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奈良時代の律令官位官服制度

 万葉集と言う詩歌集を中心に論を組み立てています。その万葉集と言う詩歌集は奈良時代中期から平安時代初頭ごろに編まれたと考えられていて、現代基準では勅撰歌集の分類とはしませんが、平安時代初頭では勅撰和歌集と同じ扱いのもので当時の上級貴族は知るべき教養でした。その万葉集の歌の鑑賞にあって、歌の標題や左注に記された人物の官位と職を、すべて、棚上げし、考慮することなく鑑賞することは、平安時代初期の上級貴族たちもそうであったと思われるように、難しいと考えます。ある程度はその人物に付けられた人物の官位や職から地位や立場、また、そこから推定される歌の場面における人々の身分の上下や友好関係、宴などでの着座での位置関係を考慮すべきものではないでしょうか。
 例えば、天平二年大宰府の大伴旅人の役宅で催された宴で詠まれた「梅花謌卅二首并序」と云う作品では、参加する人々の官位と職から着座での位置関係を推定して、歌の詠い順や内容を研究することもありますし、その研究から得られたものによっては鑑賞態度も変わるようです。
 一方、意外でしょうが日本での律令官位の研究は道半ばで、大宝律令の官位体制と養老律令以降の官位体制は大幅に違うことは認識されてはいますが、その違いと運用についての解釈は、非常なる混乱と未研究の姿を示しています。例として皇族に対する諸王官位において、それに対応する職階や宮中での序列など問題があります。大宝律令での皇族の官位体系と臣民の官位体系は全くに別体系ですが、まず、別体系との意識を持って奈良時代史を考慮しているかは、大きな疑問があります。また、官位官服の規定は、推古天皇から天智天皇の時代の「聖徳太子の冠位十二階(冠の色彩):推古天皇十一年」、天武天皇の時代の「天武天皇の六十階服色」、持統天皇から文武天皇の時代の「持統天皇の六十階服色」、そして元明天皇以降の時代の「律令の官位と服色(当色)」と変遷があり、皇族と臣民の官位区分やその官位に応じた官服とそれへの当色は違います。
 これについては、可能でしたらCPから閲覧を推薦しています。これをベースとして、まず、次のHPを参照して頂きたいと思います。
 
綺陽装飾研究所HP>装飾の知識と着方>色彩と色目
http://www.kariginu.jp/kikata/5-1.htm
 
 このHPの記事では推古天皇から天智天皇の時代の「聖徳太子の冠位十二階(冠の色彩):推古天皇十一年」の官位官服表、天武天皇の時代の「天武天皇の六十階服色」、持統天皇から文武天皇の時代の「持統天皇の六十階服色」、そして元明天皇以降の時代の「律令の官位と服色(当色)、その変遷」を紹介していますが、大宝律令の官位体制と養老律令以降の官位体制については明確に区分がなされていません。これは先に説明した大宝律令の官位体制と養老律令以降の官位体制は、皇族諸王の官位体系と臣民の官位体系とで相違している問題から、違うであろうことは認識されてはいるのですが、その研究が道半ばであることに由来するのでしょう。
 では何が問題かと云いますと、大宝律令の官位体制までは五世の皇族孫までの諸王の扱いについての評価と規定です。天武十一年制定の飛鳥浄御原宮令(「天武天皇の六十階服色」)での官位官服には皇太子・皇子・五世までの諸王は「浄官」と云う官位区分が臣民(平民)とは別に設けられています。同じように持統四年に改訂された飛鳥浄御原宮令(「持統天皇の六十階服色」)でも皇太子・皇子・五世までの諸王は「浄官」と云う官位区分が臣民とは別に設けられています。ただし、「天武天皇の六十階服色」では「浄官」の人々はすべて「朱華」の官服色を身に付けますが、「持統天皇の六十階服色」では「浄官」の人々は、浄大壱から浄広弐までは「黒紫」の官服色を、浄大参から浄広肆では「赤紫」の官服色を身に付けます。先の「天武天皇の六十階服色」では皇族・五世の皇族孫までの諸王と臣民は明確に区分されていましたが、改訂された「持統天皇の六十階服色」では臣民官位での正大壱から正広肆までは「赤紫」の官服色を身に付けますから、外見からしますと浄大参から浄広肆での皇親・諸王と正大壱から正広肆までの臣民は同等となります。この正大壱から正広肆は無任所の散位であっても「卿」相当で各省庁の大臣級の身分処遇です。
 さらに元明天皇以降、大宝元年の大宝令では親王と諸王とが明冠品位と浄冠とで明確に区別され、諸王と臣民との区分が接近して来ます。明冠品位を持つ親王は全員が「黒紫」を、一方で諸王は「太政大臣」格となる浄正壱と浄従壱だけが「黒紫」を身に着け、それ以外の浄正弐から浄従五下(諸王には蔭位制度から最低官位が浄従五下です)の人は「赤紫」の官服を身に付けます。ほぼ、親王と諸王とは官位官服色で明確に区分されたことになります。
 他方、臣民は「太政大臣」格の正正壱と正従壱とが「黒紫」、正正弐から正従参までが「赤紫」の官服を身に付けます。この正従参とは養老律令からすると従三位ですから「卿」と称される身分です。つまり、外見上は「卿」格の臣民は諸王と同格となります。それ以下の臣民では直正肆上から直従五下までの人は「深緋」を身に着け「大夫」と云う階級に属することになります。ここまでが平安時代の殿上人と云うことになります。
 ここで、養老二年制定(?)・天平宝字元年に施行されたとされる養老令では大宝令と同じ区分を採用しますが、官位名称が「直正肆上」が「正四位上」へと、また、官服色が三位以上の「赤紫」が「浅紫」へと変わるなど多少の調整はありますが、ほぼ、踏襲されていたようです。ただし、養老令の施行において奈良時代と平安時代とで、諸王官位と臣民官位とがどのように扱われていたかは、十分に解明されていません。通常の解釈では諸王官位は廃止され臣民官位に吸収されたと解釈し、諸王と臣民とに区別が無くなったものとして扱います。しかしながらインターネット百科事典のウキペディアの位階の説明でも、その解説の前半と後半、また、付けられた官位の表とが相互に矛盾する状況を示しています。つまり、ウキペディアに説明を載せた人たちもまたよく判っていないという状況です。奈良律令制度は有名ですが、その肝心要となる律令体制の根幹である身分と官位とが、どのように運用されていたのかが判らないという学問での不思議があります。
 そこで、以下のものは確実に制度が確認できる天平宝字元年(757)以前の大宝律令までの規定で扱いたいと思います。その例として、万葉集の巻六に載る集歌1009の歌を取り上げてみますと、歌の左注に従三位葛城王・従四位上佐為王等とあります。この歌が詠われたのが天平八年ですから行政施行令は大宝律令に拠るとされる時代です。歴史では二人の王は敏達天皇の五世孫と思われ、三野王と県犬養橘三千代の御子です。葛城王(橘諸兄)は蔭位の制度に従って和銅三年(710)の無位から浄従五位下に、また、佐為王は和銅七年(714)に無位から浄従五位下に叙せられています。左注とは違いますが大宝律令の規定に従いますと、それが臣籍降下により葛城王は正従参、佐為王は直従肆上になったことになります。つまり、万葉集では大宝律令の規定で彼らの肩書を記述していませんから、歌の左注は養老令の施行を下に注意書を記述したことになります。
 ただ、問題として葛城王(橘諸兄)は諸王浄官位の身分から臣民の正従参ですから朝服色は赤紫から赤紫で変わりませんが、佐為王は諸王浄官位の身分から臣民の直従肆上ですので朝服色は赤紫から深緋へと格下げの変更となります。同時に佐為王の正妻の服色もまたそれに準じたものとなり、宮中儀式では並ぶ列の位置や着る服色が大幅に変わります。現代ですと、さて、身分降下で衣装が格下げとなるとなる奥方衆が納得するでしょうか。夫婦間では強烈に恐ろしい出来事です。参考として、大宝令制定の時には、持統天皇の六十階服色からの変更では官位を特進して当色の混乱を避けています。推定で、衣装が格下げとなるとなる奥方衆に怒鳴られる夫の立場を尊重したのではないでしょうか。
 
<巻六>
冬十一月、左大辨葛城王等賜姓橘氏之時御製謌一首
標訓 (天平八年)冬十一月、左大辨葛城王等に姓(かばね)橘氏(たちばなのうぢ)を賜ひし時の御製謌(おほみうた)一首
集歌1009
原文 橘者 實左倍花左倍 其葉左倍 枝尓霜雖降 益常葉之樹
訓読 橘は実さへ花さへその葉さへ枝(え)に霜降れどいや常葉(とこは)し樹
私訳 橘の木は実までも、花までも、その葉までも、枝に霜が降りることがあっても、決して色変わることがない常に緑の葉を保つ樹です。
右、冬十一月九日、従三位葛城王・従四位上佐為王等、辞皇族之高名賜外家之橘姓已訖。於時太上天皇、々后、共在于皇后宮、以為肆宴、而即御製賀橘之歌、并賜御酒宿祢等也。或云、此謌一首太上天皇御謌。但天皇々后御謌各有一首者。其謌遺落未得採求焉。
今檢案内、八年十一月九日葛城王等、願橘宿祢之姓上表。以十七日、依表乞、賜橘宿祢。
注訓 右は、冬十一月九日に、従三位葛城王と従四位上佐為王等と、皇族の高名を辞して外家の橘姓を賜はること已(すで)に訖(をは)りぬ。時に太上天皇、皇后、共に皇后宮に在りて、肆宴(とよのあかり)を為し、即り橘を賀(は)く歌を御(おん)製(つく)りたまひ、、并(あわ)せて御酒を宿祢等に賜はりぬ。或は云はく「此の謌一首は太上天皇の御謌なり。但し、天皇と皇后の御謌は各一首あり」といへり。その謌、遺落(いらく)して未だ採り求むるを得ず。
今、案内を檢(かむがふ)るに、八年十一月九日に葛城王等、橘宿祢の姓(かばね)を願ひて表(へう)を上(たてまつ)る。十七日を以ちて、表の乞(ねがひ)に依りて、橘宿祢を賜へり。
 
 次に例として紹介するのは巻十九に載る集歌4264の歌です。この歌は標題にありますように遣唐使大使藤原清河一行を壮行する宴でのものですから、天平勝宝四年(752)閏三月でのものです。まだまだ、養老令が施行されたという天平宝字元年(757)ではありませんから大宝令の時代です。つまり、標題の従四位上高麗朝臣福信は正式には直従肆上高麗朝臣福信と云う記述になります。この時、高麗福信は深緋の朝服を着て使者に立っています。
このように官位などが示してありますと、どのような色目の服を着ていたのかなど、歌の情景を想像できることにもなります。
 
<巻十九>
勅、従四位上高麗朝臣福信遣於難波、賜酒肴入唐使藤原朝臣清河等御謌一首并短謌
標訓 勅(みことのり)して、従四位上高麗朝臣福信を難波に遣(つかは)し、酒肴(しゅかう)を入唐使藤原朝臣清河等に賜(たま)へる御(かた)らしし謌一首并せて短謌
集歌4264
原文 虚見都 山跡乃國波 水上波 地徃如久 船上波 床座如 大神乃 鎮在國曽 四舶 々能倍奈良倍 平安 早渡来而 還事 奏日尓 相飲酒曽 期豊御酒者
訓読 そらみつ 大和の国は 水(みづ)し上(へ)は 地(つち)行くごとく 船し上(へ)は 床(とこ)に居(を)るごと 大神の 鎮(いほ)へる国ぞ 四(よつ)し船 船の舳(へ)並べ 平安(たいら)けく 早渡り来て 還り事 奏(まを)さむ日に 相飲まむ酒ぞ 期(き)し豊御酒(とよみき)は
私訳 仏教の真理を究める大和の国は、水の上を大地の上を歩くように、船の上にあっては家の床間に居るように、大神が鎮める国です、四隻の船、その船の舳先を並べ、平安に早く海を渡って行って、還りましたと朝廷に奏上される日には、互いに集って飲む酒です。それを期した豊御酒です。
 
 最後に巻二十の集歌4452の歌を紹介します。天平勝宝七年(755)八月のもので、これもまた、大宝令の行政令が施行されていた時代です。まだ、養老令の時代ではありません。従いまして、集歌4452の歌の内匠頭兼播磨守正四位下安宿王の正式の官位は内匠頭兼播磨守浄正肆下安宿王となり、着る朝服色は赤紫です。朝服色を参考とすれば臣民の官人ですと正正参(養老令では正三位)に相当する公卿となります。対して、集歌4453の歌の兵部少輔従五位上大伴宿祢は正式には兵部少輔直従五上大伴宿祢で、着る朝服色は浅緋です。
 もし、大宝令と養老令とを混同したり、諸王官位と臣民官位とを混同したりしますと、表面上、安宿王の正四位下と大伴家持の従五位上とは六官位の差の同じ「大夫」格の官僚のように見えますが、大宝令での諸王官位を臣民官位に換算しますと正三位と従五位上との九官位の差があり、さらに臣民ではまず到達できないような三位という壁がそそり立ちます。このような絶対的な相違を確認して、歌を解釈する必要があります。集歌4453の歌の左注に「未奏」とありますが、左大臣橘諸兄、治部卿船王、内匠頭安宿王、兵部卿橘奈良麿たちが集う宴では兵部少輔従五位上と云う身分と立場では格の違いがありすぎて、座る場所も与えられなかったのではないでしょうか。古今和歌集以降では諸王官位と臣民官位とを区別することなく養老令の官位表を参照しますから、まず、大いに勘違いするのではないでしょうか。
 
<巻二十>
八月十三日、在内南安殿肆宴謌二首
標訓 八月十三日に、内の南の安殿(やすみとの)に在(いま)して肆宴(とよのあかり)せる謌二首
集歌4452
原文 乎等賣良我 多麻毛須蘇婢久 許能尓波尓 安伎可是不吉弖 波奈波知里都々
訓読 感嬬(をとめ)らが玉裳裾引くこの庭に秋風吹きて花は散りつつ  (感は女+感の当字)
私訳 官女たちが美しい裳裾を引く、この庭に秋風が吹いて花は散り過ぎていく。
右一首、内匠頭兼播磨守正四位下安宿王奏之
注訓 右の一首は、内匠頭兼せて播磨守正四位下安宿王のこれを奏(もを)せり。
 
集歌4453
原文 安吉加是能 布伎古吉之家流 波奈能尓波 伎欲伎都久欲仁 美礼杼安賀奴香母
訓読 秋風の吹き扱き敷ける花の庭清き月夜(つくよ)に見れど飽かぬかも
私訳 秋風が吹き、花びらをこき敷ける花の庭は、清らかな月夜に眺めるが見飽きることがありません。
右一首、兵部少輔従五位上大伴宿祢 (未奏)
注訓 右の一首は、兵部少輔従五位上大伴宿祢 (未だ奏(まを)さず)
 
本編では官位官服色に注目して万葉集の歌を鑑賞してみました。一般の社会人は専門の歴史学者や万葉集研究者とは違います。気楽に原歌や原文から正しく楽しんでいたただければと思います。
最後に参考に『続日本紀』に載る記事を紹介します。ただし、原文です。昭和時代の研究者たちの都合に合わせて特定の意図を持って翻訳されたものではありません。
 
大宝元年(701)三月廿一日の記事から抜粋:-
始依新令。改制官名・位号、親王明冠四品、諸王浄冠十四階、合十八階。諸臣正冠六階、直冠八階、勤冠四階、務冠四階、追冠四階、進冠四階、合卅階。外位始直冠正五位上階、終進冠少初位下階、合廿階。勲位始正冠正三位、終追冠従八位下階、合十二等。始停賜冠、易以位記、語在年代暦。又服制、親王四品已上、諸王・諸臣一位者皆黒紫。諸王二位以下、諸臣三位以上者皆赤紫。直冠上四階深緋。下四階浅緋。勤冠四階深緑。務冠四階浅緑。追冠四階深縹。進冠四階浅縹。
・・・・中略・・・・
授左大臣正広弐多治比真人嶋正正二位。大納言正広参阿倍朝臣御主人正従二位。中納言直大壱石上朝臣麻呂、直広壱藤原朝臣不比等正正三位。直大壱大伴宿禰安麻呂、直広弐紀朝臣麻呂正従三位。又諸王十四人、諸臣百五人、改位号進爵。各有差。
 
 これが本来の万葉集での官位を示すものです。万葉集もまた皇族と臣民とでの絶対的な身分格差を隠すような操作がなされていることを知っていただければと思います。
 律令制での政治では、対象となる人物の官位を知ることが非常に重要です。そうした基礎的な官位問題を、一切、無視した有名な歴史的な話題があります。それは草壁皇子の遺児軽王を文武天皇へと推挙する時のもので、その推挙を扱った会議の内容は懐風藻の中で葛野王の略伝として載せられています。
 さて、和歌集ではありますが、万葉集の特徴として他の古典和歌集とは違い、載せられる歌には生活や事件を詠うものが含まれています。そのため、万葉集を鑑賞する時、当時の風習や社会状況をどのように解釈するかが重要な課題となります。そうした時、古代最大の王都である飛鳥藤原京を建設したとされる持統天皇について解釈することを欠くことは出来ません。その持統天皇について考察する時、当然のこととしてその諱の起因とも云える持統天皇と孫の軽皇子(即位して、文武天皇)との関係性と皇統を継ぐと云う問題を外すことは出来ません。この皇統を継ぐと云う視点で歴史を考える場合、高市皇子の逝去の後の持統天皇が招集したと云う宮中御前会議が重要な歴史の要点となります。
 持統天皇の皇統を継ぐと云う問題の解釈と説明について、白川静氏の著書「初期万葉集」に次のような一節があります。
 
「『懐風藻』の葛野王略伝に、高市が薨じたときの宮中御前会議の様子がしるされている。その衆議紛々たるとき、葛野王が率先して『人事を以ちて推さば、聖嗣自然に定まれり』として、暗に女帝の意中の人である軽皇子を推した。このとき発言しようとした弓削を、葛野王は叱咤して口を封じたが、弓削はおそらくその同母兄長皇子を推挙しようとしたのであろう。持統は葛野王のはたらきを嘉して、『特閲して正四位を授け、式部卿に邦したまうと』という」
 
 実は歴史に於いて持統天皇と孫の軽皇子との関係性を示す資料としては、懐風藻に載る葛野王略伝(以下、懐風藻の序から「爵里」とします)ぐらいと思われ、そこからの想像やそれを下にした小説ぐらいしか、その関係性を覗い知るしか出来ません。つまり、我々が知る軽皇子へと皇統を継ぐ持統天皇の姿は、懐風藻に載る葛野王の爵里からの想像を最大限に膨らませたものです。そのため、持統天皇の人物像を考察するとき、葛野王の爵里を正しく読むことが重要になります。ただ、飛鳥・奈良時代を解釈するとき、持統天皇の姿と影響力を認めますと、律令制度が定める官位制度から葛野王の爵里を解釈すると、そこには重大な歴史認識への問題を孕むことになります。
そこで、万葉集の時代の歴史解釈の原点に立つために、最初に懐風藻に載る葛野王の爵里の原文と訓読みを紹介します。
原文;
王子者、淡海帝之孫、大友太子之長子也。母淨御原之帝長女十市內親王。器範宏貌、風鑒秀遠、材稱棟幹、地兼帝戚、少而好學、博涉經史、頗愛屬文、兼能書畫。淨原帝嫡孫、授淨太肆、拜治部卿。
高市皇子薨後、皇太后引王公卿士於禁中、謀立日嗣。時群臣各挾私好、衆議紛紜。王子進奏曰、「我國家為法也、神代以此典。仰論天心、誰能敢測。然以人事推之、從來子孫相承、以襲天位。若兄弟相及、則亂。聖嗣自然定矣。此外誰敢間然乎」弓削皇子在座、欲有言。王子叱之乃止。皇太后嘉其一言定國、特閱授正四位、拜式部卿。時年三十七。
訓読;
王子は淡海帝の孫、大友太子の長子なり。母は淨御原の帝の長女十市內親王なり。器範は宏貌、風鑒は秀遠にして、材は棟幹に稱ひ、地は帝戚を兼ぬ。少くして學を好み、博く經史に涉る。頗る文を屬することを愛し、兼ねて書画を能くす。淨原帝の嫡孫にして淨太肆を授けられ、治部卿を拜せられる。
高市皇子薨じて後、皇太后、王公卿士を禁中に引きて、日嗣を立てむことを謀る。時に群臣は各私好を挾みて、衆議紛紜たり。王子進奏して曰く「我國家の法たるや、神代より此の典を以つて、仰いで天心を論す。誰か能く敢へて測らむ。然も人事を以つて之を推さば、從來子孫相承して、以て天位を襲ぐ。若し兄弟相及ぼさば、則ち亂れむ。聖嗣、自然に定まれり。此の外誰か敢へて間然せむや」と。弓削皇子座に在り、言ふこと有らむと欲す。王子これを叱して乃ち止む。皇太后、其の一言にて國を定むることを嘉して、特閱して正四位を授け、式部卿に拜す。時に年三十七。
 
 葛野王本人の情報は、正史には続日本紀に慶雲二年(七〇五)十二月丙寅の記事に「正四位上葛野王卒」とだけ記されるだけで、それ以外の情報はありません。一方、この懐風藻に載る葛野王の爵里が葛野王本人としての大きな情報源となっています。
 さて、紹介した懐風藻に載るこの葛野王の爵里を冷静に読んでください。皆さんには多くの疑問が湧くはずです。
 最初に予備情報として、現在に伝わる懐風藻は序文で紹介する漢詩集である懐風藻と収容する内容が一致しません。その為、どこかの時点で大きく改変されたものと考えられています。推定で、個々の漢詩自体は改変を受けてはないと思われますが、載せる人物と漢詩がオリジナルの懐風藻と一致するかは不明ですし、載せる人物の経歴など紹介する爵里についても、本来は全員に付けられているはずが途中の人物から削除されている、逆に序文が正しいのなら途中の人物から削除されているはずが残っている人物もいる、などなど、何らかの意図を持って改変作業や筆写作業が行われています。現在に伝わる懐風藻と言うものは、このようなものであることを承知してください。
 先に紹介しました爵里では、葛野王は「淨原帝嫡孫」の立場での進奏となっていますが、これは間違いです。正しい漢文表記ですと嫡孫(正妻の児からの孫)の表記ではなく、嬪孫(嫁いだ娘からの孫)の表記となります。本来、葛野王は「淨原帝嬪孫」と表記される外孫の身分です。ただ、歴史と正確な姻戚関係を知らないと、この段階で誤認識することになります。まず、改纂者は何らかの意図を持って誤記を行っています。
 さらに爵里では「特閱授正四位、拜式部卿」と記します。ところが同時に、それ以前の身分では「授淨太肆、拜治部卿」とも記します。これらの記事を総合しますと、宮中御前会議の時、葛野王は淨太肆以上の位を持ち、治部卿であった(または経験していた)と思われます。つまり、葛野王の身分は「卿」の相当だったと考えられます。ところが、現在、広く流布している説明では官位において「淨太肆」の位を「従五位上」相当と紹介しますから、「特閱授正四位」の意味を従五位上から正四位への五階級特進と解釈します。では、その五階級特進と理解する根拠となる浄御原令の「淨太肆」の位は養老令の「従五位上」相当と考えて良いのでしょうか。
 ここで広く流布している「淨太肆」を「従五位上」相当とする背景を説明しますと、浄御原令では皇孫・諸王の官位は明大壱から浄広肆までの十二階があります。これが、大宝令では皇孫と諸王とは分離され、諸王は浄冠正壱から浄冠従五位下までの十四階に変更となっています。話題の「淨太肆」は浄御原令では下から二番目です。これに対して大宝令での諸王に与えられる官位で下から二番目を求めると「浄冠従五位上」となります。つまり、従来の説明者は浄御原令と大宝令とでは適応される官位は、その表記を変えただけで内容は同じと解釈していることになります。ここからの「従五位上」相当の判断です。ただし、従来の説明においても、大宝令での諸王にしか与えられない「浄冠従五位上」と奈良時代後期以降の養老令の官人全員への「従五位上」とは、全く違う叙位体系での比較なのです。最初に案内したように大宝令と養老令では官位表が違います。
 加えて、浄御原令や大宝令では皇孫・諸王と臣民では官位制度は別の系列で扱うため、養老令以降の皇孫・諸王と臣民とを同一とする官位制度と単純に比較をすることは出来ません。例えば、大宝令では皇孫・諸王の最下位の官位は浄冠従五位下であり、その朝服は臣民の正冠正二位から正冠従三位の者と同じ朝服色の官衣を着ることになっています。朝礼での列席順では浄冠者は臣民の卿に相当する身分です。
 参考に続日本紀の大宝元年三月甲午の記事からすると、正式には「授左大臣正広弐多治比真人嶋正正二位」と記すように、正冠正二位は正正二位と表記したようです。ただし、この記事以降、続日本紀では浄正三位、正正三位、直正四位などとは記述せずに、「浄」、「正」、「直」の身分区分を省略して記すために非常に判りにくいものになっています。このため「従五位○○王」とある場合は、当時の官人が理解するように「浄冠従五位○○王」と正規に読み替えて、それは臣民の正冠従三位相当の身分と理解する必要があります。
 ここで、皇孫・諸王と臣民との官位を単純に比較出来ないために、日本書紀から官職と官位の例を考察してみます。例として大宰師を取り上げます。養老律令の官位令では、この大宰師は従三位の役職です。就任例として浄御原宮から藤原宮の時代では浄広肆河内王や浄広肆三野王が大宰師に就任しています。つまり、ここからの類推で、およそ、皇孫・諸王の官位「浄広肆」は大宝令での臣下官位「正冠従三位」相当と考えても良いと思われます。これを覗わせるものに日本書紀の天武天皇五年九月丁丑の条に「筑紫大宰三位屋垣王」と云う記事があります。当然、天武朝は浄御原令の時代ですから「三位」と云う官位は存在しません。後年の平安時代初期に日本紀から日本書紀へと「改訂」したときに紛れたものですが、その時の改訂者は浄広肆相当の大宰師である屋垣王の官位を三位相当と解釈したと思われます。
 ここでの「淨太肆」は「浄広肆」より一階級上ですから、浄御原令の「淨太肆」は大宝令では「浄冠正三位」相当で官服色は赤紫です。また、就く役職は臣民官位では「正冠三位」相当になりますので、葛野王の身分は「特閱」されての「正四位」ではないことがわかります。単に、大宝令施行により旧来の「淨太肆」の「太」を「正」、「肆」を「四」と読み替えて、新規の「浄冠正四位上」としただけです。これでは浄御原令からすれば特別待遇ではなく降格です。
 一方、続日本紀によると、大宝令施行時に太政官は諸王十四人と諸臣百五人に対して、浄御原令からの切り替えで、その時の地位に応じて浄御原令と大宝令との官位区分のギャップを埋めるために位階を昇進させています。これは令施行での行政手続き上のことで特別待遇ではありません。よしんば、浄御原令の「淨太肆」が大宝令の「浄冠正四位上」に相当しなくても、「特閱」の言葉を受け入れるためには既に治部卿経験者に対しての「浄冠正四位上」の待遇が本当に特別なものになるのかどうかを検討する必要があります。また、文武天皇推挙の御前会議の時代、大宝令は出来上がっていませんから、葛野王の身分を御前会議の時代の本来の浄御原令に合わせるか、それとも逝去した慶雲二年(七〇五)での官位に合わせるなら、文全体をそのように整えるべきでしょう。ただ、基準を統一すると「特閱」の言葉が使えない苦しさが生まれます。
 さらに懐風藻の序文が示す通りに天平勝宝年間に懐風藻が編纂されたのであれば、まだ、天平宝字元年(757)に施行された養老律令は有効ではありません。従って、建前として懐風藻の載る記事は大宝令を下に官位を理解し、記述しているはずです。それなのに懐風藻に載るこの記事は、改纂者が「読者は浄御原令や大宝令の官位規定を知らないだろう」として記述しているとしか解釈できません。そこで養老律令は養老二年(718)から施行されていたのではないかとの議論も生まれるのでしょう。それでも、葛野王については浄御原令の「淨太肆」を大宝令で換算した時の本来の官位と格の問題は残ります。
 ここまでは懐風藻に載る記事が、まるで懐風藻が編纂された当時のものとしてのように説明して来ました。厳密なことを云うと紹介した懐風藻の原文は現在に伝わるものを使用していて、本来の原文と同じものか、どうかは、現在では誰も判断が出来ません。
 実は、現在に伝わる懐風藻は奈良時代、天平勝宝年間に編纂されたものと同じかと云うと、そうではない可能性が非常に高いのです。序文を見て頂ければ判りますが、現在に伝わる懐風藻では序文の内容と本文となる内容物とが一致しません。そのため、懐風藻の漢詩研究者は懐風藻に載る漢詩を鑑賞・研究の対象にしても、歴史解釈の資料には使用しません。また、歴史解釈の第一次資料には使用できないことを知っています。漢詩の鑑賞・研究において懐風藻の爵里に「いかがわしさ」があっても漢詩文自体には実害はありませんし、その爵里は対象外の物です。そのため懐風藻の漢詩研究者にとって、爵里の正誤は彼らの学問分野では重要な事項ではありません。ただ、序文や爵里に対する「いかがわしさ」の存在が既知なだけです。
 問題は懐風藻の持つ「いかがわしさ」を知らない歴史の専門家による摘み食いです。いかがわしい資料からの摘み食いで歴史を解釈されると、歴史の専門家による実害が発生します。懐風藻に載る葛野王の爵里は、改纂者が「読者は浄御原令や大宝令の官位規定を知らないだろう」として記述していると推定されます。こうした時、現代のその種の専門家の立場はどうでしょうか。インターネットが発達した条件下では古典の原文の入手は非常に容易になっています。また、原文に対する訓読や解説なども、多く、インターネット上で入手が可能になりました。さらに学際研究のスタイルが進み、特定分野の権威が旧来のようにその分野を権威によって新説や対立説を押さえることが困難になって来ています。従来型の師弟関係最優先のタイプでの学問だったものを続けることが難しい時代になったようです。
 なお、ここで指摘した派生問題で藤原氏に都合の良い文武天皇は本当に即位したのか、それについて、ちょっと、問題が生じます。この疑問の背景として、万葉集では多数の皇族の歌が載せられていて、そこでの敬称を丁寧に確認していくと、別の皇太子や大王の後継候補者が浮かびあがります。それが次のようなものです。当然、軽王(文武天皇)が即位していないと御子の首王(聖武天皇)は三世王の立場で、本来の皇位継承権を持ちません。
1.草壁皇子-高市皇子-石田王-安積皇子(暗殺)
2.高市皇子-弓削皇子-長皇子-長屋王(クーデターで殺害)
これについては、別の機会で紹介したいと思います。

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