「Cultural Canal Curriculum〜或は、河童曼陀羅」非公式レポート
イントロダクション
京都芸術センターとリサーチ事業を行った。共同実験だ。企画が通った。色んな事をリサーチして、最後は、河童曼陀羅として展示する。1から新しい事はやらない。誰かが既にやっていて、忘れ去られてしまったものや、記憶に新しいものも混ぜ合わせて、文化の運河を作る。企画名はカルチュラルカナルカリキュラム(以下CCC)だ。これはそのレポートだ。どんなレポートか?例えるなら「中小レポート」の様なレポートだ。全市民を巻き込んだ公共図書館による市民運動だ。知のバケツリレーだ。
まず最初に明倫小学校があった。
明倫小学校は その後、京都芸術センターとなる。そこではかつて授業が行われていた。京都芸術センター(以下、KAC)となった今は、文化芸術事業が行われている。KACには市民の利用を促進する事業が求められている、と企画するにあたって考えた。
今回のリサーチでは、学校での授業の記録である「教育実践記録」を中心に、リサーチを行ったが、教育にとどまらず、河川やダムや海や水に関する本の展示も行った。図書館や学校と同じく、河川にもそれぞれに管理者がいる。治水と教育を同時並行でリサーチしたのは、エネルギーの管理の思想という点が両者に共通していると思ったからだ。水も子どもも、どちらも元気で、時に暴れるという点が共通している。双方とも、とても大きな命のエネルギーを持っている。この二つを合わせて「河童」とした。 (河童を副題に用いたのは、河童研究家で建築家の和田寛司の影響だ)子どもたちの大きなエネルギー、通称「元気」は、学校教育においては殆どの場合、評価対象とはならず、大人しさとテストの点数で評価されるのが一般的だ。
子どもに限らず市民もまたエネルギーである。市民運動が盛り上がり元気になると、濁流の様に市民が公道に溢れかえる事がある。この市民エネルギーの管理の方法を、市民の側からデザインして、これからの元気な市民像を自由に描いてみたかった。
CCCは先ず企画書を書いて応募する事から始まった。KACとの共同実験としてリサーチ事業を行う公募枠「Co-program(コープログラム)」があり、そちらに企画書を応募した。企画書には有名な人の名前を並べた。ミヒャエル・エンデ、レイチェル・カーソン、中村哲、岡本太郎。彼らの未完のプロジェクトを継承して、そのプロジェクトをつなぎ合わせて文化の運河を開通させるという壮大なストーリーを書いた。どの人物も、世界的、或いは全国的に有名だが、共通しているのは、本の「著者」であるという点だ。それぞれに地球や、人類や、世界や、地域の事を憂いて、考えて、行動し、本を書いた人だ。その本たちは彼らのプロジェクトの遺影にも思えた。同時に、途中まで掘り進められた水路だとも思った。その本たちを盛大に並べたかった。それが文化の運河である。企画書には実際にリサーチをする対象として、前記の有名な人物たちだけではなく、一般的には殆ど知られていないけど、ずっと気になっていた2人の人物の名前を挙げた。田辺敬子と久保覚の二人だ。
CCCでは「知と水」がテーマになっており、市民がそれぞれの住む小さな地球=地域のために、協働によって知を運び、まだ見ぬ「河童曼陀羅」を描き出す、そのための筋道を探った。
イタリア北部と京都府北部の教育実践記録
今回CCCでは、先ず教育実践記録のリサーチを行った。教育実践は教室の中で行われる社会実践である。ブラックボックス化しがちな教室での実践を、広く社会に天日干しするために行われるのが教育実践記録である。教育実践記録は授業の「採譜」であり、それは一見すると演劇の脚本にも見える。これを脚本に授業を再演する事、「複数の授業記録」を「一つの授業作品」に再構成することを試みたいと考えた。教育を文化の中で再演する事で、制度から解放できるかもしれない。
イタリア北部のピアーデナ、バルビアナ、レッジョ・エミリアと、京都府北部の奥丹後周辺地域(豊岡、美山、綾部、鳥取、京北etc)での戦後教育実践記録と、太郎次郎社エディタスの『現代教育実践文庫』が、今回の主なリサーチ対象となった。奥丹後の教育実践の研究書『戦後日本の地域と教育〜京都府奥丹後における教育実践の社会史』の著者、小林千枝子は、自らの博士論文の中心に、農村教育家、大西伍一の『土の教育』を位置付けているが、奥丹後の教育実践者、渋谷忠男と小林が最初に出会った際の会話で、渋谷もまた「土の教育」という概念に強い関心を持っていたことを知った事が、小林に『戦後日本の地域と教育』を書かせる不思議な縁となる。『土の教育』は、大西伍一の処女作だ。大西には他にも、『日本老農伝』『私の聞書き帳』『明治44年大正元年生意気少年日記』という独自の視点から書かれた魅力的な著書群があり、晩年には、府中市中央図書館の館長を務め、隣町の日野市立図書館の前川恒雄館長とも交流し、前川の画期的な実践に学びながら、府中市民のために仕事をした。その大西も元々は小学校の教師だった。
原点としての障害児教育〜イタリアの教育改革と、遠山啓の民間教育運動
CCCでは、教育運動の機関誌『ひと』(編集代表は数学者の遠山啓)をベースに編集された太郎次郎社(太郎次郎社エディタス)の『現代教育実践文庫』と、京都府北部と、イタリア北部での教育実践記録のリサーチを重点的に行った事は先に触れたが、そのイタリア北部にある、幼児教育における世界的な先進地域がレッジョ・エミリア市である。
第二次世界大戦終戦後、イタリア国内にナチスが残していった戦車を鉄屑屋に売ったお金で自分たちの学校を作ったのがレッジョの幼児教育のルーツだという。そのレッジョを日本国内にいち早く紹介した教育研究者に田辺敬子がいる。田辺はイタリアの教育の研究者で、『わたしたちの小さな世界の問題〜新しい教育のために』(マリオ・ローディー著、晶文社)という、イタリア北部のポー平野にある小学校での教育実践記録の翻訳も手掛けている。
この本は小学校での5年間の授業の記録をまとめたものだが、生徒たちの日常生活の中から湧き出す好奇心から授業が即興的に構成される。この本が著者が一番最初に出会った教育実践記録である。副題の「新しい教育のために」は誇張ではない。これは可能性だけでできた教育実践記録だ。この本の中では新しい教育の力で、実際に教室という世界が変えられている。
『学校で地域を紡ぐ〜『北白川子ども風土記』から』という本に「敗北の子ども風土記」というコラムがあり、そこで南山城、京丹後(丹後ちりめん)、由良川(綾部)、窪川(高知県)の四つの子ども風土記が紹介されている。その中の一冊『丹後ちりめん子ども風土記』の冒頭に掲載された「いけい たもつ」なる人物の詩、非常にプロレタリア詩の匂いのする詩に心を掴まれた。その人「いけい たもつ」が、小学校教師「池井保」であり『亡びの村の子らと生きて』という教育実践記録の著者である事を知り(タイトルの通り、その後、村は滅びる)、更に先に紹介した『戦後日本の地域と教育〜京都府奥丹後における教育実践の社会史』(小林千枝子著)の中の教師群像の魅力にも触れたことで、京都府北部とイタリア北部の戦後教育実践記録をリミックスして、朗読劇のテキストを制作したいと考えた。
田辺には①『イタリア学校変革論〜落第生から女教師への手紙』(バルビアナ学校著)と、②『わたしたちの小さな世界の問題〜新しい教育のために』(マリオ・ローディー著)の、二つの教育実践記録の翻訳の仕事がある。①は、学校を落第した子どもたちの、相互教育のコミューン「バルビアナ学校」における実践記録で、そのバルビアナ学校の生徒たちが、②の著者、マリオ・ローディーの受け持ちクラスとの文通を通して、共同で手紙を書く技術を身に付ける。その共同作文の技術と、イタリアの学校教育の実態調査の豊富なデータを用いて、当時のイタリアの教育制度を痛烈に批判した「告発の書」だ。その『イタリアの教育変革論』を読んでいてわかったことがある。私は、今までずっと学校は、勉強のできる生徒のための施設だと思い込んでいた。学校や先生が、優等生を優遇するのは当然と思い込んできたが、それは間違った認識だという主張が、その本にはあった。学校を病院に喩えながら、病院が病人のためにある様に、学校も劣等生や、落第生のためにこそ奉仕するべきだという主張だ。
現在の学力自己責任論が主流となっている日本社会においては、上記の主張を詭弁と捉える人は多いだろう。勉強が出来ないのは自己責任として片付けられ、社会からはじかれて当然とする。この教育現場で行われる学力による選別が現代の奴隷制度を醸成する。学力自己責任論の考え方をするならば、優等生は自らの努力で獲得した学力や、その学歴から派生する優越感を手放したくないだろうし、劣等生優先、落第生中心の学校なんて意味不明、論外と片付けられ、議論にすらならない可能性も高いが、「劣等生や落第生にこそ教育の優先座席を」という発想を、社会全体をデザインし直す際の原理に据えるならば、極めてシンプルで、明確で、パワフルな変革の原理になり得る。
また、バルビアナ学校の生徒たちが主張する「落第生優先の教育」の発想からは、親鸞の悪人正機を連想した。親鸞の発想は、これに似てるんじゃないか。悪人こそが宗教によって救われるべき、宗教の対象であるという発想だ。健康な人には、薬も治療も病院も医者も不要だよね?その発想を教育に当てはめて考えた事が、なぜかこれまでの私にはなかった。この発想、ここに挙げた以外の様々な分野にも当てはめることができるだろうし、突き詰めていくと、人権の問題に繋がっていく。
田辺敬子が翻訳した①②の原著は、実際にイタリアの教育制度を改革する際の、大きな推進力になった。
『世界の教育改革』(岩波書店)の中の、「障害児教育からの教育改革ーイタリア」の冒頭に、1997年にアフリカのガーナで、「障害児教育を中心とした教育改革・学校改革」というワークショップがあったことが報告され、それに続く「教育改革前夜の状況」の中で、『イタリアの学校変革論』が紹介されている。
イタリアでの教育改革の発端として「1970年代の初頭に、市民一人一人の教育権が認められ、障害がある子どもも公立学校で教育を受けるべきだという気運が生まれてきた」事も、同じ文章の中で述べられている。なるほどと思った。先ほどの病院は病人のための施設、だから学校も同じように落第生に奉仕すべき、という考え方で考えるとこの流れは自然に理解できる。
「障害児教育を教育改革の原点に」と提唱した人物は日本にもいた。数学者の遠山啓だ。遠山啓は、八王子養護学校での教科教育の共同研究に参加した際に、学びを得た子どもたちが見せた、爆発的な歓喜の表現を見たことが衝撃的な体験となって、その事が契機となって、新しい教育実践のあり方を模索する雑誌『ひと』を太郎次郎社から創刊し、編集代表となる。
遠山を思想的リーダーとする教育実践運動は、市民運動的な広がりを持ち、地域社会の中に「ひと塾」として、拠点を持つに至る。遠山の民間教育運動の原点といえる、八王子養護学校の取り組みは、『障害児教育の共生教育運動〜養護学校義務化反対をめぐる教育思想』(小国喜弘編 東京大学出版)に詳しい。
この本は、東京大学大学院教育学研究科における研究と、討議をまとめたものだ。編者の小国喜弘は、これ以前には『民俗学運動と学校教育〜民俗の発見とその国民化』という、学校教育と民俗学の接点を探る研究も行っている。国内を代表する教育学者の佐藤学は、この研究の優れて画期的な着眼点に脱帽&敬服し、追随の意を表している。
東京大学という全国から学力に秀でた学生が集まってくる場所で、学習にハンデを持つ子どもたちのための研究が展開されている事を改めて知る。同じく小国が関わった『「みんなの学校」をつくるために:特別支援教育を問い直す』(木村泰子×小国喜弘)の方は、より親しみやすいブックデザインで、市民還元まで意識した作りになっている。こちらは映画「みんなの学校」で有名な大阪市立大空小学校と東京大学が共同で行ったワークショップを元に編集された本だ。京都市では醍醐中央図書館に所蔵されている。
大学での教授職を退いた後、『ひと』を創刊した遠山啓が牽引した教育改革運動が、市民社会にも浸透し、一種の社会現象にまでなっていた状況が『滝山コミューン1974』(原武史著)に描出されている。現在では、その名残も見当たらないが、『滝山コミューン1974』には「劣等生のための教育を」という、遠山の教育思想が優勢だった時代の活況が記述されている。「文化運動としての教育」は、遠山啓のリーダシップによって、市民社会の中で一度は実現されていた。現在では、優等生ファーストの教育が、再び優勢であり、不動の感がある。その一方で、多様な教育の可能性を記録しているはずの教育実践記録は、瀕死の状況にある。現行の教育制度の中では、どれだけ素晴らしい記録を読んだとしても、授業において教師が創意工夫を発揮する余地がなく、せっかくの記録も役立てる事ができないため、実践記録を誰も読まないし、そもそも忙しすぎて記録を書く暇もなく、出版社と現場の教師との繋がりも断たれてしまった。これが教育実践記録が消滅の危機に瀕している主な原因になっていると、これまで魅力的でユニークな教育実践記録をたくさん出してきた出版社「太郎次郎エディタス」の社長、須田正晴から聞いた。
以下は、障害児教育の実践者である平林浩が書いた、「障害児教育こそ, 教育の原点」の中の遠山啓の文章からの抜粋箇所を、そのまま抜き書き(孫引き)したものだ。
一番最後の単純労働を仕込んで、とにかく賃金を得らえるようにすればいい、という考えに対する、遠山の批判を読んで、現在劇場公開中の映画「フジヤマ、コットントン」(青柳拓監督)のチラシを思い出した。
「フジヤマ、コットントン」は、甲府盆地のド真ん中、山梨県中巨摩郡にある福祉施設障害福祉サービス事業所「みらいファーム」での日常を撮ったドキュメンタリー映画だ。「ここでは、温かい雰囲気の中で、様々な障害を持つ人々が思い思いの時間を過ごしている。みらいファームでは農作物や花を育ててスーパーに卸したり、綿花を栽培して糸にして織物にしたり、絵を描いて個展を開いたり、具体的なカタチにしてゆく活動を拡げつつ、そこにいて、自分のやりたいことをして過ごすということも推奨している。」と、公式ウェブサイト上で、舞台となる事業所が紹介されている。このチラシに写っている二人の人物の笑顔が素晴らしい。単純労働だけをしていたら、きっと、こういう笑顔は生まれない。「フジヤマ、コットントン」京都では出町座で2024年4月19日(金)から上映されるらしい。楽しみに待ちたい。
表情〜林竹二と斎藤喜博
「戦後出版された教育書の中で斎藤喜博の『授業入門』ほど教師に読まれた本はない。」これは教育研究者の佐藤学が『教育本44』の中に綴った証言である。1960年に出版され「教師の必読書」とまで呼ばれ、愛読されたミリオンセラーは、1980年代になると急速に読まれなくなる。斎藤の実践が評価されなくなった理由の一つとして佐藤が挙げるのが、斎藤の「子どもの表情」から判断する授業研究の方法だ。この点が「非科学的」だとされた。
斎藤喜博の協働者として知られる教育実践者の林竹二は、全国各地の問題を抱える学校に招かれ、数々の伝説的な教育実践を行い、その実践記録も多数出版されている。その中の一冊『写真集・教育の再生を求めて〜学ぶこと変わること』(カメラ 小野成視)は、授業中の生徒たちの表情の変化を撮影した異色の教育実践記録である。この写真集は、「不良」「劣等生」として、日本の学校教育が非対象者としてきた子どもたちにカメラを向け、その子どもたちの表情とその変化を中心に構成されている。「表情」は数値化出来ないデータであるが、一目瞭然とはこの事かと思い知らされる。これはテストの点数とは別種の教室の現実であり、教室での出来事が感情と混ざり合って、表情に抽出され集計されている。数字はこれを汲み取る際には役立たない。この部分を非科学的と切り捨てるとなると、教室に残されるのは表情をなくした点数だけになる。
『写真集・教育の再生を求めて〜学ぶこと変わること』は、神戸市長田区の湊川高校での教育実践記録であるが、この写真集の元になったのが『林竹二・教育の再生をもとめて〜湊川でおこったこと』である。こちらの本では、受け入れ先の湊川高校の教師たちの寄稿文も収録されているが、その中の一人、西田秀秋の文章「生徒が動きはじめる」に大事な事が書いてあるので長く抜粋する。
ここでの西田秀秋の主張は、バルビアナ学校や、遠山啓の主張とほとんど同じである。同じ主張が、現場からの声として切実に綴られている。また、西田秀秋は『近代民衆の記録9 部落民』(新人物往来社)の編著者でもある。この本は全837ページの大著だが、内容の大半は西田の兵庫県立湊川高校部落問題研究部での活動を元にしており、教育実践記録と呼びうるものである(後序は林竹二が寄稿している)。
西田秀秋が部落解放運動に入るきっかけになった人物が『部落解放教育の思想』の著者、福地幸造だ。福地は非常に人間味のある文章を書く。1969年に発刊された福地の『部落解放教育の思想』の中で、斎藤喜博の教育実践が左翼側からの強い批判に晒されている状況が記録されている。
『部落解放教育の思想』の冒頭においては斎藤喜博を取り巻く教育界での批判的な言説に対する福地の苦悶が怒涛の様に展開する。この頃が、斎藤喜博という一世を風靡した教育者の評価が失墜し始めた時期なのだろう。80年代になると斎藤喜博は「非科学的」な実践を唱えた過去の人として次第に忘れられて行く。
魅力的な社会思想、教育思想をいくつも失墜させて、葬り去ってきた呪いの言葉「非科学的」は、今もまだ大きな力を持っている。「非科学的」という言葉が言おうとするのは、経済学者のエンゲルスが『空想から科学へ』の中で用いたことで世界中に広く普及した「空想的社会主義者」という言葉が言おうとするものと同じだ。科学的を自認する者による理想主義への牽制である。今なら「中二病」がその系統を継ぐ言葉として挙げられる。
創意あふれる思想によって教育のユートピアを構想していた(by佐藤学)オーエン、フーリエ、サンシモンを「空想的社会主義者」と烙印を押す事で、その思想を矮小化し、社会的な評価を剥奪する手口。この手口に近代人&現代人は滅法弱い。先述した教育学者の佐藤学はこの傾向に、苦言を呈して、オーエン、フーリエ、サンシモンの「空想」を「非現実的」と認識するのは誤謬であると言う。「彼らは労働者の惨状をリアルに認識したリアリストであり、ユートピアの思想を現実化する方途を模索し実践した現実主義者であった」と再評価を試みる。「この教育のユートピアは、リベラリズムと市民社会の限界が明かになっている現在、もっと積極的に再評価されて良い」とし、「未来の教育のヴィジョンを構想するために必読の古典」としてフーリエの『調和社会の教育』を紹介する(『教育本44』)。
斎藤喜博の島小学校での実践は 文学者の大江健三郎によってもルポタージュが書かれている。そのルポ「未来につながる教室-群馬県島小学校」について、演劇教育の実践者である福田三津夫が自身のブログで紹介している。
福田は国内随一の演劇教育の実践者であり、マリオ・ローディー『わたしたちの小さな世界の問題』の書評も書いている(『地域演劇教育論』)。また田辺敬子を招いての『わたしたちの小さな世界の問題』をテーマにした座談会の記録も著書に収めており(『ぎゃんぐえいじ〜ドラマの教室』)、演劇教育の実践者たちの中でこの本が大きな反響を生んでいたことを知ることができる。この座談会の中で記憶に残ったいるのが「ローディーは本当は民俗学がやりたかった」というの田辺の発言だ。日本の国内ではローディーのレベルで、演劇を授業に取り入れてる例は存在しないことが、この座談会の記録から推察できる。
国内の演劇教育の実践例は乏しいものの、『現代教育実践文庫〜子どもの心をひらく表現の授業』には、奥丹後の小学校教師、森山道子による実践記録「地域の産業・丹後ちりめんの生みの親「絹屋佐平治」を劇にする」が収録されている。
また、森山にはその他にも、地域を題材にした教育実践があり、その記録は『現代教育実践文庫~新しい社会科・理科の授業』に収録されている。
この京都府北部、奥丹後での森山道子の教育実践は非常に民俗学的であり、マリオ・ローディーのイタリア北部、ピアデナでの実践とも重なるものがある。この様な国境を跨いで共振する教育実践の間に交流があったら状況はどうなっていただろうか。ローディーはその教育実践の交流の場を実際に作ろうと試みていた事が田辺敬子の報告から知る事ができる。
このローディーが主導した教育実践の地域間交流の試みによって、イタリア北部と京都府北部の間に交流が生まれていたらどうだっただろうか。ローディーのクラスとの文通から、バルビアナ学校で共同作文の技法が発明されたことから『イタリアの学校変革論』が書かれた様に、奥丹後においてもその様な相乗効果的な現象が何か起こったのではないか、そんな想像をしたくなる程、この国境を跨いだ二つの地域には、共通する土壌があるのを感じる。
京都府北部、奥丹後には、森山道子の他にも中学校の社会科教師、下戸明夫による演劇部での実践例がある(小林千枝子著『戦後日本の地域と教育』に詳しい)。下戸は当初、勤務先の網野中で演劇部を作り指導を行なっていた。ある宿直の晩、地域の青年たちが下戸の宿直室にやってきて「自分たちにも演劇の指導をしてくれ」と頼まれたことから、青年たちにも演劇の指導を始めた。ところが劇の題材が青年たちに相応しいものになっていないと考えた下戸は「今、自分のやっている仕事で一番いやなこと、困っていることを皆で話し合ってみい」と言い、そこから出てきた青年たちのリアルな思いを素材に、工場で働く織手たちの生活を戯曲「織姫」に描いた。演技指導としては、青年たちに「お母さんがどういう坐り方をするか、喋っているとき手をどうするか、よく観察してこい」というと、そこから演技がいっぺんに良くなった。そして青年向けの演劇コンクールの地区予選を勝ち抜き、全国大会に出場し、最優秀賞を獲得する。
下戸の地元である峰山町の青年たちがそれを知り「自分たちには指導せずに、網野町で指導している」と言って怒りだした。そこで峰山町でも青年の演劇指導を行なった結果、またしても全国大会で最優秀賞を受賞し、2年連続の全国大会最優秀賞受賞を達成したという。
奥丹後にはこの他にも、丹後ちりめんを題材にした演劇による教育実践があったことが、『丹後ちりめん子ども風土記』に収録された、複数の短い戯曲からも知ることができる。
この奥丹後での下戸明夫の演劇部での実践と少し似た話が、ドキュメンタリー映画になって残っている。
島根県雲南市にある三刀屋高校掛合分校の演劇同好会の活動を記録した『走れ!走れ走れメロス』『メロスたち』(監督:折口慎一郎)がそれだ。今年一月に、京都市左京区の出町柳にある映画館「出町座」にて二作品同時上映を鑑賞した。
この映画では、演劇の題材に太宰治の『走れメロス』が採用されていることからもわかる様に、地域に根ざした民俗学的な題材の選択はされておらず、生徒たちが地元に残って地域を担っていく主体になる様に、教師によって誘導される事はない。社会人としての進路が決定する高校三年生になると、四人いた部員は一人になってしまう。
演劇同好会のメンバーたちは、卒業すると東京に出て劇団員になったり、自衛隊に入ったりで地域を離れていく。それはよく知っている情景ではあるものの、やはり切ない。そこに至る寸前の、高校二年生の短い猶予の時間に、生徒たちの表現意欲が爆発する。しかし、2021年コロナ禍での無観客の地区予選に出場するもあっけなく敗退。「満席の会場で演劇やりてぇな」という生徒たちの思いを、演劇同好会顧問の亀尾先生が日本演出者協会が主催する「若手演出家コンクール」にエントリーすることで実現させる。そして生徒たちは満員の観客の前で上演し、最優秀賞を獲得する。
今年の一月、出雲大社を家族で訪れた帰り道、この三刀屋高校掛合分校のある雲南市を車で通った。緑の森に囲まれた土地で木次乳業の牛乳工場があるのが見えた。そのすぐ隣町の奥出雲町にある馬木小学校には、かつて青木実三郎という優れた絵画教育の実践者がいた。地域の風土に目を凝らして、作文教育の随意選題教育の実践方法を応用した実践で大きな成果を上げている。作文と絵画では、それを鑑賞するのにかかる時間が大きく違う。絵は一目瞭然、一目でその成果が実感できる。
事前に馬木小学校に電話をして確認したところ、青木実三郎の教室で描かれた絵は、現在は馬木コミュニティーセンターに保管されているという話だった。そこで、馬木コミュニティーセンターを訪れて絵を見せて頂いたところ、保管されていたのは青木実三郎本人の絵であった。生徒たちの絵に関しては、館長さんもその所在を把握しておらず、地域の中でその価値が認知されていない様だった。この青木実三郎実践から生まれた絵はポプラ社の『子ども美術館 26 大正時代の子どもの絵 1〜くらしをかく』(栗岡英之助著)で観る事ができる。村での生活の四季の情感がどっさり伝わってくる色彩豊かな素晴らしい絵たちである。この本の著者である栗岡英之助は大阪府岸和田にある山滝小学校での、美術教育の実践記録と、その理論書を数多く残しており、その一部はCCCでの朗読WSでもテキストとして使用した。
戦後の美術教育、芸術による教育は、大きな期待と使命を担って実践されていた事が、栗岡英之助や、イギリスの思想家ハーバート・リードの著書からは、伺い知る事ができる。また『戦後教育を考える』(稲垣忠彦著)の中でも紹介されている西岡陽子の美術教育での共同制作の実践は、日本の戦後教育実践の記念すべき大きな成果として、林竹二、稲垣忠彦、上野省策などの目利きたちによって高い評価を与えられている。
ヒップホップ実践記録
教育制度の弊害から人間たちの魂を救出するために、この星に招聘され、世界中の若者の間で盛んに行われているのがヒップホップだ。
ヒップホップでは、これまで公教育の中で教師たちが模索しながらも、実現できなかった教育の理想像が具現化される。ヒップホップは先生も黒板も教科書も教室も授業も前提としない。そのまま、その場で自分たちのために行うエキサイティングでエモーショナルでフリースタイルな教育だ。現在国内屈指のSEA実践者として評価されている演劇ディレクター高山明は、このヒップホップの教育的な可能性に着目し、教育とヒップホップを架橋する「ワーグナー・プロジェクト」を世界中の都市で実施している。ヒップホップは自転する学びのエネルギーであり、生きて生成を続ける現代史だ。今回CCCではヒップホップ関連書籍と、生活綴り方の教育実践記録を、同じカテゴリーとして展示したが、生活綴り方においては、親が第一次産業に従事している生徒が多い農村などの、村的な社会の名残がある地域での実践が豊かな成果を上げているのに対して、団地やマンションなどの集合住宅の多い都市部での実践記録が乏しい傾向がある。その一方で、ヒップホップにおいては、その逆の現象が起こる。人口の密集する地域で、教師がいない状態で、若者たちが自主的に作文を書き、それを人前で声に出して全身全霊でラップする。これは前代未聞の事態であり、本来は文科省も学校も教師もヒップホップから多くの事を学ぶべき、絶好のタイミングである。ヒップホップ発祥の地、アメリカでは既に、教育にヒップホップを取り入れる実践が盛んに行われている(日本国内においては、『ヒップホップ・ラップの授業づくり―「わたし」と「社会」を表現し伝えるために』(福田三津子著)がある。著者の福田には他にも『京都市の在日外国人児童生徒教育と多文化共生〜在日コリアンの子どもたちをめぐる教育実践』という京都市内での教育実践に関する研究書がある。)。アナーキーの『痛みの作文』や、サイプレス上野の『ジャポニカヒップホップ練習帳』は、どちらも団地におけるヒップホップの実践記録だが、内容が濃く非常に充実した実践記録である。ヒップホップは、自主的に行われる実践であり、教育を超えてもっと人生そのものだ。また、ヒップホップにおいては少年刑務所、刑務所が教育・文化施設として機能する。刑務所では受刑者は情報から隔絶され、一種の僧院的環境が用意され、自己との対話が可能な時間と空間が保障される。現在国内のヒップホップシーンにおいて、最も支持を受け、影響力を持っているラッパーの一人、ZORNも少年刑務所において、受刑者たちの作文の朗読を聞いた衝撃、そこから受けた影響をインタビューで語っている。
ヒップホップにおいては、刑務所もストリートも教育・文化施設なのである。公民権運動の指導者であったマルコム・Xも7年間服役した刑務所の図書館において、ブラック・ムスリムの教えを学び、刑務所の中から手紙を書く事で作文の力を育てた。奈良少年刑務所の教師だった寮美千子は、童話を元に演劇を行う授業をした際、生徒たちが最初は恥ずかしがりながらも、だんだんと積極的になっていったその素直な反応を記録している。また寮は、受刑者の書いた詩をまとめた詩集の編集も手掛けている。
市民
CCC企画アドバイザーのアサダワタルの紹介で、『プロテストってなに? 世界を変えたさまざまな社会運動』を京都市図書館で借りた時、フランス革命の項に「市民」という言葉が出てきた。その時、いつもならスルーする「市民」に正面衝突した。1974年5月号の隔月刊『市民』という雑誌に「「市民」三年の教訓」の題で、明倫小学校出身の小児科医、松田道雄が文章を寄せている。
『市民』は全国の市民運動の、ネットワークのための雑誌だった。全国の市民の、手弁当での運動を、孤立させないようにネットワークして、励ましあえる様にするための機関誌が『市民』だった。『市民』が創刊された時期から考えて、ベ平連(「ベトナムに平和を!市民連合」の略称)を始めとする市民運動の盛り上がりが、この雑誌の成立に関係していたのだろう。「ベ平連」の反戦運動は全国的に大きなうねりを生み出す事に成功し、戦後を代表する市民運動として広く知られるが、松田道雄もベ平連の活動に関わり、1968年にベ平連が主催した京都国際会議場での、「反戦と変革に関する国際会議」の記録集、『反戦と変革』の裏表紙には、社会学者の日高六郎のコメントと共に、松田のコメントが大きく掲載されている。1974年1月、ベ平連は解散、隔月刊『市民』の休刊号も、その四ヶ月後に出されている。なお、日高六郎は水俣病の問題にも深く関与しており、京都清華大学での自身の授業でも、水俣病の問題を頻繁に取り上げている。(『現代教育実践文庫〜新しい教育のイメージ』(太郎次郎社)の中の「もうすこしの自立をーわたしの“水俣病”の授業をめぐって」に詳しい)。
松田道雄は1960年代には関西保育問題研究会の初代会長を務めているが、その時期の代表的な講演記録である「文化運動としての保育」の中で、「地域の文化運動として保育所をつくると、今度は保育所が中心になって、逆に地域の文化運動をシゲキするという交互作用があります」という魅力的な示唆がなされているが、『現代教育実践文庫〜地域をつくり変える教育実践』の「地域を創る母親パワー」(東井怜著)は、その典型的な事例である。
東井は自身の子どもたちが巣立ち、育児が終わった時点で、市民運動を一本化し、脱原発運動に専念する。東井は東大物理学部で学んだ物理の知識を、脱原発の市民運動のために用いた。単著『浜岡 ストップ! 原発震災』の序章は、東井が学んだ物理学の知識を総動員して書かれた圧巻のドキュメントだ。
今こそ読まれるべき脱原発を願う全市民必読のバイブルだと思う。是非。
松田道雄の本〜中二病と理想
松田道雄には膨大な著書があるため、「何から読むか問題」があるが、岩波新書から出ている『私の読んだ本』辺りから読むと、松田の人となりがわかって良い導入になるだろう。個人的に一番のおすすめは『君たちの天分を生かそう』だ。天分は松田のキーワードだ。1962年4月に筑摩書房から出版されているから、講演「文化運動としての保育」が行われる前の年になる。松田道雄、出版当時53歳だが、筆先から青春の情熱が感じられる。特に最後に掲載されている「日本人として」は、このレポートの最後に抜粋するが、全日本人に読んで欲しい松田の渾身の、理想と情熱のカメハメ波だ。今だったら中二病と言われて片付けられそうな内容ではあるが、中二病にこそ未来の種子が潜んでいると考えたい。中二病は非常に大切な症状だ。他者によって認定されている病気「中二病」は治療せずに、そのまま堂々と健やかに育てればよい。そこに足りないのはリサーチと実践だけだ。
駄洒落が親父ギャグと揶揄され、矮小化されながらも、ヒップホップにおいて「韻」として踏み倒された結果、カッコよく復活を遂げた様に、中二病が市民運動や、リサーチを経ることで錬成され、「理想」や「ビジョン」として復権する未来を熱望する。
松田の代表作の『育児の百科』は子育て中でないと読む必然性がないので、万人におすすめは出来ないが、図書館で閲覧するなりして、そのエッセンスに是非、触れてみて欲しい。フィールドレコーディングが一過性の環境音を再生可能にする様に、松田道雄は赤ちゃんの言葉にならない言葉をレコーディングし、そのメッセージを翻訳し、親たちが何度も読める育児書としてまとめあげた。
松田の主著である『育児の百科』は哲学者、鷲田清一の「マイブック」でもある。鷲田は松田の影響から、大阪大学学長時代に、大学構内に「たけのこ保育園」を作っている。著者が実家の本棚で出会った、鷲田のエッセイ集『京都の平熱』の中には、車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』の中に出てくる小児科医のモデルが、松田道雄と、鷲田清一であるというトリビアも紹介されていた。鷲田は現在はせんだいメディアテークの館長を務めているが、2015年〜2019年にかけては京都市立芸術大学の学長も兼任しており、その時期に構想されたのが2023年、京都駅南側の崇仁地区に移転した京都市立芸術大学の新キャンパスだ。鷲田の任期中に、この新キャンパスの設計のプロポーザルと、基本設計が決められたという。(現代思想2023年5月臨時増刊号 総特集=鷲田清一)
論文「戦後「市民」思想の形成過程とその陥穽―松田道雄と社会運動」(山本崇記著)は松田道雄の多岐にわたる思想遍歴を詳述したもので、拡大版wikipediaの様な、読み応えのある松田道雄紹介になっているが、著者の山本崇記は「ヘイトスピーチ・同和対策事業・在日外国人・部落差別」を研究テーマとする研究者でもあり、単著『住民運動と行政権力のエスノグラフィ―差別と住民主体をめぐる〈京都論〉』は、自身の博士論文を精緻化して書かれたものである。
民主主義の学校としてのマダン
2019年のオリンピックと、2023年の京都市立芸術大学の移転を契機に、京都駅東南部エリアの再開発は激化したことから、京都市の「芸術文化によるまちづくり」構想に基づく、京都駅東南部エリアの都市計画の見直しを求めるシンポジウムが東九条にあるTHEATRE E9 KYOTOにて行われている(2019年10月7日)。一万字で公式レポートを書くにあたり、そのシンポジウムのアーカイブがAMeeTに掲載されているのを読んだ。
シンポジウムの登壇者の1人であるヤンソル(「Books × Coffee Sol.」店主)は、このアーカイブの中で東九条マダンでの活動について紹介している。
マダンとは朝鮮語で広場という意味だ。広場は誰かに管理された公園とは違う、空き地とも違う、何かそこで民衆による民衆のための催しが行われる自治区、解放区というイメージを持つ。
マダンは民衆自身の表現が行われるための場である。著者はこの「マダン」という言葉を「「場の文化」のために」と題した文章で知った(『ラテンアメリカの新しい伝統〜〈場の文化〉の為に』の巻末に収録)。久保覚、里見実、津留由人の3人の執筆者が連名で書いたものだが、マダンについて書いたのは、おそらく久保覚(本名・鄭京黙)だと思われる。久保は『仮面劇とマダン劇〜韓国の民衆演劇』(晶文社)の編訳者として梁民基と名を連ねているが、梁民基は東九条マダンの生みの親の一人である。
この「「場の文化」のために」の中でとりわけ魅力的なのは「広場の演劇は、人びとが議論にくわわり共通の問題を自分も参加して検討するための「民主主義の学校」である」とする箇所だ。
ここで書かれているブラジルでのボアールの演劇と、韓国のマダン劇の実践は国境を超えて「演劇による民主的な場作り」という結節点で結ばれている。久保と里見は実際にこれらの民衆文化の国際的なネットワークを作ろうと画策し、共に行動をした経緯が「第三世界と民衆文化運動」(『流動』1981年9月号 対談構成「たたかいの文化創造のために」)、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ文化会議(1981年11月4日〜7日)の「第一分科会 民衆文化運動の経験と展望」の記録などからも伺い知ることができる。「緊急シンポジウム「京都市による京都駅東南部エリア『都市計画の見直し素案』を考える」の続編が、今後もまた行われるならば、ここに久保たちが書いているマダンの流儀で、登壇者による即興的な討論劇を行い、民主主義の学校を登壇者たちが協働でそこに出現させる、そんな未来を期待している。
いかにリサーチであるかの様に工場労働を生きさせるか〜半導体工場からの展望
今回のリサーチ事業の前半に当たる、4月〜8月、著者は半導体工場で働きながら、休憩時間や余暇を利用してリサーチ対象文献の朗読を行い、工場の休憩時間には近所の公園で朗読をするのを日課とし、レイチェル・カーソン『失われた森』、中村哲『天、共に在り』、石牟礼道子『苦海浄土』、バルビアナ学校著『イタリアの学校変革論』を朗読した。半導体工場ではシリコンウェハーの製造工程での検品作業と、半導体モジュールの組み立て作業に従事した。著者が勤務した半導体工場は十全な設備投資を行っておらず、結果、製造機器のどれかが常に故障していて、せっかく出荷直前までやってきた半導体モジュールが、フレックス洗浄を行う洗浄機の不調で大量廃棄になる事態が度々起こった。シリコンウェハーは製造工程が非常に多く、500工程超あることもあり、製造期間は長い場合では二ヶ月近くかかる事がある。それが出荷直前まで来て大量に廃棄処分になる。工場における設備投資の大切さを痛感すると共に、なんともやり切れない思いがした。その頃、元小学校教員で読書家の義母から、熊本に巨大半導体工場が建設中の話を聞く。巨大半導体工場の影響で水質汚染が懸念され、県民の地下水の利用が制限される事態が起こる可能性もあるという。水俣病のあった熊本において、その様な大規模な環境破壊が公に進行していると知ってショックを受けた。過去の反省から熊本県は行政も住民も環境意識が高いと思い込んでいた。地域住民は貴重な地下水と引き換えにしてまで、なぜ工場誘致を受け入れたのだろうか。インターネットで検索してみたところ、それが台湾の半導体製造企業のTSMCの工場の件である事がわかった。そして更に、ずっと以前から、九州全域に半導体工場が建設されていて、九州全域が「シリコンアイランド」と呼ばれている事を知らなかった事を知った。SEAの研究を行っているA&Rのウェブサイトに掲載されている「台北ビエンナーレのキュレーター ウー・マリ氏(Wu Mali)へのインタビューは、著者にとって特に印象に残るものだったが、そこで語られていたのは気候変動に対する環境問題をテーマにしたアートフェスティバルの実践報告だった。その実践からは「アートフェスティバルを通しての市民運動」という印象を受け、その実践に強く興味をそそられた。TSMCという巨大な資本を持った企業の本拠地台湾で、環境問題に関するアートによる意欲的な取り組みが行われてもいるのだった。また、2023年10月には「水俣病訴訟、国と熊本県が控訴」というテレビニュースを見て、我が目を疑った。国と、熊本県が口を揃えて同じ様な事を言って判決に不服を申し立てていた。2021年にはジョニー・デップが主演・製作した映画「MINAMATAーミナマター」と、原一男監督の超大作ドキュメンタリー映画「水俣曼荼羅」が公開され話題になったばかりである。水俣は近年世界的にも注目されていたのではなかったのか。「一体、何が起こってるんだ?」と思った。既に解決され、良い方に進んでいると考えて、楽観視していた事が、全然勘違いで、事態は更に深刻化しているのかもしれなかった。しかし著者にはこの事に関しても著しく知識が不足していたし、その後も今に到っても、まだ何も調べていない。何も知らないままに半導体製品を使い、半導体工場で働きお金を貰っていた。CCCの展示期間中には水俣出身の方が「私の故郷の本がたくさんあった」と、話しかけてくれた。大学の同窓会で京都にきているというその人は、名刺代わりにスマホの待ち受け画面に設定された水俣湾をのぞむ臨海公園のベンチの写真を見せてくれた。話を聞くと、熊本には阿蘇山の火山灰が堆積してるから葉物野菜しか栽培出来ず、米が育てられないため、農家の経営が厳しく産業が他にない事、大きなミサイル基地があり、兵器を乗せた軍用車が家の前の道路を走っていく事、現在の防衛大臣とか、防衛庁の高官の数名が熊本の出身者だという話と、TSMCの熊本工場が台湾有事の際の、台湾からの避難場所と想定されているという話を伺った。どれも知らない話だった。小さな声で話す方だったので、詳細は聞き漏らしてしまった。聞き間違いもあるかもしれない。連絡先を聞いておけば良かった。
半導体産業の問題と、環境破壊の問題と、軍用基地の問題と、アートの問題、熊本県政の話、何からどう考えたら良いのかわからなかった。何を考えようにもそれぞれの事を知らなすぎた。社会学者の鶴見和子は、複雑にもつれた複数の問題を考えるに際して、南方熊楠が書いた落書きの様な曼荼羅、通称「南方曼荼羅」が有効と考えた。鶴見はこの落書きの曼荼羅を大真面目に研究をしているが、その中に萃点という点を熊楠が書き込んでいるのを発見する。鶴見は、萃点は中心ではなく、一つではなく、移動もするが、複雑な問題系を考えていく際の基点にすると、全体像を鮮明に捉える事ができる様になると説き、自身にとっての萃点として水俣を挙げる。また、鶴見は内発的発展論の研究でも知られている。内発的発展論は、地域の歴史や風土を凝視、リサーチして、土と水と空気とコミュニティーを守りながら、それぞれの地域の特性を生かし、農業を始めとする第一次産業を大切にして持続可能な地域産業、地域文化を創造していく考え方だ。それに対して、熊本でのTSMCの工場誘致の様に、施設を誘致して雇用を生み出すというのは、内発的発展論の対極の考え方(外来型開発)で、農業や漁業の基盤である土や水を犠牲にし、未来の環境を犠牲にする形で、地域を現在のいっときの現金収入のために奉仕させ、施設誘致でお金を稼いで地域を開発しようというものだ。この辺りの話については2016年に京都精華大学で行われた駿台予備校物理科講師の山本義隆の講演「近代日本と自由 ―科学と戦争をめぐって―」が大変勉強になった。
そしてこの社会の潮流に学校教育が乗っかる形で、外来型開発の理論に基づく学力が推奨され、学力の現金化が学校と家庭の協働事業として目論まれる。
偏差値重視の教育は、酪農における搾乳量重視の乳牛の飼養管理のつながっているし、その他にもタワーマンションの建設や、半導体産業の考え方とも、同じ原理が働いている。これらは「生産性が高い」という言葉で表される、「教育」「酪農」「建築」「工業」における生産様式である。これらの生産様式は、小さい面積の土地から、短期間に沢山の利潤を生み出す一方で、環境と精神を破壊してしまう。近年世界的に大きな反響を生んでいる画家、石田哲也が学校の風景を描いた作品からは、工場畜産の現場ような学校での生徒たちの虚な生のあり方が突きつけられるが、そこでは生産性の高さを追求する経済原理に貫かれた社会生活における、人間の精神状態が克明に描出されている。
この状況に対して危機感を持ち、内発的発展論に根ざした教育のあり方を求める声はあるものの、その声は小さく、良心的ではあるが少数派である。
地域とファンタジー
鶴見和子の内発的発展論が、経済学者の玉野井芳郎からの影響であることが、赤坂憲雄との対談をまとめた『地域からつくる〜内発的発展論と東北学』の中で鶴見によって語られているが、玉野井芳郎は、鶴見の言う意味で萃点的と思える人物で、その研究テーマと活動内容は、地域主義、内発的発展論、エントロピー学会の設立、カール・ポランニーや、イヴァン・イリイチと言ったオルタナティブな知性を日本国内に紹介するなど多岐に及んでいる。この玉野井の事が『エンデの警鐘〜地域通貨の希望と銀行の未来』の第一章「未来を奪う経済学」の中で、著者の河邑厚徳によって紹介されている。
ミヒャエル・エンデはファンタジー児童文学の作家として『モモ』『はてしない物語』と言う歴史的文学作品の著者でもあるが、お金を根元から問い直し、経済学に関しても造詣の深い思想家として知られている。先ほどの河邑厚徳がプロデューサーを務め、NHKで製作・放送された『エンデの遺言』の反響は大きく、日本国内各地で地域通貨のムーヴメントがそこから起こっている。この、「地域通貨」と言う時の地域というのは、おそらく最近の「地域アート」という時の地域や、内発的発展論の舞台としての地域と、同じ意味を持つものだということが最近になって段々わかってきた。それは、ぼんやりとした、ただそこにある「地域」というわけではなく、もっと主体的にそこにあって運動をする主体ともなり得る地域といったような意味だ。言うならば「可能性としての地域」である。
ロケハンと風土学
ファンタジー作品というと、地域に赴いてのロケハンなどは不要で、空想上の風景だけでも成立させられそうにも思うのだが、エンデにおいては、ファンタジーの先に、問題意識として地域が浮上している点が興味深い。これはスタジオジブリの両巨塔、宮崎駿の作品が、どちらかというと空想ファンタジーの特色があるのに対し、高畑勲の作品が徹底的にロケハンの成果を作品に反映させたこととの対比とも関連がある様に思う。中でもスタジオジブリ設立前夜に製作された『柳川掘割物語』においては、最早、ロケハンはアニメーションにならず、ロケハンそのものがドキュメンタリー映画として作品化されている。高畑勲によって「風の谷のナウシカ」の興行収益を使い果たしてまで行われた蕩尽的、もっと言えばポトラッチ的な徹底的地域リサーチによってアニメーションが試みられているのは、絵ではなく、地域そのものだ。
高畑勲は自らを「民主主義教育第一期生」と自認しており、その事を「非常に幸せだった」と回顧している。
高畑勲はこの時に教室で感じた「幸せ」を貴重な体験だったと知っていたからこそ、その教室に流れていた自由の空気をアニメーションを通して後世の子どもたちと共有したかったんじゃないだろうか。そこにはプレゼントと呼びうる破天荒に気前の良い何かがあった様に思う。かつて、確かに、テレビからプレゼントが放映された時代があり、そのプレゼントの源には学校での自由な教育実践の影響があったと仮定してみる。
日本史上最初のテレビタレントであり、テレビ放送が開始された初日からテレビに出演し続けている黒柳徹子が著した『窓際のトットちゃん』は、大正自由教育の実践校である児童の村小学校の系譜を継ぐトモエ学園での教育実践を生徒側の視点から記録した画期的な教育実践記録であるが、この本はこれまでに800万部を売り上げ、戦後最大のベストセラーと言われている。日本における戦後最大のベストセラーは「生徒が書いた教育実践記録」なのだ。
また、『窓際のトットちゃん』の挿画はいわさきちひろが担当しているが、いわさきちひろは松田道雄の著書にも膨大な数の挿し絵を描いている。
高畑勲もまた、いわさきちひろの絵から多くのインスピレーションを得ていたことが知られている。高畑の代表作の一つ『火垂るの墓』制作時には、ちひろがベトナム戦争の時期に書き上げた絵本『戦火のなかの子どもたち』を作画スタッフに見せる事で、戦争に対する想像力を高めてもらったという。この『戦火のなかの子どもたち』がちひろの最後の絵本作品となる。
アニメーション監督の高畑が、絵本をアニメの参考にしているのはどういうことなのだろう。もしかすると、高畑は絵を動かす事がアニメーションだとは考えていなかったのかもしれない。高畑は動かない絵によって、それを観る人の心の方が動かされる事や、アニメ制作のためのリサーチによって地域の方が動き出す事、絵が動く事よりも、それを感受するもの自身がアニメーションされる状況に重きをおいてアニメーション作品を制作したのではないか。
地域をアニメーションする内発的発展論では、地域の風土を凝視する民族学的/民俗学的な実践が主流となり、地域学、郷土学、地元学など様々な名称で実践されている。その中でも象徴的な内発的発展論の実践例が信州教育界の偉人、三沢勝衛の地歴教育における「風土学」の実践だ。農文協からその著作集が刊行されていることからもわかる通り、地域の地理に目を凝らす事で、内発的発展の筋道を探し出すスタイルの、典型的な「村を育てる学力」型教育実践である。三澤の教育実践からは数多くの人材が輩出されているが、その中でも考古学者の藤森栄一は三澤のイズムを良い形で再編集した上で継承している。藤森の影響力は大きく、スタジオジブリの宮崎駿や、今の世代の地域の実践者にも大きな影響を与えている。その藤森栄一の『かもしかみち』が、考古学に青春の全てを捧げる「考古ボーイ」たちのバイブルだった事が、ルポライター澤宮優の『「考古学エレジー」の歌が聞こえる』の中で紹介されているが、澤宮は異色のスポーツライターであり、三塁ベースコーチや、二軍や、バッティングピッチャーや、落球を題材にルポタージュを書いている。スター選手の活躍を一極集中的に報じるマスコミが決してやらない仕事を澤宮が一手に引き受けている。そして、この「誰も注目しない人に注目する」、澤宮の方法論には、内発的発展論と呼応するものがある。
『生徒がくれた“卒業証書” ~ 元都立三鷹高校校長 土肥信雄のたたかい』は、“誰も注目しない人に注目する人”澤宮優が書いた、高校の校長先生による教育実践の記録である。
読書会とワークショップ(WS)
半導体工場の日々の朗読を経て、朗読中心の読書会とワークショップを企画した。本来は動かない絵に、魂(アニマ)を吹き込んで、生き物の様に動かすのがアニメーションだとしたら、本来は動かない文字に命を吹き込んで、生き返らせるのが朗読だ。朗読は「言葉のアニメーション」である。実際にアニメーションにおいて声優たちが行なっているのは紛れもない朗読であり、音声におけるアニメーションとは、即ち朗読の事である。
朗読に関しては指導や、レッスンという事は一切しなかった。棒読みでも、声が小さくても、それを改善しようとか、そういう場として、読書会とWSを考えなかった。技術的な事は一切不問とし、その代わり特に褒めたりする事もしなかった。漢字の読み間違いを咎める資格もない。朗読は、上手い下手、形式など問わず、誰にも咎められず、本人の好きな様に、自由にやるのがいちばん良いと考え、それを阻害する事がない様に心がけた。小さい声でも大きい声でも良い。声を出すと、横隔膜が刺激されて、血流が良くなり、元気が出るので、朗読を中心にした読書会と朗読ワークショップの企画を行い、その成果を展示期間中のイベントで発表することにした。
読書会とワークショップで朗読できる文章の量は限られるので、事前に文章を厳選する必要があった。以下にその際に用いたテキストを紹介する。
ドン・ロレンツォ・ミラーニと親鸞
『イタリアの学校変革論』の読書会を行うにあたっては、指導者のドン・ロレンツォ・ミラーニ司祭に関する情報が少なかった。そこでシェアハウスの同居人で、イタリア出身のマルタに協力をお願いし、ミラーニについて詳しく調べてもらい、読書会の場で発表してもらった。キリスト教の司祭であるミラーニは、教会の方針に反する活動をしたのを理由に、辺境の地、バルビアナへ追放される。その「追放の地」でミラーニが最初にやったことは自分の墓を建てることだった。そしてその地に相互教育の学校をつくる。そのバルビアナ学校の生徒たちが『イタリアの学校変革論』を一年がかりで書き上げるが、この本が出版される頃にミラーニは亡くなる。バルビアナ学校の授業の教材は、新聞や市議会の議事録だったという。このミラーニの人物像が、親鸞に重なる。それは親鸞の流刑と、ミラーニの追放が重なるのと、親鸞の悪人正機の発想と、ミラーニが落第生たちを集めて学校をつくった、その発想が重なるからだ。
また、遠山啓を親鸞のような人として、歎異抄の中の言葉を紹介しながら評した人もいた(『現代教育実践文庫〜遠山啓、その人と、仕事』「私にとっての「親鸞」」小尾芳枝)。
また、大正自由教育にとっても親鸞はキーパーソンだ。松田道雄は大正自由教育の背景に、どのような思想的影響があったのかを知りたくて、大正自由教育の著名な実践者であった野村芳兵衛に手紙で尋ねたところ、野村の教育実践が、親鸞の思想からの影響を強く受けている事を教わった。
戦後の綴方教育の実践記録の代表的な記録とされている東井義雄著『村を育てる学力』の中でも、親鸞の思想を東井が教育実践に取り入れている事が紹介されている。
また、岐阜を拠点に「文化運動としての演劇」を実践した演劇人のこばやしひろしは京都で演劇運動を始めた後、岐阜高校の社会科の教師をしながら、放課後には演劇部の顧問を務めた。その後、岐阜で「劇団はぐるま」を立ち上げ、専業演劇人になる。こばやしは郡上八幡の地域リサーチを元に代表作「郡上の立百姓」という郡上一揆を題材とした戯曲を制作するが、この作品は高校教師時代にこばやしが感じていた当時の教育制度に対する憤りを、郡上一揆に重ね合わせる形でメッセージしたものだという。小学区制というものが撤廃されてから、それまで学校で生き生きしていた生徒たちが、一気にシラケ、捻くれてしまい、高校教育の現場の雰囲気は大きく変わったという(『ここに根づいて』)。それがこばやしが教職を退いた一番の動機となる。
この、こばやしひろしもまた親鸞から大きな影響を受けている。
この様に日本の教育者の中で親鸞の思想に一つの教育の理想像を見て実践に取り入れた人物は多く存在し、時代を超越したその影響力に驚かされた。
“Around The Sea”と“The Sea Around Us”
親鸞が日本の教育実践者に与えた影響について知った事から、親鸞に関するレクチャーをアートメディエーターで、浄土真宗の僧侶でもある、はがみちこに依頼し、展示期間中の2023年11月18日に実施した。(会場デザインを担当した和田寛司による河童の怪談実演と朗読ワークショップ参加者による朗読の発表も同日に行った。)はがは、著者に最初にSEAについて教えてくれた人物であり、その際に、はがから親鸞とSEAを結びつけた企画の構想がある事を聞いていた。その企画の名は「Around The Sea」というもので、企画内容は親鸞における海概念と、ソーシャリー・エンゲイジド・アートをつなげて取り扱うという、壮大かつ、アクロバティックで大変興味深いものだった。ある時、はがの企画名がレイチェル・カーソンの出世作『われらをめぐる海』の原題“The Sea Around Us”に良く似ている事に気がついた。このカーソン渾身の作は、海を擬人化して描いた画期的なもので、編集者の久保覚は中学二年生の時に、この本を偶然に学校で手にとって読んだ事から、この世からおさらばすることばかり考えていた暗い思いからすっかり抜け出す事ができたと書いていた。それは海が血液となって自分の身体を今もずっとめぐっているという気付きだった。久保は読書を通じて、地球との繋がりを取り戻すことが出来た。SEAは、ソーシャリー・エンゲイジド・アートであり、社会実践であり、親鸞であり、仏教であり、海であり、それらがごちゃ混ぜになってわれらをめぐっている。そしてSEAに流れ込む川の源流には河童が棲んでいる、それを展示で表現したかった。なお、久保覚の遺稿となったのが《本の花束》(生活クラブ生協連絡会発行)に掲載されたローザ・ルクセンブルクの『ロシア革命論』(論創社)への書評「二一世紀への投瓶通信 上」(未完)であった。レイチェル・カーソンの海で幕が開き、ローザ・ルクセンブルクの投瓶通信で幕を閉じた久保覚の読書人生だった。
表現としてのリサーチ
川は地域を知るための、またとない教材らしい。川と付き合いながら、現場で学んだ人たちがいる。『柳川掘割物語』の主役とも言える柳川市役所職員の広松伝もそうだし、筑後川の伝統的な治水技術を学び、その技術を応用してアフガニスタンに用水路を掘った中村哲医師も同じく現場で学んでいる。広松は講演で「大切な事は、現場が全部教えてくれる」と言っている。
中村哲と広松伝、この二人に共通する事は、現場に立つ事、そして徹底的にリサーチをする事だ。この系譜の源流には田中正造がいる。田中正造は足尾鉱毒事件に際して、渡瀬川のリサーチを死の直前まで続けた。この人たちには共通して河童の面影がある。河童は権力や、近代化に反抗するエネルギーを持つ。田中正造と同郷の栃木県出身で、公害問題研究家の宇井純の『キミよ歩いて考えろ』は、小中学生にも読める内容になっていて、河童の入門書としておすすめする。『検証 ふるさとの水』(宇井純)の中には、税金を無駄使いしない市民参加型の水質検査の方法が書いてあるとして、森下郁子著『川の健康診断』(NHKブックス)が紹介されている。
余談ではあるが、その森下の自伝的著書『川の話をしながら』には、育児中の森下が現役の小児科医だった頃の松田道雄に、自分の子どもを診断してもらった際の様子が二箇所出てくる。松田の診察の後で、森下の不安が解消されていて、松田がとても丁寧に子どもを診察していた様子を伺い知る事ができる。
子ども風土記〜爆発する地域リサーチ
「子ども風土記」とは、社会科の地域調べ学習と、国語の生活綴り方が一緒になった感じの本である。『窪川子ども風土記』は文理閣という京都市に拠点を置く出版社から発刊されているが、文理閣版「子ども風土記」は1977年〜1980年にかけて刊行され、全部で4冊あり、その内3冊は京都府下での調査をまとめたものだ。窪川だけが例外的に高知県下での調査記録なのだが、ここで取り上げられている4つの地域の共通点として、地域の社会運動が盛んである事が『学校で地域を紡ぐー北白川こども風土記』からー』の中の、コラム「敗北の「こども風土記」」(福島幸宏著)の中で指摘されている。
文理閣版「子ども風土記」は、今田保という編集者がその仕掛け人で、「低成長期の地域変容と社会運動にある意味直接結びついた内容であった」ことが、著者の福島によって指摘されている。今田保の計画では、全国規模の「子ども風土記」刊行会を構想し、この他にも「沖縄軍事基地」「神戸大震災」「アイヌ」などをテーマに検討していたという史実を福島は掘り起こしている。この文理閣版「子ども風土記」に可能性を感じる。もっと言えば、「敗北の文化史」全般に対して可能性を感じる。可能性とは未来が存在するかもしれない方向のことだと思う。現代のわたしたちの消費社会は未来が存在しない方向に進んでいるため地球が温暖化したり、気候変動という形で不可能性のランプが真っ赤に点灯している。
成長経済以外の全ての経済のバリエーションも敗北の二文字の中には潜んでるが、しかし、この敗北の文化たちは真面目で地味だった。だから『柳川掘割物語』と同じく、ヒットしなかったが、「ヒットしない=敗北」ではないのかもしれない。これはアフガニスタンで用水路を掘った中村哲医師が語った「誰も行かないところで、誰もやらない事をやる」というポリシーとも関わっている気がする。そこではヒットとは真逆のベクトルで、命の世界を見事に切り開いてみせてくれている。京都市のように観光地としてヒットしなくても、逆観光地として廃村の危機にある過疎地においても創造性を爆発させることができるという事を奥丹後地方やイタリア北部での教育実践記録は示してくれている。
子ども風土記は地域でリサーチが爆発したときに誕生した一冊の星だ。リサーチの過程で発散され続ける子どもたちの好奇心こそが未来の社会へわたしたちを運ぶエネルギーなのだ。
学校図書館
調べ学習を行う際に、是非とも必要なのが学校図書館である。戦後日本の教育にとって、学校図書館とはどういう場所であったのか。平凡社の児童百科事典で調べてみよう。
学校図書館の運営や研究に、情熱と人生を捧げた人がいる(京都市中京区出身の塩見昇は学校図書館研究の権威である)。
「松田道雄論のための走り書」(『図書館という軌跡』に収録)という文章も書いている東條文規は、地方の私立大学の図書館員として現場から数多くの論考を行い、書籍として出版もされている。
『読書と教育〜戦中派ライブラリアン・棚町知彌の軌跡』の棚町知彌は、高専の国語教師でありながら、学校図書館の運営に積極的に関わり図書係を務めた。高専には大学受験が無いため、その時間を読書に充てることが出来るとして、高専における図書館の重要性を指摘している。
展示が終わって
展示終了後の2023年12月3日に絵描きの奥誠之と、画家の高田マルのトークイベント、「絵の話を書くこと、聞くこと、話すこと―『ドゥーリアの舟』と『忘れられない絵の話』を読み比べる(@恵文社一乗寺店COTTAGE)を聴講した。奥の著書『ドゥーリアの舟』は「朗読」に適している気がして、朗読ワークショップの最中に思い出した本だ。
読書会とWSを通して、様々な種類のテキストの朗読を試みたが、その中で特に朗読に適してると著者が感じたものは殆どなかった。その中で唯一、奥の『ドゥーリアの舟』はWS参加者にも非常に好評で、そこには朗読することの手応えの様なものがあった。まず奥の文章が急いでいない。だからだろう、人が絵を書くときに、流れている時間が、朗読によって再現される感覚があった。朗読をする事で絵を書くときの時間性が、場の中に立ち現れる感じだ。気のせいかもしれないが、なんとなくそう感じた。
『ドゥーリアの舟』の中に、「絵は循環していく」という文章がある。赤松俊子(丸木俊)と丸木位里が共同で製作した「原爆の図」の巡回展に関して書かれた非常に味わい深い文章だ。
その「絵は循環していく」の最後に、「制作から展示に至るまで、他者との関係をその都度反映させていく丸木夫妻の活動には、「作品が観る人の心を動かし、その人がまた作品や作者を動かしていく」という理想的な循環関係があるのではないか。」という指摘がされている。
京都市にある、かもがわ出版は保育関連の書籍もたくさん出版しているが、そのかもがわ出版から、二冊のブックリストが出版されている。
①『きみには関係ないことか〜戦争と平和を考えるブックリスト‘90~96’』
②『1800冊の「戦争」〜子どもの本を検証する』
②は①の続編に当たるが、その〈編集後記〉を抜粋したい。
奥が書いた「作品が観る人の心を動かし、その人がまた作品や作者を動かしていく」という理想的な循環の軌跡が、別の本の中で、市民運動の連鎖の記録として、確かに記録されていた。
次に紹介するのは、奥から教えてもらった、シカゴのラッパー“NoName”の話。
ベトナム戦争の頃にマービン・ゲイがリリースした「ホワッツ・ゴーイング・オン」という不朽の名盤がある。タイトルは「一体何が起こっているんだ」という意味だ。今の世相にも通じる社会状況だったことを感じるタイトルだ。著者も最近よく思う「ワッツゴーイングオン」。それに対してノーネームが示しているのが、きっと図書館なのだ。
日本国内での安保闘争が湧き立っていた頃の話。日本の公共図書館が大きく改革された際にその精神的な支柱となった有山崧(日本図書館協会事務局長、日野市長)が、安保闘争に参加しているデモ隊の中の多くの人が、安保が何かをちゃんと理解していない事を問題視して、「図書館は何をするところか」という文章の中でその事を指摘していた。
知らない事を調べる、ちゃんと知るという事は、そんなに小さな事ではなくて、実は結構大事な、いやいや、絶対的に大事な事なんだという話になっていた。上に掲載した動画「20221105 有山至さん「親父を語る」」は、広告は多いがわかりやすい話で大変勉強になる。例の安保の話も出てくる。
著者が今回のリサーチ期間中に京都市内の公共図書館で何度か想像したのは「みんな黙って調べ物をしていて言葉も交わさず別々のことを調べている様な気もするけど、もしかしたら実は同じ目標のために、それぞれの角度からリサーチを行っている仲間なのかもしれない」ということだった。
自説「表現の民主主義」の主張
さて、いよいよ本題に入る。著者の執着の対象「表現」である。近代化以前の地域社会の中では、日常生活の中で盛んに労働歌、わらべ歌などの「歌」が歌われていた。江戸時代に、外国からきた誰だったかが日本人は労働するよりも、労働歌の方を良く歌っていると本に書いていたのを読んだ。人にはこの歌いたい気持ち、表現したい気持ちが今も潜在的にずっとあるはずだ。それは民衆の無形の財産で、どんな時も誰にも奪われることのない宝物だった。年貢をたくさん取られて苦しい時にでも、歌は自分たちのモノとして暮らしの中に必ずあった。アメリカでも、入植してきた白人に土地を奪われたチェロキー族がアメイジング・グレイスを歌いながら、「死の行進」と呼ばれる長い過酷な旅路を耐えた。歌の力によって人は自らを励ましここまで生き延びてきた。しかし、近代化以降、労働と労働環境の変化によって、生活の中で民衆自身が表現をする機会が大きく喪失された。その一方で義務教育の「予め表現を喪失させられた授業」に、子どもたちの膨大な時間が当てられる事になる。近代化による表現の機会の喪失は慢性化しているため、最初から元々そうであったかの様に、我々自身によって錯覚され、不問にされてはいるが、実際はこれは非常に深刻な社会問題だ。民主主義において、最も重要なのは、様々な場の中で私たち自身が民主主義を表現する事だ。これは花が花であるのは花が咲いてるからというバカみたいな理屈だけど、案外このバカな理屈を人は見失う。
我々が陥っているのは表現の慢性便秘だ。そして、これが生涯に渡って続くケースが膨大に存在する。死してなお表現を奪われているのが我々現代人である。この表現の便は固形物ではないので、人体に直接的な影響はないが、人格および性格に著しく歪みを生じさせる。おかしいじゃないかと、岡本太郎は言っている。自分は分業に反対で人類学を学んだと。表現や文化における分業化のせいで、歌が下手だったら、声が悪かったら歌っちゃいけない、容姿がまずけりゃ踊っちゃいけない、美人しか演じちゃいけないっていう世の中になってる、それに反対だと。人類学を学んで、そうじゃない社会を研究したかった。太郎にとって絵はその点良かった。下手なら下手なほど褒められるような風潮があるから。という事を講演録「芸術と人生」の中で語っている(太郎は分業化の起源を農耕文化の始まりに置く)。芸術は爆発だ!っていうのはそういう事だ。あなたの表現の慢性便秘に浣腸を施して社会にぶちまけろと言っている。わたしの芸術が爆発してるっていうんじゃなくて、君たちの芸術を爆発させろという話だ。どんな錬金術を使ったとしても誰かの便が、自分の便になる事はない。自分の排便を誰かに肩代わりしてもらうことは不可能だ。専門業者に表現を丸投げして高いお金を払って喜んで鑑賞しているのでは倒錯している。自分の歌は自分で歌わなきゃいけないし、ダンスでも、絵でも、政治でもなんでもそうだ。自分の命は自分で生きなきゃ始まらない。生活者だって演説すればいい。それが民主主義だ。私はこの世界をこういう世界にしたいです。と路上に出て語ればいい。だけどそれがなんだかやりにくい。自分だけ悪目立ちしたくない。
これまでの民主主義は、花が咲くことが求められていない民主主義だった。民主主義とは全ての人が民主主義を表現をする事に他ならない。全ての人が表現する、それが民主主義の根幹だ。それを今まで私たちは人間のまま素直に主張する事ができなかった。絵が下手だから、服がダサいから、センスがないから、性格が悪いから、コミュ障だから、才能がないから、お金がないから、バカだから。劣等感に苛まれて、私たちの民主主義は妨げられてきた。そんな時私たちは妖怪になった。だからいつも妖怪たちは変な格好をして、変な声で話し、変な踊りを踊って、クレーマーとなり、レイシストになり、人間を困らせてきた。妖怪は私たちの屈折した表現の発露のスタイルであると同時に、私たちが民主主義を希求する時の姿でもある。妖怪はこれまでアナーキーな印象を世間に与えてきた。山姥は森のアナーキストであり、河童は川のアナーキストであると言った具合に。我々は今回、河童を取り上げた。いや、河童に取り上げられた。人間だけの文化に、河童が介入する事で、民主主義の本願に迫りたいと願った。
始まりは九州、柳川の堀割、筑後川、有明海だ。その水の流れを関西に引き込んでいくイメージをした。導入として、琵琶湖、淀川水系に関する文献調査を環境配慮時代の国際憲法ともいえるSDGsの枠組みを通して行おうとしたが、残念、そこまでは辿り着けなかった。
二つの企画(未遂)その①〜松田道雄極小移動記念館(Michio Matuda Micro Mobile Memorial Museum(M6・エムロク))の構想。
企画倒れという言葉が示すように、とかく企画というものは倒れやすいものだ。今回もいくつかの企画が倒れた。それをここに紹介する事で、未来への投機を行う。
今回のリサーチでは小児科医の松田道雄と、図書館員の前川恒雄を同じ日に認識したので、その後しばらく二人の名前がごっちゃになった。その頃、リサーチ成果を「松田道雄記念館」として京都芸術センターに常設してもらう事を考えていた。記念館構想について文化人類学者のSにメールで相談した際に「完成形ではなくongoingな「記念館」、記念という意味を変えてしまうような記念館」という提案をもらった。そのSのアイデアを企画アドバイザーのアサダワタルに伝えながら、前川恒雄の『移動図書館ひまわり号』の話などをしていたところ、アサダから「松田道雄移動記念館」を作ったら良いんじゃないか?というアイデアが出た。素晴らしいアイデアの流れだ。Sと前川のアイデアが、アサダのアイデアを誘発し、アイデアの連鎖反応が起こった。そしてわたしたちはアイデアのわらしべ長者になった。誰かのアイデアが、共有の資源のように循環した瞬間が生まれたのが嬉しかった。松田道雄モバイル・メモリアム・ミュージアムに、「マイクロ」を付けてMを6つ並べたら、CCCと「頭文字が同じシリーズ」になる事にも気がついた。「文化施設を小型化させ移動式にする事で、文化施設が来館者を待ち構えるのではなく、こちらから出向いていく事を可能にします、として小児科医であった松田を記念し、小児科医の「往診」「訪問診療」をモデルに松田道雄記念館を構想した。また「わらしべキュレーションシステム」を導入する事で、資料数や展示物のボリュームに頼らない、出会いによってデザインされていく記念館を目指す。「施設」を「ネットワーク」へと原点回帰させるための試み」というステートメントも作文した。
段ボール箱一箱の極小移動記念館を構想したが、実施には至らなかった。この松田道雄移動記念館のアイデアは未来永劫著作権フリーなので、誰でも無許可で、何時でも実施可能だ。
二つの企画(未遂)その②〜「生活のための世界平和(World Peace For Life)」の構想。
戦争状態では、敵国同士になった国民同士が、敵国の人間の死を願い、敵国の都市の壊滅を願い、お互いに殺害し合う状況に陥ってしまうが、その状況を平和状態の日常生活の中から想像するのは、想像力が欠落している著者には難しい。そこで今回のCCCでは、「生活のための世界平和」という企画を考えた。世界平和の実現は、人類最大の理想である。一方で戦争に傾斜する社会において、平和を主張する事は危険思想と捉えられる場合がある。戦時中に兵役拒否を貫いた平和主義者の多くは殺されている。戦時中に敵国を憎悪せず、平和を主張するものは、他国の侵略を許す危険を生む恐れがあるから処罰するのは当然という話になる。平和は戦争に比べて圧倒的に安全だと考えられるのは言論の自由が保証されている環境の中でだけの事だ。松田はその事を骨身に染みて知っていた。現在の言論の自由が保証されているはずの日本国内の状況の中においても、ものが言えない、言いにくい現状がある。松田道雄はこの状況を予測し、そのためにも、ものを書いた人だった様に思う。国同士が戦争を行う中でも、人間たちは生活を行い、育児をする。戦争状態でも、平和状態でも、生活の必要は変わらない。人間は戦争を行う社会的存在である以前に、育児を行う生命だ。どの国の命も生活も等しく守られなければならない。松田は戦争に対置させる様に育児を探究し、そこから平和の担い手である市民が育つ事に期待をかけた。
松田の活動拠点だった京都市は、世界中から観光客が訪れる観光都市であり、現在も世界中からたくさんの観光客が京都を訪れて観光を楽しんでいる。どの国からきた人も、自分たちの故郷での生活を大事に思っているはずだ。観光客には主に観光を通しての消費活動が期待されているが、この企画では平和運動の担い手として観光客に活躍してもらう。まず、河童を平和の象徴として紹介する。日本国憲法の実践者である中村哲医師は世界的に尊敬されている偉人だが、その伯父、火野葦平の著書『河童曼陀羅』には、葦平の依頼に応える形で、様々な文化人による河童のイラストが豊富に添えられている。この「河童曼陀羅」をTシャツによって都市に再現する。京都芸術センターでの展示会場にシルクスクリーン工房を併設し、河童のプリントを観光客が自ら行える様にする。プリントするのは「河童」ともう一つ、各国の言語に翻訳したキャチコピー「生活のための世界平和」だ。Tシャツの背中にはQRコードがプリントされていて、そこからこの世界平和プロジェクトの趣旨や、京都芸術センターへのアクセス方法を知る事ができる。河童のイラストは、各国のアーティストや漫画家に依頼して書いてもらう。観光客がTシャツを着て京都市内を移動する事で、観光がアートパフォーマンスになり、観光地が世界平和実現のためのアートフェスティバルの会場になる。京都市内の映画館では「世界平和と世界軍縮映画祭」も開催したい。京都国際漫画ミュージアムで世界中の漫画家による河童イラスト展も開催しよう。河童の神通力で平和を産業化するのだ。観光客が観光地を移動するたびに平和運動が拡散される。同時に、故郷にそのTシャツを着て帰ってくれたら、日本人が世界平和を望んでる事を知ってもらえる。お土産としては日本が世界に誇る平和憲法の各国語訳を持ち帰って頂く。真のクールジャパンとしての日本国憲法だ。世界中の憲法が平和憲法に改訂されるきっかけを観光都市京都からつくる。日本国憲法を改正するのではなく、日本国憲法が世界の憲法を改正するのだ。観光ではなく世界平和の聖地巡礼として、世界中の市民が京都を訪れる。世界中で戦争が廃止され、世界中の軍事費、防衛費が不要となり、社会福祉にその予算が回され、世界中の市民生活が自由で豊かになる。
この企画も企画倒れに終わった。企画者にはこの企画を遂行する自信もエネルギーもなかった。よって未来に投機するためにここに書き残す。未来永劫著作権フリーで、発案者は河童であり、実施するのは世界中の市民である。
結語=暮らしてみたい理想の社会像
いろいろリサーチを行ったが、最初から言いたいことはぼんやり決まっていた。だから結論じゃない。いろいろリサーチをした後に、こういうこと書いてみたらどうだろうって、前からずっとモヤモヤしていた話をこれから書く。
オウムサリン事件とか、9.11とか、3.11とか、大きな出来事を契機にして、社会が理想的な方向へ大きく変わると思ったけど、変わらなかった。むしろ悪くなった。京都議定書とか国際会議で締結した約束も結局果たされない。最近は虐殺や戦争がどんどん起こっているし、夏はとにかく年々暑くなるし、水資源が枯渇してる国も沢山あるらしいけど、こんなに戦争が起こっていたんじゃ国際的な話し合いで、「競争と成長経済に終止符を打つ」なんて不可能だ。
「新しい戦前」とはタモリ2022年12月28日放送徹子の部屋での発言だ。「本当にほしいものは平和。いらないものは戦争。」これは黒柳徹子2024年3月22日NHK『あさいち』での発言だ。
消費税にもインボイス制度にも防衛費増額にも反対だが、そもそも何事も詳しくわかっていない。中田敦彦のYouTube大学も見ていない。モヤモヤしている間に戦争がまた近づく。しかし、人類の叡智の集結という希望も諦めたくない。でも、他力本願じゃ何も起こらない。3.11がそのタイミングだと思ったけど、そうはならなかった。だから展示で叡智を集結させた。本は叡智の塊だ。中二病と馬鹿にされる可能性を濃厚に秘めた発想だと自分でもわかる。だがやるしかない。とにかく書く。
ミヒャエル・エンデが発起人になって政治家、演劇人、作家の3人が合宿して世界の根本問題について語り合った記録『オリーブの森で語り合う』という本がある。その本で、エンデがドイツの経済人の会議に招聘された際のエピソードが語られる。成長経済は無理だ。自然を騙して、騙し騙し搾取していっても、必ず限界がくる。だから、ここでは自分が暮らしてみたいと思う理想の社会像を、一人一人が語ってみよう。そうすることで、初めて目指すべき社会がわかる。だけど、その時、経済人は誰も発言をしなかった。残念。その会議の続きを見てみたかった。そのモヤモヤをぶちまけたくてエンデが企画した合宿だったんだろう。その中でうろ覚えで悪いんだけどエンデが言っていたのが政治は文化の下部組織であるべきだという様なことを言っていた。これがすごく良いんじゃないかと思った。文化の一部に政治がなる。エンデのこのアイデアには未来の方向が感じられた。
または社会を動かす力を政治家ではなくて、動物とか植物とか赤ちゃんとか保育士さんとか子どもとかお母さんとかお医者さんとか地球とか、命のことを真剣にやっている存在に委ねる方法を考えたい。政治家はそのサポーターになれば良い。労働は積極的に学校の中から遊び感覚で楽しんで身につけて。卒業するまでに、衣食住のこと何でもできる様になって、何でも作れて、共同作業ができて、コミュニケーションが出来て、競争じゃなくて、優劣じゃなくて、一緒に働けることを互いに喜び合える。学校を卒業する時点で、自分の暮らす家とか、未来の子どもたちの学ぶ学校とか、劇場とか病院とか全部建ててて、そこに住めば良くて、社会の中にずっと生きていけるだけの生活環境としての貯金を学校にいる間に作っておける様にする。そこには畑もあって、基本的に生きていけるものは全部修学期間中に全部自分たちで作っておく。都市に一極集中して住むんじゃなくて、土地が余ってる場所に散らばってすむ。世界中で余ったものを交易するネットワークを作って、戦争はやめて、協力し合うために世界は存在するということにする。日本をソーシャリー・エンゲイジド・アートのプロジェクトとして考えて、世界平和の実現を掲げている日本国憲法をその正式なコンセプトと考えて、世界平和を実現させるためのチームとして日本を捉え直す。そのために公共図書館を活用して、調べて学んで、交換する。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(農民芸術概論綱要)と宮澤賢治が言っているので、賢治に倣って宣言したい。全地球人と世界平和プロジェクトを実施して、最終的には宇宙全体で幸せになりたい。
以上が、CCCの非公式レポートとなる。AMeeTに掲載予定の公式レポートの1万字に収まらず、削除した箇所を全部ここに詰め込んだ。敬称は全て省略させて頂いた。最後に、2023年11月18日のイベントで全文朗読した松田道雄の「日本人として」(『君たちの天分を生かそう』筑摩書房)からの抜粋と補足を幾つか紹介して、このレポートを終わる。
補足的付録
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