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今見直す2年前のロシアの写真
あれから2年たった。
このnoteを書く日が曇りで冬の寒さが感じられてきた。何故かその寒さとどんよりした曇りが2年前のロシアを思い出させた。ロシアの写真が収められているSSDを取り出し今の自分なら扱い切れるんじゃないかとリエディットしてみた。
難しかったどんよりした曇り空、白く飛ぶ空、それらを今の自分の力でもう一度掘り起こしてみた。
9月の暑い日に東京を発ち、日本より暑い砂漠の国ドーハを経由して、怖い怖いお姉さんに睨まれたパスポートチェックに20分かけ入国し、サンクトペテルブルクに降り立った。
それは今思えばコロナ禍が始まる5ヶ月前。運が良かったと言わざるを得なかった。妻のアニメコンペの上映会に参加というこの機会が、コロナ前最後の海外旅行だった。そのときの旅行記は既にまとめてあるので、今回はリエディットされた写真エッセイという形でお見せしていければと思う。
旅行記はこちら
サンクトペテルブルク
まず降り立ったのはサンクトペテルブルク。
帝政ロシアの首都とも言える街で、仮に東京をモスクワとするならば、京都のような立ち位置になる。バルト海を望む港湾都市で煌びやかな帝政時代のロシアを感じさせる街並みだ。実際美しくてまた訪れたい。
エルミタージュ美術館
再度訪れる機会があるのでればもう一度じっくりみて回りたい。
サンクトペテルブルクの街
帝政ロシアの時代から続くその街の建物は時代が移り変わってもその重々しさ、重厚感は変わらず続いていた。
雨は降りづづき、モスクワよりも北で海からの風もあるせいか風が冷たく、9月だというのに厳しい寒さだった。
コンスタンティン・シモノブ号
ここサンクトペテルブルクからモスクワまでお世話になる船。
部屋には備え付けの硬いベッドとセントラルヒーターで二人寝られる部屋になっていた。
血の上教会
ロシア皇帝が暗殺され亡くなった時に建てられた教会。
ロシア正教の本山ではないが荘厳で派手だった。壁画も美しく全ての壁が壁画に埋められていた。これほど豪華に作られた教会も、スターリンの時代にはジャガイモの上の教会と言われていた。
血の上教会の隣にある公園
ここで少し休憩していたが、この日は珍しく晴れていて木漏れ日がきらめき美しい公園だった。
サンクトペテルブルクを発つ日
どんどん曇っていく中、微かに見える夕焼けが美しく音楽がかけられ、汽笛が鳴り人は踊り船はサンクトペテルブルクを発ち、ネヴァ川を進む。
ロシアの田舎
電波が入らない、ただただ川の上を進むこの旅は、普通では訪れることができないロシアの田舎を突き進んでいた。
ネヴァ川を進んでいた
窓からの冷気で目が覚めた。この日の学びから次の日はマウンテンパーカーを窓のフレームに詰めて寝るようになった。
窓から見える景色は毎朝の楽しみだった。
この村はロシアのかつてあった村の形態を模して作られており、この地にいたかつての原住民の文化を伝えている。
キジ島
尾根がこの上で目が覚めた。
ロシアの運河旅行では最北端まで来た。
この日の朝は川ではなくオネガ湖という巨大な湖の上だった。
相変わらずどんよりとした空。
木造教会
釘を使わず建てられた木造協会が降りた人たちを迎える。玉ねぎのドームは白樺の樹皮を使って彩られており、銀色に輝いているようで美しい。
当時の土着信仰の地に移築されたそうで、帝都とは違うぬくもりのある壁画が飾られている。
豪農の家
バロック様式を機で再現しようとしたという豪農の家には小さなカラスのような鳥がお邪魔していた。彼らもこの北の地でこれから厳しい冬を越すのだろうと思いを馳せる。
氷河に引き裂かれたような湖に囲まれた草原だったキジ島。
日本ではまず見ることのない広い草原を見ることができ、ロシアの辺境の地の美しさを、空気を思い出として記憶に残すことができた。
ペトロザヴォーツク
ロシア連邦北部のカレリア共和国。
北の町といった感じで寂れた空気が、雰囲気が寂しさを感じさせる。
寄港してすぐさらにバスで北へ向かった。
ヴォドバド・キヴァチ
海外の野性味のある滝を初めてここでみた。日本の滝は細く長く華奢で美しいが、ここは豪快で、水も濁り強い力を感じる。
ただトイレがやばかった。外にまでやばかった…。
ペトロザヴォーツクの夕暮れ
ロシアの北端に位置する町だからか、日が沈むのが極端に遅かった。午後8時に差し掛かる時間の夕暮れは美しく、ここまで端っこにきたものかと感慨深くなった。船がすぐ出るので急いで乗り込む。
船の夕ご飯。
船のご飯は美味しかった。狭い部屋狭いトイレ兼シャワールームだったせいか、ご飯までもひどかったらしんどい。毎日ロシア料理が楽しめた。参加している人たちのロシア語の歓談が心地よい食堂だった。(何もわからないから余計に)
ただ彼らウォッカを飲み過ぎだと思う…。10杯を余裕で飲む。ポケットにもウォッカなおじいさんがいた。
ソ連の潜水艦
片田舎へきた。
ここは第二次世界大戦を生き抜いた潜水艦が展示されている。
1950年代のソ連の強さを体感した後は、田舎道を歩きすぐ船に戻る。
ロシア人のお爺さんたちは川へ飛び込んでいた。
船はモスクワを目指していた。
妻が思い出を残すようにパステルで絵を描き始めた。
キリルロ・ベロゼルスキー修道院
古の時代には最大の修道院、そして要塞だった。
ソ連の粛清の中を生き延び今は細々と続いている。
要塞兼修道院という性格からか、豪奢な雰囲気はなく重く重厚感が強かった。モスクワからも、サンクトペテルブルクからも遠く、電車でも来れないのでなかなか来れない貴重な場所。
もはや人のいない田舎道をバスは抜けて行った。寄港地周りは旅行客相手に賑わっていた。暴れるような雲が空を覆っている中、この地を発った。
ほとんどを船で過ごした日
珍しく晴れて太陽の光が暖かかった日。風は冷たいが貴重な日光を浴びようと、
たくさんの人が日光浴をしていた。
モスクワ州
首都モスクワ近郊まで船は進んだ。
モスクワ州とはいえ広いため半日かけて進むことになる。
筑波学園都市のような街だった。効率と研究のためだけに作られた街。
原子力研究を支える街で原子力のことをロシア語で聞かされる。
アジア圏の人は英語で言われても詳しくまでわからず、芸術系の人が多いためか興味をなくし模型を各々自由に見始めた。
数時間の滞在の後、一路モスクワへ向かう。
これまで田舎だったところが、一気に都会化した。
3Gにもならない電話がかろうじてつながる田舎から4Gがつながる都会。車が渋滞し、ヒールや革靴が闊歩する音。一気に時間が加速した。
圧倒的な広さの複線道路がモスクワの街を囲み、至る所で電飾が光る。眩さと進歩と経済が渦巻いていた。
帝政、共産主義、ペレストロイカ…、激動の時代をこの街は生きてきた。
有数の巨大都市を最後にこの国を発った。
ヨーロッパであるようでヨーロッパでない独自の文化を築いてきたロシア。
スモークサーモンやイクラなど日本にも馴染みのある食べ物や、ペリメニなど餃子に似た食べ物など、アジアを思わせるものもある。
隣の国でありながら情報は少なく、巨大で謎も多い。眉間に皺を寄せた人が多いけどそれは厳しい冬を乗り越えるためであって、心優しい人がほとんどだった。
日本に近い雰囲気を持ち合わせ、ヨーロッパの文化も入り混じるお隣さんな国。
ぜひ機会があればもう一度行きたい。
このnoteを始めたきっかけであるロシア旅行記はこちら
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