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森井勇佑監督「ルート29」を観る

監督のインタビューのどこかに黄泉の国とあったけれど、生きることと死ぬことが混ざり合っていると思うと、すんなりと受け止められる。というか、私たちが今居る場所も、生きることと死ぬことは混ざっているけれど。

この映画は、のり子とハルのロードムービーだ。

29号線を歩く二人は、目的地まで歩く最中で徐々に信頼関係を結んでいく。

のり子は、人と話すことが苦手だった。自分の気持ちはノートに書くし、お姉さんには「牛のように、ゆっくりとしている」と言われた。しかも、「人間に興味がない」とまで。

けれど、ハルと一緒に29号線を歩く中でいろんな人間と出会った。魚をくれた山のお父さん、傘をくれた牛舎のおじさん、大好きだと言ってくれたお姉さん。ハルは「とんぼ」と名前もつけてくれた。

ハルは対照的に、人間に対して、おおらかな信頼があった気がする。

山のお父さんと一緒にいた男の子と会話するところ。
具体的なセリフは思い出せないけれど、
「学校にはしばらく行っていないんだ。今行ったらさ、変な目で見られそうだよ。なぁ、本当に人間は滅亡するんかなぁ?ハルは人間が滅亡するの怖い?」
「僕は怖くない」
「そうかぁ。君みたいな子が、同じクラスにいたら楽しかっただろうなぁ」
人間がそこにいることに、絶望をしていない。

映画の終盤の、のり子がいなくなったハルを探すところ。道路に並べられた石を頼りに、長いショットでのり子が走るシーンは、とてもよかった。

このシーンを見れば、お姉さんが言った「牛のように」とか「人間に興味がない」といったことが、一気に覆される。

最後の海のシーンで「私は一人で平気だった。けれど、ハルがいなくなって、寂しかった」といったように、ハルと一緒にいたおかげで、人間に対しての信頼が回復したのだと思う。

でもそれはハルだけではなくて、ハルといたおかげで、いろんな第三者と出会えたことも大きいだろう(ハルがいなかったら、お母さんを思い出すこともなかったし、お姉さん自身も現実に誠実でいれないのだと知れなかった)。

のり子とハルの二人がいることで、第三者に向き合う物語でもある。

(余談ですが、月が赤くなって人々が立ち止まるところは、男の子がいっていた滅亡のようでしたね。あの世界線というか、あの心象風景というか、あれは人間の信頼を回復できなかった、どこかののり子なのかもしれません)

現実を生きているけれど、現実に誠実ではいれないことがある。現実からはぶれ、煙草をぷかぷかと吸い、私、死んでるのかなぁ(現実にはいないのかなぁ)と思う時もある。

けれど、現実に生きれないことが私だけではないと分かったとき、私と同じような夢を誰かも見ているとわかったとき(それは魚でも、砂漠でも、宇宙でも、学校でも)、私は私だけという囲いから抜け出し、人との信頼性を回復するのではないか?私しか見ていないということほど孤独なことはないし、同じ景色を見るほどに嬉しいことはない。

そして、「私はもう死んでいます」と言ったとき、誰かが笛を吹いて「それでもまた話したい」と答える。これほど、生きる力が湧くことはないのではないか。

「また話したい」はハルのセリフだけれど、
あなたはあなただけではない、あなたとまた話したい、と、この映画自体が私に語りかける気もするのだ。

ロードムービーのストーリー以外にも、個性豊かなキャラクターや、くすっと笑わせるところ、またBialystocksのmirrorもとてもよかった。意味がわからないところも、ただ見て楽しければいい。

そして、恐竜の爪でつくった時計の針。そのカチッ、カチッというリズム。これは、生きるリズム、心臓のリズム、明日を見ようと思えるリズムだと、このレビューを書きながら思ったのでした。

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