用され、天武天皇十一年の詔「婦女乗馬如男夫」に前年の天武天皇十年の記事「而検校装束鞍馬」を重ね合わせると、高貴な女性の警備を担当する女武芸者でなくても任官し出世した女性官人は縦乗り騎乗で観閲式に参加しています。その時代、万葉集には但馬皇女に「朝、川を渡る」と詠う歌(歌番号116)がありますから、女性官人だけでなく若い皇女もまた日常に騎乗します。しかしながら、このような女性官人や皇女が騎乗する姿は、時に年配の男性より女性の頭の位置が高いこととなり、「礼」を基準とする儒学の世界での風景ではありません。中国では女性は輿に乗りますがその輿は轅を腰の位置で支える腰輿や手輿と呼ばれる運用スタイルです。頭の位置は高貴な女性でも低いのです。
色々と、万葉時代を眺めると、そこには儒学はありません。他方、当時有力な仏教は国家運用への具体的な方法論を示すものではありません。僧侶の中に仏教装置となる寺や仏像関係の建築や製造技術者がいますが、仏教の経典体系に統治論を示すことはありません。それは仏教が目指す現世解脱の世界とは逆の方向です。古代中国にあって商鞅、李斯、韓非たちを儒学者と考えないのと同じです。
史実として飛鳥浄御原宮から飛鳥藤原京の時代に大和は実質的な天皇/大王を頂点とする最初の中央集権国家として成立しました。東は関東北部地域から西は九州北部地域までを行政区域とする中央集権国家ですから、一定の統治思想に従った統一した法治が行われていたと考えられます。このときに、どのような考えで国家運営のグランドデザインを描いたのでしょうか。従来は儒学思想で国家運営の大本を描いたと想定していたと思いますが、日本書紀、古事記、延喜式祝詞、万葉集などを眺めますと根本部分に儒学思想はありません。加えて、万葉時代の大和朝廷の中枢部の人々は非常に若いのです。政権首班の高市皇子、法務整備担当の忍壁皇子、藤原一族代表の中臣意美麻呂など、活躍の中心時代は20代から30代です。遣唐使副使などを執った藤原史の子の藤原宇合は10代で既に頭角を現します。この時代、平安時代とは違い、畿内中心ではありますが、多くの氏族の中から有能者が男女を問わずに登用され、完全な実力主義からの適材適所で政権は運営されています。これでは儒学の長幼の秩序を唱える訳にもいきませんし、旧習を乗り越えて登用された若い世代が改めて儒の「分」と「礼」の理論による政治を選択したでしょうか。
672年の壬申の乱から729年の長屋王の変までの約60年間は、それ以降の激動の奈良時代とは違い、大津皇子の事件に蝦夷や隼人との行政区拡大に伴う紛争を例外とすると平穏な統治が行われています。その中心時代となる飛鳥浄御原宮から飛鳥藤原京の時代、壬申の乱で戦い勝った天武天皇と高市皇子との親子はどのような施政方針や思想で国家運営のグランドデザインを描いたのでしょうか。天武天皇や高市皇子は明確に仏教を統治の道具として考えるような功利的な親子ですから、仏教徒ではありません。では、道教でしょうか。従来の研究では古代大和に道教や墨学の姿は無いと報告します。それで古代史研究では、ほぼ、道教とその道師、また、墨子は扱いません。
さらに目先を変えて、文化を「流民」と云う視線から見た時、万葉時代以前の大陸は五胡十六国時代から隋建国までの周代・春秋期以来の「流民」の時代です。支配者は土地に縛られず地域を移動し適地を見つけ根を張ります。それでも状況により地域を移動します。非支配者となる民も土地に縛られることなく、生活に適した地域を求め一族や縁者で移動し適地に根を張ります。また、支配者と同様に土地に執着を持たずに状況により地域を移動します。背景の一部に、『孔子家語』の「子路覆醢」や『荀子・正論篇』の「故脯巨人、而炙嬰兒矣」が示すように中華中原には食人文化があり、逃げ遅れ捕まると脯や醢に加工され「礼」の人牲や食料にされてしまいます。それで地域防衛が出来ないとき、土地を棄て流民となり逃げ出します。基本的に大和人では理解できない流民文化です。唯一の例外が士農工商の身分差を建前とした江戸期の248件の事例を示す藩主改易です。この藩主改易でのみ、土地の歴史に基づかない支配者・非支配者関係が現れます。その時、儒学特有の支配者・非支配者を厳格する統治精神論が有効だったのかもしれません。儒学は流民文化の中で「権力の大きさの見える化=礼」から生まれた中華中原の統治思想と思われ、それなら大和文化には不要ですし、差別・区別を原則とする儒学は大和の「和」を基本とする統治では逆に邪魔です。
古代から現代までの日本人の本質が主義主張的なものよりも「良いものは良い」と云う日々の生活を優先する長期視線の功利的なものとしますと、「和」を基準とした現実優先主義の「良いものは良い」が大和人特有の根本思想だったのかもしれません。空理な思想哲学よりも実務方法論を優先し、墨学や法家の良い所だけを採用したのかもしれません。これはこれで立派な方法論哲学ですが、海外の先行する哲学を基準に類型となるように「形」や「形式」を求める哲学思想家から見ると「日本人には哲学が無い」と見えるかもしれません。
近代思想者が求める理想類型に当てはまらない社会を、時に衆愚社会や衆愚政治と分類しますが、結果において民が平穏無事に生活し社会秩序が保たれているなら、そこには最大公約数的な成功した統治があります。壬申の乱から長屋王の変までの約60年間、豊かな食糧増産を背景に人口は約400万人から約550万人に増加し、同時に豊前国企救郡から伊豆国三島郡までを繋ぐ大船による船舶交通網が統治や文化を支え、板葺の宮殿が豪華とされたものが一般の役人の住宅であっても瓦葺へと変わる、万葉時代とはそのような時代です。
堂々巡りをしましたが、結果、飛鳥浄御原宮から飛鳥藤原京の時代に当時の人々がどのような思想・哲学で国家運営のグランドデザインを描いたのか、判りません。ただ、そのグランドデザインにより現在までの皇室を除けば固定した階級・階層を持たない平坦な日本と云う骨格を作っています。逆に1300年に渡り根本的な社会構造に変化が無いことにより、現代人でも日本古典は理解が容易なのかもしれません。ただ、芯となるような思想や哲学は不明です。ただただ、それは長期視線の功利主義なのでしょうか。