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「秋といえば読書、そしてバーボンとスルメ」

 私は本を読むのが嫌いだった。特に読む速度が遅かったので、小学校の音読の時間はいつも先生に指されないように、首をすくめていた。

 さらに勉強が好きではなかった。当然の結果として、高校卒業と同時に浪人が確定した。そんな私が読書にはまったのはまさにこの浪人時代であった。

 当たり前のことだが、浪人したからといって勉強が得意になるわけではない。できることなら早くこの拷問のような時間から解放されたいと思っていた。

 偶然にもその抑圧への小さな抵抗が、読書の道へといざなったのである。さらに読書も勉強の一環という手前勝手な解釈が、異次元世界への扉を解放した。

 当時は三浦綾子や有吉佐和子、太宰治や坂口安吾、村上龍や筒井康隆などジャンルを問わずに片っ端から読み漁った。そして最終的にはロシア文学の最高峰、ドフトエフスキーの「罪と罰」を読み「我、天才を理解するに至った」という大いなる勘違い、自意識過剰の果てにたどり着いてしまったのである。

 これらの所業は明らかに受験勉強からの逃避であった。唯一勉強に専念することで存在が許された浪人という立場を顧みず、私は読書に耽っていたのだ。

 その結果、高校を卒業してから大学に入るまで2年という月日を要してしまった。これは自業自得であり、両親には多大なる迷惑をかけたことをここでお詫びしたい。(すみませんでした)

 そう、何故か秋になると30年以上前のこの浪人時代を思い出すのである。何者かになろうとして何者でもなかったあの頃。学生でもなく、社会人でもない曖昧な存在。

 そして私は大人でもないのに酒の味を覚えてしまった。酒を飲み、読書に耽り、純文学の甘美な世界に浸っていたのだ。

 中でも好きだったのは、太宰治の『人間失格』。この本の主人公の葉蔵(ようぞう)に私は惹かれた。

以下が大体のあらすじである。

 主人公の葉蔵は、人間が理解できなかった。そのため人と関わることが恐怖でしかなかった。そこで思いついたのが、本当の自分の気持ちを押し殺して「道化」を演じることであった。道化を演じているうちは、他者と問題なく接することができ、葉蔵自身も周囲から面白い子どもとして受け入れられた。

 だが中学に上がった頃から、周囲の人間は自分の道化に気付いているのではないかという疑惑に陥り、戦々恐々と日々を過ごすようになる。

 その恐怖から抜け出すために、葉蔵は酒と煙草と女に溺れ始める。精神状態は混乱を極め、ついには心中未遂や自殺未遂を幾度となく図る。

 一度は幸せな結婚をし、幸福を手に入れた葉蔵であったが、その女が出入りしていた商人に犯されたことをきっかけに再び葉蔵の精神は不安定に陥ってしまう。

 最後は迎えに来た引受人によって精神病院に収監される。そこで葉蔵は、「人間、失格」だと感じさせられるのであった。

 これが『人間失格』の大まかなあらすじだ。この作品の主人公に「コミュ障」だった自分を投影した。主人公に自分を重ね合わせるかのように、酒に溺れていったのである。

 あの頃はバーボンが好きだった。部屋の隅には生意気にもワイルドターキーを隠していた。夜が更けるとこのバーボンを引っ張り出し、読書という甘美な世界へと落ちて行った。

 毎年秋になると厭世的なあの頃を思い出す。夜な夜なバーボンをグラスに注ぎ、スルメを炙る。そう「バーボンとスルメ」がその時から変わらぬ読書のお供であった。

 スルメは口の中での滞在時間が長いので、あまり手を煩わさないのが良い。しかもバーボンの臭みと、スルメのほろ苦さが調和して絶妙なのだ。

 今宵も秋の夜長を愉しみたい。いつもの「バーボンとスルメ」で、またあの甘美な世界へと落ちていこう。


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