いつの日か気づいてくれることを願って
身体は痛みや傷というものをタイムカプセルのように保管する機能があります。
当時の自分では到底向き合うことが難しいものだとか、とにかく今この瞬間を生き延びるためだとか。
とにかく今の自分に扱えない問題を、未来の自分に託すようにしまい込んで無意識の海に沈めるんです。
小さい頃に家族から嫌なことを言われたとか、自分の好きなものを否定されることが多かったとか。
本当なら、自分の力で解決したいんだけど、そのためには「経済力」とか「知識や経験」が足りない時がある。
そういう「今の自分には変える力がないんだ」と感じてしまった時の絶望感はとても深く、強いものだと思います。
そんな強い負の感情を味わい続けるのはしんどいので、一時的に箱に詰めて無意識の海に沈めるんです。
いつの日か、今よりもっと大きくなって力がついた時、自分に強さや優しさが身についた時にようやくそれがやってくる。
大きくなった自分から見れば「一体なんだこれは」という話で、そういうものが「症状」として出ることがあります。
よく話を聞いて辿っていくと、過去にとても痛い経験をしていて、どうやら準備が整ったから思い出してもらうために「痛みや違和感」として表現するのだと。
そういうものがある場合実は今の人生に尾を引いていて、足に絡まる鎖のように、自身の進む道に影を落としてることも多いです。
進むほど壁や困難が待っていることがありますが、見方の問題だと思っていて、目的地に向かうまでにずっと直進してたらそら行き止まりもあるでしょうと。
だから右に左に、坂を登り下りして、途中休憩とか挟みながら行きたい場所に向かっていく。
走れば風が身体に当たるのと同じで、早く進むほど相応の「抵抗」というものは生まれる構造になってます。
だから身体の使い方という具合に「骨」だとか「仕組み」という話になるのかなと思ってます。
でも、自分にとってちょうどいいスピードというものがあるので、少し速度を落とし、景色を見ながら寄り道するくらいがちょうどいい人は、そうした方がきっと楽しめるのではないでしょうか?
辿り着く場所は同じでもその道中をどうするのかはきっと自由です。
ならばここで「個性」というやつを出してけばいいのかもしれません。
歩き方や身体の使い方は、生きていく上でより「シンプル」を体験できるものだと思います。
でも、今の環境や自分の習慣を変えるのは結構大変です。
最終的に「構造通り」に使えればいいし、できなくてもいいのかなと思ってます。
ただ、今の自分に納得できていれば、多少不恰好でもいいのかなと僕は思います。
生き方全てが身体に出るとは言っても、その生き方が悪いかどうかは別です。
大事なものを守るためにそうせざるを得なかったかもしれない。
当時は知識がなくて、それしか選択肢がなかったかもしれない。
今でこそ当時が間違いだったと思っても、当時はそれがベストだったのかもしれない。
善悪というのは「平均値」だと思うので、人が増えた分だけ意見が増えるし減ったら減るしという感じではないでしょうか?
人は変化していくものなので善悪の基準というのも、修学旅行の宿泊部屋みたいな感じで、朝起きたら誰の布団かわかんなくなってるくらいのもんじゃないでしょうか。
階段の手すりみたいな感じで何か基準がないと不安なのはわかります。
そこを入り口に、どんどん枠を広げて土台を作るのは大切です。
なんだか話がとっ散らかっていますが、なんというかまぁ、そういうことです。
どんな痛みを抱えても、どんな傷を受けても。
それを消化しようが昇華させようが重要じゃないです。
今何を感じていて、どんな風に生きているのか。
そしてどうなって行きたくて、そのために何ができるのか。
僕も常に見つけてはまた次という感じでどんどん変わっていってますが、変わらないのは「気づけると嬉しい」ということです。
今できなくても明日にはわからない。
今日わからなくてもいつの日かわかる時が来るかもしれない。
それが生きている間かどうかはわかりませんが、それはそれでいいんだろうなと思います。
今抱えている痛みや傷は準備ができたから来ているんだと思います。
よし頑張るぞでもいいし、なんだよふざけんなでもいいと思います。
身体は「タイミングがきた」から表現しているだけで最終的な判断は自分の意識に委ねられます。
なのであまり肩肘張らずに観察してもらえるといいなって僕は思います。