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万葉集 表記論争 万葉集は漢字で書かれているのか

最初に、ここでの与太話による野郎自大の為す無礼を先にお詫びいたします。また、今回に紹介するものは前に紹介しました「万葉集への雑話」で述べた『新撰万葉集』と源順との関係を考えれば、「源順の左右の訓みの説話は、学問的には典型的な面白可笑しくした与太話である」と云う個人の独断を前提にしています。
さて、「万葉集への雑話」と題した与太話をするために調べ物をしている折、興味深い論説に出合いました。それが、信州大学で主に「平安・鎌倉期の古辞書を中心として、言語生活を考察する辞書生活史」を研究されている山田健三教授が人文科学論集 文化コミュニケーション学科編に載せられた「書記用語『万葉仮名』をめぐって」と云うものです。その興味があると思う点は、この論文でのテーマが「万葉集は漢字で書かれている」や「万葉仮名は漢字の用法の一つである」と云う言説に対して、それが正しい術語なのかと問うことです。その主旨は、ほぼ、別なところで私が主張するものを根底から否定するものですので、学問としては素人の外野からの見学者の立場ではありますが反対意見を試みたいと思った次第です。
山田健三氏の論旨を紹介する前に、私が主張するものを確認したいと思います。
手持ちの『万葉集』に対する一般解説書を見てみますと、『万葉歌を解読する』(佐佐木隆、日本放送出版協会)では「字義による歌意の象徴」の解説に、『万葉集 隠された歴史のメッセージ』(小川靖彦、角川選書)では「万葉集の文字法」の解説に、さらに『万葉仮名でよむ「万葉集」』(石川九楊、岩波書店)では万葉仮名に対する態度に、それぞれ次のような主張があります。
紹介するそれぞれの著書において、佐佐木氏は「その歌に特異な用字・表記を採用した意図はどこにあるのか、ということを推測したはずである」と述べ、小川氏は「あえて特殊な漢字を用いて、歌にイメージやメッセージを添えることも行われていました」と述べ、さらに石川氏は「漢字の機能を拡張しながら、漢字を換骨奪胎して、そしてまったく異次元の文字に変えていくという、すごくエネルギーのいる試行にとりくんでいた。そのとき万葉仮名の一字一字に意味がないはずはない。意味はひとまずおいて、ということはあり得ない」と述べられています。
この小川氏の言葉「あえて特殊な漢字を用いて、歌にイメージやメッセージを添えることも行われていました」を、私なりに解釈しますと「表音文字とされる万葉仮名もまた表語文字の機能を持たされていた=漢字として扱われていた」と云うことではないでしょうか。そして、この主張の行き着く先は石川九楊氏が主張する「もう一度すべて漢字で書かれた万葉の姿に戻ることによって、万葉歌を読み直してみたら、もっと違う姿が見えてくるはずである」と云うことになると考えます。これが私の主張する立場です。万葉集歌を原文から、もう一度、その歌に特異な用字の採用や表記方法を採用した意図はどこにあるのかを推理するものです。
なお、万葉集の歌の扱いで、昭和中期に阿蘇瑞枝氏の『柿本人麻呂論考』で万葉集の原文には詩体歌(略体歌)、非詩体歌(非略体歌)、常体歌、一字一音万葉仮名歌と、歌の表記スタイルは大きく四つに区分される表記区分を再発見しました。この阿蘇瑞枝氏の表記区分の違いの再発見を評価すると、万葉集は原歌から鑑賞する必要があります。一方、鎌倉時代以降の藤原定家たちの漢字交じり平仮名に翻訳された万葉集歌を伝統とする場合は、万葉集は漢字交じり平仮名歌から鑑賞する必要があります。万葉集の研究者の大半は研究の断絶を嫌って漢字交じり平仮名歌を尊重する立場ですので、万葉集の歌の表記に関わる場合では、その主張がどのような立場なのかを理解する必要があります。
万葉集は原歌から鑑賞する必要があるという立場は昭和後期以降に学問の分野でも許容され始めたもので、当然、これは近代の萬葉学の歩んで来た道とは違う道です。参考に『萬葉』と云う万葉集を研究する学会の学会誌がありますが、私が脱退した2017年までのここ三年の記載論文を点検しますと、引用として万葉集の原文歌を使うものは万葉歌を直接に扱う17論文中4論文だけで、残りのものは日本古典文学全集本や新日本古典文学大系本に載る訓読み万葉歌を所与の万葉集の歌として扱っています。この態度からしますと、「万葉集は漢字で書かれている」や「万葉仮名は漢字の用法の一つである」と云う言説が学問分野で確立しますと、万葉集の研究では、過去になされた学問の蓄積と連続性において、万葉集の歌を研究したのか、それとも誰かが行った万葉集の訓読み歌を研究したのかの、そもそも論が生まれ、実に困った問題を引き起こします。鎌倉時代の藤原定家時代からの伝統とそれを下にした研究に対し断絶が生まれてしまうのです。私は、ここに重大な問題認識を持たれた山田健三氏が問題提起の論文を起こされたと考えます。なお、確認しますが、山田健三氏は専門が「平安・鎌倉期の古辞書を中心として、言語生活を考察する辞書生活史」ですから、氏が問題提起されたものが認められたとしても、氏の研究には直接に影響しません。氏は当事者と云うより、万葉集研究の外部に立つ審判者の立場です。
私が主張する、「万葉集歌は万葉仮名と称される音借字や訓借字の仮名文字と漢語となる漢字の、大まかに二種類の文字だけで表記されていますが、万葉仮名と称される音借字や訓借字であってもそれらの仮名文字は母字である漢字が本来持つ表語文字の力を失っていなくて、単なる発声・発音を示す符号には未だ、なっていない」と考えています。つまり、万葉集歌を表記する文字の一字一字に表語文字の力を認める必要があり、その文字に漢字が持つ本来の意味をも考えるべきであるとする立場です。このややこしい説明を、手短に説明すると「万葉集は漢字で書かれている」と云うことになりますし、時に「万葉仮名は漢字の用法の一つである」と云うことになります。
さて、山田氏は「万葉仮名」と云う言葉は定義の定まった学術語ではなく、単なる世俗語である。学術では「仮名(假名)」と云う言葉でなければならないと主張されています。そして、「万葉仮名は漢字の用法の一つである」との言説には、表音文字である仮名と表語文字である漢字とを同一視することに矛盾があると指摘されます。
ここで少し視点を変えて、現代の母字復元への科学技術と書道の融合から得られた成果を紹介します。それが以下の作品群です。

 大伴旅人 万葉集巻五 集歌822
和何則能尓宇米能波奈知流比佐可多能阿米欲里由吉能那何列久流加母(原文)
わかそのにうめのはなちるひさかたのあめよりゆきのなかれくるかも
吾が苑に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも (訓読万葉集)

 大伴家持 万葉集巻二十 集歌4297
乎美奈弊之安伎波疑之努藝左乎之可能都由和氣奈加牟多加麻刀能野曽(原文)
をみなへしあきはきしぬきさをしかのつゆわけなかむたかまとののそ
をみなへし秋萩しのぎさを鹿の露別け鳴かむ高円の野ぞ (訓読万葉集)

 紀貫之 古今和歌集 歌番2
曽天悲知弖武春比之美川乃己保礼留遠波留可太遣不乃可世也止久良武(母字復元)
そてひちてむすひしみつのこほれるをはるかたけふのかせやとくらむ
袖ひぢてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ (藤原定家伊達家本)

 紀貫之 土左日記より和歌抜粋
美也己以天ゝ幾美爾安者武止己之物遠己之可比毛奈久和可礼奴留可那(母字復元)
みやこいてゝきみにあはむとこし物をこしかひもなくわかれぬるかな
都出でて君に逢はむと来しものを来しかひもなく別れぬるかな (標準的な表記)

 伝小野道風筆 秋萩帖 第一紙 第一首
安幾破起乃之多者以都久以末餘理処悲東理安留悲東乃以祢可転仁數流(母字復元)
あきはきのしたはいつくいまよりそひとりあるひとのいねかてにする
秋萩の下葉色づく今よりやひとりある人のいねがてにする (標準的な表記)

 現在の最新の母字復元への研究成果から、古今和歌集は母字となる漢字の姿を強く残した変体仮名で記述されていたことはほぼ確定しています。ただし、奉呈された原典の古今和歌集が連綿表記だったかどうかは不明です。確実なことは、私たちが説明を受け、イメージしてきたような単純な「女手=平仮名(ひらなか)」の連綿表記ではありません。母字となる漢字の姿が確実に復元することが可能な変体仮名での表記です。現代人の視覚上では連綿のひらがな表記に見えても、平安時代にそれを享受する人々の視覚には母字である漢字の姿が見ています。誇張ですが、平安貴族には古今和歌集は我々が漢字と万葉仮名による楷書体活字表記の万葉集を見るのと同等な感覚で見ていたと思われます。
すると、母字となる漢字を認識して歌を筆写する人物には万葉集の一字一音の歌と古今和歌集の歌において、歌を表した字姿には表現方法の違いがありますが、そこには文字としては差が存在しないことになります。では、その時、万葉集から古今和歌集に及ぶ、母字研究において表記方法の同一性と連続性を担保する時、その表記に使われる文字は、どのように呼べば良いのでしょうか。小川氏たちは、およそ、これを「万葉仮名と云う文字」と認識していると考えます。
ところが、山田氏はこの「万葉仮名」なる言葉に問題提起をします。「万葉仮名」と称しても、結局、それは「仮名」ではないのかとの主張です。その主張を表すものが【『万葉集』の歌は、万葉仮名と呼ばれる漢字で表記されているという表現は、「仮名と呼ばれる漢字」という、少なくとも現代に於いては内部矛盾を含んだ表現である】と云うものです。変体仮名、片仮名、平仮名を「仮名」と云う言葉で総称する時、それは表語文字である漢字とは対立する表音文字と認識されるものだということです。それならば、万葉仮名が「仮名」に分類されるのであれば漢字とは別な対立する「文字メディア名称」としなければいけないと主張されます。確かに、先に紹介した和歌五首は一字一音の万葉仮名で表記されたもので、この五首すべの万葉仮名は音字機能だけで漢字が持つ表語文字の機能を持っていません。
一方、次の歌を見て下さい。作歌者は、なぜ、恋歌の末句「汝乎念金丹」に「金丹」なる万葉仮名を使ったのかを考えることは、先に小川靖彦氏が「あえて特殊な漢字を用いて、歌にイメージやメッセージを添えることも行われていました」と云うものです。そして、この「金丹」なる表記は歌を詠う作業では中医学では女性器を意味する漢語となる言葉ではなく、和語の音を示す文字となる仮名文字です。ところが、確かに音を示す仮名文字ですが視覚においては中医学では女性器を意味する表語文字の力もまた存在しています。つまり、この「金丹」と記した文字は「万葉仮名であって、同時に漢字でもある」としか表現が出来ないことになります。これが「万葉仮名と呼ばれる漢字」と云う意味となります。当然、音字と解釈した仮名文字を「ひらがな」で表す約束で表現された漢字交じり平仮名和歌の訓読み万葉集では見えてこない世界です。
ここに問題が明らかになります。「万葉仮名と呼ばれる漢字」と云う言説を認めると、万葉集の歌を音字と解釈した仮名文字を「ひらがな」で表す約束で表現された訓読み万葉歌として表記することは、本来、歌が持つ姿の特定のある一面だけを見ていることになり、歌全体を鑑賞しているとは認められないと云うことになります。古今和歌集の原文は漢字文字に表語力を持たさない一字一音の万葉仮名表記ですが、これを読み易さを求めて漢字交じり平仮名歌に翻訳するとき、それでも掛詞となる可能性の言葉は漢字表記しない約束があります。「万葉仮名と呼ばれる漢字」と云う意味はそれと同じ扱いではないでしょうか。

万葉集 集歌2664
原文 暮月夜 暁闇夜乃 朝影尓 吾身者成奴 汝乎念金丹
訓読 夕(ゆふ)月夜(つくよ)暁(あかとき)闇(やみ)の朝影(あさかげ)に吾(あ)が身はなりぬ汝(な)を念(おも)ひかねに
私訳 煌々と輝く夕刻に登る月夜の月が暁に闇に沈むような朝の月の光のように私は痩せ細ってしまった。貴女への想いに耐えかねて。
裏歌の解釈
試訳 夕暮れの月夜から明け時の闇夜まで(愛を交わして)、その明け時の光が作る影のように弱々しくなるほどに私の身は疲れてしまった。でも、また、貴女の“あそこ”を求めてしまう。

 古今和歌集 歌番号2
原文 曽天悲知弖武春比之美川乃己保礼留遠波留可太遣不乃可世也止久良武
和歌 そてひちてむすひしみすのこほれるをはるたつかはのかせやとくらむ
読下 袖ひちてむすびしみすのこほれるを春立つけふの風やとくらむ
解A 袖漬ちて結びし水の凍れるを春立つ今日の風や溶くらむ
解B 袖凍ちて結びし御簾の毀れるを春立つ今日の風や解くらむ
解C 袖凍ちて結びし御簾の毀れるを春立つ今日の風や疾くらむ

 ここで、今一度、山田氏の問題提起に戻りますと、山田氏は和歌が後年に書写されたものの視覚的問題を重要視していることが判ります。確かに先ほど紹介した和歌は全て楷書体活字による表記であって、現代に伝わる書写された姿である変体仮名草書連綿体ではありません。一般の我々には現代で見るその変体仮名草書連綿体はひらがな連綿体の書体としか認識できません。この状況を山田氏は楷書体活字印刷などの普及によって和文の標準書体フォーマットが変容したと指摘し、「漢字は御家流と称される標準書体フォーマットにおいて草体で実現されており、楷書体は真体と呼ばれはするものの、和文書記の標準位置からは離れたところに存したことは周知の通りである」と説明され、「現代日本のように、漢字と仮名の機能差が視覚差にほぼ等しい書記社会では、一般的感覚として理解可能であるが、上代においても同様の理解をしてよいものだろうか」と提起されています。ここで、山田氏の考える上代とは、およそ、その書体が生まれた鎌倉時代から明治時代までの御家流と称される標準書体フォーマットで古典和歌を書写する時代と思われます。書写文体の論議に限ると、一般の私たちの上代の意味と、山田氏の上代の意味は違うことを了解してください。
およそ、山田氏はその論文で「楷書体活字印刷などの普及によって、和文の標準書体フォーマットが、御家流書体から楷書体へと変容」と指摘し、文章を表記するにおいて、現代と中世から近世までの書記方法が違っており、同じ文字や文章であっても、書記方法によって、それを鑑賞する立場により違うものに認識されているのではないかと考えられていると推測されます。そして、御家流書体フォーマットであれば漢字と仮名とを見間違えるはずのないものが、楷書体活字印刷と云う楷書体フォーマットへの変容で同一視しただけではないかと主張されていると思われます。それを次の山田氏の文章が説明します。

 【ここに「万葉仮名」が「万葉集に用いられているような仮名」という実用仮名から「万葉集に用いられている仮名」という歴史的概念を示すものへと移行・変容いくさまが見て取れるが、その背景には、今詳述する余裕を持たないが、楷書体活字印刷などの普及によって、和文の標準書体フォーマットが、御家流書体から楷書体へと変容し、それに伴い「万葉仮名」の意味も上記のように変容していったとものと推測される】
【視覚的同一文字に機能差を見て、それを「仮名」「正字」と明確に区別しながらも、あくまでも「漢字」として括らねば収まらないのは、現代人から見た視覚上の問題にあまりに左右されすぎている】

ただし、山田氏の論拠に印刷物での視覚的要素を取り入れているのであれば、その論拠に困った問題を提起します。先ほど、私は「現代人の視覚上では連綿のひらがな表記に見えても、平安時代にそれを享受する人々の視覚には母字である漢字の姿を見ています」と説明しました。これについては書の表現研究を専門とする大学教授であり、同時に書道家でもある石川氏はその著書『万葉仮名でよむ「万葉集」』で平安時代の文章表現を引用して詳細に母字である漢字の姿を解説されています。平安貴族もそうですが、現代の書道家もまた、平安時代の書籍・色紙に残る和歌に、我々の視覚上では連綿のひらがな表記に見えても、平安時代にそれを享受する人々と同様に視覚において母字である漢字の姿を見ています。
また、高千穂大学の経営学部教授 渋谷栄一氏の「藤原定家自筆の仮名文字に関するテキストデータベースと画像データベースの作成研究『定家本「土左日記」本文の基礎的研究』」は、仮名文字の母字である漢字を解明するものです。そして、この研究成果を紹介しますと、『土左日記』の母字復元作業から、藤原定家は書写を行う時、後年の人が読み間違える可能性を危惧して、一部の文字において紀貫之時代の仮名の母字=漢字を藤原定家時代に使われる仮名の母字=漢字へと変更したことが判っています。その一例が「无(mo)」の文字の「毛」や「裳」への換字です。山田氏の主張とは違い、平安末期から鎌倉時代の貴族たちもまた御家流書体フォーマットでの「変体仮名」や「平仮名」に母字である漢字を見ていたことになります。従いまして、御家流書体フォーマットから楷書体フォーマットへの変容というものは、和歌を表す文字の選択という表記の本質に限定しますと、一流の研究者や和歌人には生じてはいません。書体フォーマットの変容を安直に例えるならばコンピューターでのフォントの変更ですから、それが鑑賞対象となる和歌の本質を変えるものではありません。極論ですが、WORD上で明朝体表記のレポートを行書体表記にフォント変更したら、読み手の文字の見え方が変わるからレポート内容も変わるとの指摘は学問じゃないのです。
また、山田氏は現代に使われる「万葉集は漢字で書かれている」や「万葉仮名は漢字の用法の一つである」の語用問題から、もう一つの派生問題を提起されています。それが小川氏を代表とする『古今和歌集の編纂時代に万葉集は読めたのに、村上天皇の時代の「梨壷の五人」の時代には古点付けが必要になるほどに万葉集は読めない詩歌集になっていた』と云う指摘に対するものです。つまり、この時代に、「日本語書記システム史上の断絶的・危機的問題があったか、どうか」と云うものです。
山田氏は、旧来説明されて来た『万葉集』と『定家本古今和歌集』との間に本歌取り技法の歌を含めて十二首が重複していることを指摘し、歌を読解し理解しているから本歌取り技法の歌や類型歌が存在するのであるから、そこに日本語書記システム史上の断絶的・危機的問題は存在しないとします。さらに、一般に引用・解説される『新撰和歌集』の序に載る文節「文句錯亂、非詩非賦、字對雜揉」から菅原道真の時代には万葉集が読めないものになっていたとの説明は、序文全体を読み込んでいないことからの誤解であると指摘します。また、『石山寺縁起絵巻』に載る源順の「左右」の読み解きの苦心談は、義訓という個人的表記意思によるものであって、標準規定である日本語書記システムを超えるものであるから、これが直接には万葉集の読み解き問題に触れるものではないとします。従って、古今和歌集が編纂された時代前後に万葉集が読めない詩歌集になっていたとの認識は間違いとします。特殊な個人的表記意思による義訓を除けば万葉集は読み解かれ享受されていたのであるから、日本語書記システム史上の断絶的・危機的問題はないと指摘されます。
この山田氏が新撰和歌集での序文全体を読み込んでいないと云う指摘は正しいものと思います。ただ、困ったことに、小川氏たちの主張は別なところにあります。小川氏は古今和歌集を編纂した時代、紀貫之たちは仮名序に「万葉集に入らぬ古き歌」と記すように確実に万葉集は読めていたとします。ところが、なぜ、村上天皇の時代に「古万葉集よみときえらばし給ふなり」と云う宣旨が出たのかを問題にします。そして、歴史での伝承説話である石山寺縁起絵巻に載る縁起に、なぜ、源順の万葉集古点付けの苦心談が載るようになったのかを問題にしているのです。
紀貫之たちは確実に万葉集を読めていたと考えられますから、「平安時代初期の人々にとっても、『万葉集』の書記システムは充分機能していた」ことになります。当然の帰結です。そして、村上天皇の時代に読み解きの綸旨が出されたことから、その時点において「『万葉集』の書記システムは充分機能していたのか」を問うものですから、必然、そこに「文化の断絶があったのか」と云う疑問が生じるのです。
もし、山田氏が源順は十二分に万葉集を読みこなし、万葉集の書記システムは充分機能していたと主張するのですと、では、なぜ、石山寺縁起絵巻に載る縁起が生じたのかを考察する必要があります。ところが、新撰万葉集と源順との関係を考えれば、源順の左右の訓みの説話は学問的には典型的な面白可笑しくした創作の与太話でありますし、歌合判者を務めるような源順が寬平五年に付けられた「まて」を「左右」と表記したものへの訓みに苦労するはずがないのです。例として新撰万葉集の次の歌をその時代の歌学者である源順が知らない訳が無いのです。

 歌番号23 佚名
和歌 夏之夜之 霜哉降禮留砥 見左右丹 荒垂屋門緒 照栖月影
漢詩 夜月凝来夏見霜 姮娥觸處翫清光 荒涼院裏終宵讌 白兔千群人幾堂
寛平御時后宮歌合で詠われたもの 夏五番右
原歌 なつのよの しもやふれると みるまてに あれたるやとを てらすつきかけ
推定 奈川乃代乃 之毛也不礼留止 見留末天尓 安礼多留也止遠 天良須川幾可个

 では、どうして、後年に源順の左右の訓みの説話が生まれたのでしょうか。そして、この問題は逆に平安末期から鎌倉時代初期の歌人たちが、「まて」を「左右」と表記した新撰万葉集を原文から解読できたのかと云う問題をも提起します。文化の継承において、万葉集を原文から享受すると云う側面に対し、古今和歌集成立後のどこかの時点で人々は原文からは享受することが出来なくなったと推定されます。この事実を小川氏たちは「文化の断裂」と称しているのではないでしょうか。
一方、山田氏は、源順の時代においても「『万葉集』の書記システムは充分機能していた」との立場から、小川氏の『萬葉学史の研究』(2007、おうふう)に載る文章を引用して上記の事柄について論じ、帰結として「日本語書記史上の断絶認識とは、大きくずれて映り理解に窮する」と述べられています。
ただし、山田氏が「『万葉集』の書記システム」を鎌倉時代以降に標準となる漢字交じり平仮名表記を書記様式と考えてのものですと、その論議の根本姿勢は、小川氏たちとは全く違います。小川氏たちは万葉集の原文に対し「あえて特殊な漢字を用いて、歌にイメージやメッセージを添えることも行われていました」と云う主張から「表音文字と分類されてきた万葉仮名にも、表語文字の機能を認める」と立場です。つまり、「万葉仮名は漢字の用法の一つである」との主張です。山田氏の万葉集の書記システムとは鎌倉時代以降に標準となる漢字交じり平仮名表記の書記様式と考えるに対して、小川氏たちの万葉集の書記システムとはそのような鎌倉時代以降に標準となる和歌読解を単純化した漢字交じり平仮名表記の書記様式ではなく、万葉集原文に対しての複線的な解釈を要する洗練された書記様式であると云うことになります。ここに書記システムの機能問題は、再び、「万葉集は漢字で書かれている」への言説問題へと戻ります。
ところで、雑談の雑談ですが、宇多天皇から村上天皇の時代、宮中での文化芸能スタイルは漢風から国風へと変化を起こしたことになっています。宇多天皇は光孝天皇の女御で生母の皇太后班子女王の屋敷で寛平御時后宮歌合を、また中宮藤原温子の屋敷で亭子院歌合を開催し、さらに少し後の時代ですが、村上天皇の周囲には古今和歌集全歌を諳んじた女御藤原芳子や内裏歌合のおり歌の評論を行う女房方人(かたうど)を務めたと云う更衣源計子が取り巻いていました。この時代に、宮中の宴や天皇の寵愛を得るのに、女御や更衣たちにとって和歌は必要不可欠なものとなっていたと思われます。そこに女御や更衣たち、そして、その出身母体となる上級貴族の間に和歌に対する教養競争が生まれたと考えます。そうした時、一説に村上天皇の寵妃であった源計子が天皇に古万葉集の訓点付けを願ったと伝承が残っていますから、女御や更衣たちの間に起きた教養競争が古万葉集に訓点を付けることを要請したのかもしれません。
人間は易きに流れます。一度、権威により古万葉集に訓点が付けられると、次からは自力で読み解き・訓点を付ける気にはならないのではないでしょうか。それに、古万葉集四巻に訓点を付けて評判が良ければ、源順たちもまた気を良くして、要請に応じて次から次へと、今度は「二十巻本万葉集」に訓点を付けたのではないでしょうか。その行き着く先が、後年の人々には万葉集の原本が自力では読めなくなったと考えます。そして、その契機が村上天皇の古点にあるため、伝説として「源順の左右の話」が生まれたのかもしれません。
ただ、不思議なことに、小川氏らが指摘することですが、平安時代の古点・次点は基本的に短歌への訓点付けであって長歌や漢文は対象外でした。ところが、『紫式部集』に載る松浦の鏡の神の歌には大伴旅人が詠う松浦姫の影響(『紫式部』清水好子、岩波書店)が、また『源氏物語』の末摘花の巻には山上憶良の貧窮問答歌の影響(「源氏物語と万葉集」鈴木日出男)があると述べられていますから、紫式部はどうも「二十巻本万葉集」の前置漢文・長歌・短歌の組み合わせを主体とする歌群で構成される巻五を全て読解していたようです。つまり、推測と可能性を認めると紫式部は巻五を原文から読んでいたと思われます。
状況証拠ですが、紫式部の主人筋となる藤原道長は万葉集の写本・交合をしたとの伝承が残り、紫式部本人は主人の中宮彰子に中国漢詩集の『白氏文集』を講義するほどの才媛ですから、万葉集中でも難解な巻五を道長の写本した万葉集をテキストとして十分に読めたかもしれません。すると、ひょっとすると、和歌人での万葉集読解における文化の断裂は、紀貫之から源順の間ではなく、紫式部から藤原定家の間に起きたのかもしれません。なお、紫式部は清少納言に対し「女性は才能があっても隠すべき」との感想を述べていますから、彼女は本格的な「二十巻本万葉集」に対し自在であったとしても、女性向きとして伝わる抄本短歌集と想定される「嵯峨天皇四巻本万葉集」を表向きには「万葉集」と称した可能性はあります。
最後に山田氏の論文「書記用語『万葉仮名』をめぐって」の全文を引用できないため、氏がまとめた要点を以下に紹介します。
1.   上代における文字メディアは、視覚的には漢字一色に見えるが、機能的識別によって「漢字」と「仮名」は明瞭に区別されていた。(「平仮名」「片仮名」ということばとその実際のフォルムを考える限り、その母胎である「仮名」は視覚的に漢字と同一でなければ、「平仮名」「片仮名」という語は生まれ得ない。)
2.   よって「万葉集は漢字で書かれている」という言説は、歴史主義に立つ限り誤り。
3.  万葉集は、仮名と正訓字による読解しやすい書記システムと、解読作業を課すことを意図した義訓(戯訓も含む)による用字法という、いわば二極の表記のあり方で記されている。
4.   義訓は、漢字を飼いならした上代人の高度な文芸の一つであり、そこまで含めて万葉集は鑑賞されるべき。
5.   村上朝の万葉集読解事業は、あくまでも、後撰和歌集編纂と併せて、和歌アーカイヴ形成の問題として考えるべきで、日本語書記システム史上の断絶的・危機的問題と理解すべきではない。

と云うものです。
素人の感想ですが、もし、「楷書体活字印刷などの普及から、現代人には、上代における文字メディアは、視覚的には漢字一色に見える」と云う認識であるなら、その認識は完全なる間違いです。変体仮名連綿で書かれた文章を「正本書写之一字不違」とするためには、その表記された仮名文字の母字を確実に認識する必要があります。およそ、変体仮名連綿が現代人には「ひらがな連綿」に見えたとしても、平安時代の貴族を始めとして現代の書道家に至るまで訓練を受けた人々には現代人が楷書体活字印刷物を見るのと同等に一つ一つの母字が見えていました。従いまして、まず、帰結<1>での和歌の書記体についての認識が、全く、違うということになります。例とする「无」から「毛」や「裳」への換字がそれを証明します。
また、小川氏の「あえて特殊な漢字を用いて、歌にイメージやメッセージを添えることも行われていました」の文章で代表される「万葉仮名が持つ表語力問題」を端的に表す「万葉集は漢字で書かれている」という言説には何も答えていません。小川氏は「八世紀の万葉歌人たちは、漢字に、時には遊び心を込め、時には歌の『ことば』だけでは言い尽くせない情感を、託したりしました」(読みやすかった『万葉集』の《文字法》;万葉集と古代の巻物)とも解説しています。当然、これは帰結<4>で述べる「義訓は、漢字を飼いならした上代人の高度な文芸の一つであり、そこまで含めて万葉集は鑑賞されるべき」と云うレベルに収まるものではありません。万葉集の鑑賞ではさらに遥か上を求めるものです。その遥か上のレベルからの「万葉集は漢字で書かれている」という言説です。先に紹介した「金丹」は義訓ではありません。中医学では立派な漢語なのです。ここには日本語での発音と中国語の表記での遊びがあるのです。小川氏たちはこの「金丹」などで代表される万葉集に見られる仮名文字の特殊な書記表記システムを問題にしているのです。もう少し例を示せば、集歌2334を例に取れば二句目「千里」は視覚では漢語的に「千里=多くの里」と理解し、聴覚では和語的に「ちり=散り」と扱います。また、集歌639の二句目「戀礼」は視覚では漢語的に「戀ふれ」と理解し、聴覚では和語的に「こふれ=請ふれ」と扱います。このような「漢字に、時には遊び心を込め、時には歌の『ことば』だけでは言い尽くせない情感を、託す行為」を、平安中期以降の人々がそれを解読出来たのかを問題にしています。そして同時に山田氏が万葉集の原文表記を見た時にそのような遊びの歌として理解できていたかです。参考に鎌倉時代の藤原定家たちは理解できなかったと思われます。その時代性が石山寺縁起絵巻に載る縁起での「左右」のからかいに現れます。

 <浄御原宮時代初期:詩体歌>
集歌2334
原文 沫雪 千里零敷 戀為来 食永我 見偲
訓読 沫雪(あはゆき)し千里(ちり)し降りしけ恋ひしくし日(け)長き我し見つつ偲(しの)はむ
私訳 沫雪はすべての里に降り積もれ。貴女を恋い慕って暮らしてきた、所在無い私は降り積もる雪をみて昔に白い栲の衣を着た貴女を偲びましょう。
<別解釈>
試訓 沫雪し散りし降りしけ 戀し来(き)し 故(け)なかき我し 見つつ偲(しの)はむ
試訳 沫雪よ、天から散り降っている。その言葉の響きではないが、何度も貴女を恋い慕ってやって来たが、貴女に逢うすべが無くて、私は遠くから貴女の姿を見つめ偲びましょう。

 <天平年間初期:常体歌>
娘子復報贈謌一首
標訓 娘子の復た報へ贈れる謌一首
集歌639
原文 吾背子我 如是戀礼許曽 夜干玉能 夢所見管 寐不所宿家礼
訓読 吾が背子がかく恋ふれこそぬばたまの夢そ見えつつ寝(い)し寝(ね)らずけれ
私訳 愛しい貴方がそんなに恋い慕ってくださるので、闇夜の夢に貴方が見えるので夢うつつで眠ることが出来ませんでした。
<別解釈>
試訓 吾が背子がかく請ふれこそぬばたまの夢そ見えつつ寝し寝らずけれ
試訳 愛しい貴方がそれほどまでに妻問いの許しを求めるから闇夜の夢に貴方の姿は見えるのですが、でも、まだ、貴方と夜を共にすることをしていません。

 このように例を示せば判り易いと思いますが、万葉集は原文から歌を鑑賞するものであって、訓読み万葉集と称する漢字交じり平仮名の表記に翻訳されたもので鑑賞することは困難ではないでしょうか。

おまけで、『遊仙窟』は漢文表記のエロ本です。ところが万葉集の歌から推測すると、これを奈良時代の貴族階級の男女は原文から読み、その内容を男女の夜の場面で実践しています。次に平安時代、『医心方房内篇』は漢文表記の性交実技書ですし、平安中期の『本朝文粹』はその房内篇の内容を踏まえた各種漢文表記のエロ本の抜粋・紹介本みたいな雰囲気があります。これらは現代から見ればエロ本ですが、紫式部や清少納言たち、その彼女たちの作品からすると、どうも、これらの『遊仙窟』や『本朝文粹』をあるべき教養として読み解き理解していたようです。ところが、鎌倉時代の藤原定家の時代になると、彼らは『遊仙窟』、『医心方房内篇』、『本朝文粹』などの漢文読解は苦手だったと思われます。それを反映して、現代人には「焼肉定食」や「夜露死苦」は漢語でも成語でもないのは明らかですが、漢文と万葉集原文との表記は大きく違うことに慣れずに万葉集原文に対し「文句錯亂、非詩非賦、字對雜揉」の感覚を持ち、結果、万葉集を原文から楽しむのも苦手だったのではないでしょうか。それで読み易さを求めて万葉集原文を捨て、訓読み万葉集を作りましたが、万葉時代人が漢字文字で遊んだ世界を十分にその訓読み万葉集の中に示せたかは疑問です。
ただこれを認めると多くの万葉集読解の研究が影響を受けます。辛いと思います。

 

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