言語って不思議だ
英語を学習していて不思議に思うのが、決まった基本の型があって、
そこに「語(word)」を当てはめて表現を作れるようになっていること。
何が不思議かって?
誰かが文法を事前に設計して広めたわけではないみたいだからだ。
あくまでもコミュニケーションツールとして生活の中で言語が生み出され育まれ、今の形で使われるに至っているようなのだ。
日本語でも五段活用とか、
誰かが日本語を生み出した時に最初に設計していたのでは?
と思えるほどに法則が出来ている。
誰かが設計したのであれば、その設計思想、どのような意図でその文法(法則)を組み込んだのかの資料でも残されていないのだろうか、と思ったのだがなさそうである(軽く探した程度だが)。
日本の場合は、標準語を定めて普及させる時代があって今に至っているようだ。イギリス英語からアメリカ英語を生み出したとされる人もいるようだ。だが、そもそもベースとなる言葉はその前に在ったことを考えると、新たな法則が定められたとしてもどこまでが既存でどこからか新規なのか、それを追うのは難しいと感じる。
そこで、法則はどのように生み出されたのだろうか、と考えてみた。
まず、最初に言葉があった。ある時、その言葉を体系だてて教育できるようにしたいと考える。そこで、その時使われていた言葉が作られている仕組み(法則)を見つけ出し、場合によっては一部を作り替えまとめたものが、いろいろな所で作り出され、その中から教育の場で主流となったものが英語の品詞や5文型、日本語の五段活用といった法則ではないだろうか。その教育が始まった時から、人によって定まっていなかった表現の使い方が、矯正され定まっていった可能性も考えられる。
そうであれば、最初の言葉はどのように育まれてきたのだろうか。
おそらく誰もが共通にできることは、シンプルなイメージを持つこと。
そのシンプルさを共通認識できる表現として言葉ができたのではないだろうか。そこに至るまでには、誤解を生じさせずにコミュニケーションできるよう使いやすいよう、日々の生活の中で改善されてきたと思われる。基本となる表現方法はここである程度定まっているように思える。
仕事でも奥義でも、突き詰めた先に在るのはシンプルさであると思う(それを極意と言うのかな)。だから、時代を超え長い年月をかけて、よりシンプルになるように磨かれ、今のような矛盾が少ない一定の形が作り上げられたのではないだろうか(もしそうであれば、不思議で素晴らしい Wonderful!)。
その言葉から、法則が見出されて広まっていったとして、それでも生み出された法則には時代を超えるほどの絶対性はない。間違って使ったからといって犯罪者になって裁かれるなどの強制力がなかったと思うのだ。法則も日々の生活の中で使われ認められなければ、受け入れられていくものではない。
だからか、いろいろな法則ができてしまったのが、少々戸惑う状況を生んでいるように思えるが。
「人に学ばせるのは難しい。」
法則が出来ても、それを身につけるには、人それぞれに理解しやすい教わり方がある。ちょっと複雑な法則だと思えば、教えやすいように、いろいろな場所で、支障が出ない程度に少しアレンジして法則が作り直されたかもしれない。また、教わる前に強固に定まってしまった表現は、教育しても変えられず、独自の表現として残り、独自の法則として組み込まれたかもしれない。
いろいろな法則とは、つまり、いろいろな方言の法則のようなものだと思う。どこの方言かがわかり、お互いがそれを知っているのであれば全く問題は起きないかもしれないが、そう上手くはいかない。
それが私が戸惑う原因となっている。仕方がないことではあるけれども。
ただ、世界で長い時を経ても使われるほどの英語、様々な方言がありつつ他の地域とのコミュニケーションツールとしても使われ続けているのには、どこかにシンプルな何かがあるように思えるのだ。
シンプルさを追い求めて、何かが見えてくるのを楽しみにしながら学んでいる。
コンピュータに伝えるための「プログラミング言語」でも似たようなことがある(これにはさすがに言語の設計思想はあるだろうけど)。
ある1つのプログラミング言語を使っていて、プログラムで何かを実現するためにコンピュータに伝える書き方(表現)は幾通りかある。
目的に応じて書き方(表現)のルール(法則)はあり、法則によって類似表現の中からbetterな書き方を推奨するのだが、betterでなくても「正しく実現できたならOK」ということもある。
英語や日本語の「正しく伝わったならOK」のようなもので、言語というものはどんなものでも似ているのだなと感じている。