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言語学習について思うこと

英語学習を進めてきて常々感じていることは、
「一般的にそうだ」と言えるものは確かにあるが、
「言語には正解が無い」というものである。

そこで、私から見た言語の正解とは何だろうか、と考えてみた。
私は、
           言葉によって、相手と100%の意思疎通ができた状態
が正解だと思っていた。

例えば、相手の言葉に「一般的にそうだ」と思われる言葉が使われていたとしても、相手はその意味で使っていないかもしれない。

それは感性の違い、覚え違い、地域の方言のような感覚、…
理由はいろいろ考えられるが、だからこそ正解と言えるものがない。

付き合いが多少長くなれば相手が使っている意味を理解して解釈するようになるだろうし、もっと遠慮が無くなり余裕があるならば「使い方がおかしいよ」と相手に伝えることだろう。だがそれでも、今後訂正されるかは相手次第である。(この状況は自分が間違っている場合はそれに気付くタイミングでもある。いずれにしてもその場は相手の意味に合わせてその言葉を使いそうだ。そして感化されていく可能性も。)

では「一般的にそうだ」と言える意味が「定義される価値」は何だろうか。その定義された意味で使うならば、
           誤解なく相手に伝えられる「可能性が高い」
ことを知れることだと思う。
この「可能性が高い」も、誰かが判断したに過ぎないため辞書によって解釈の違いが現れるが。

そして現実に日本語であっても、辞書で定義された言葉が、その意味で使われない現状を嘆く言葉をよく聴く。(これは実際難しい問題だと思う。単なる誤りと見るか、時代の流れで今の正解なのか判断するタイミングが難しいと思う。現代用語辞典でない限りは、変えるにしても過去に使われていた意味も残す必要がありそうだ。)

このように、
           正解が無いのが言語というもの
ではないかと思うのだ。

だから、英語学習において、使いにくい英文法や語は、「支障が出ない範囲」で、自分なりに使いやすいように独自解釈しても、それほど問題にはならないのではないかと考えている。

私はこれまで、学生時代に日本語を学習し、さらに日常的に使うことで学び日本語を母国語として話しているが、使っている語のほとんどは、国語辞典の意味を確認して正しくその意味で使っているわけではない。日常で聞いて使って独自解釈して使い、そして「支障が出ていない」のが現状なのだ(実際には支障が出ているのかもしれないが気付いていない)。
私がこの記事で使った「支障が出ない」の言葉はこの意味である。

私がmasa英文法と称し、自分が使うための定義を独自解釈で進めるのは
           この「正解が無い」ことを拠り所としている。
           もちろん「支障が出ない、と私が思える範囲」で

そしてこの定義が、自分の中での「正解」でもあるのです。

…このように思えるまでに、ずいぶん長い時間がかかってしまいました
 根が理系だからか納得できる正解が欲しくなってしまうのです。



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