【読書録30】国家発展の礎は「人」~服部正也「ルワンダ中央銀行総裁日記」を読んで~
痛快な話である。著者の服部正也氏は、日本銀行に勤務していた46歳の時に、国際通貨基金からの要請によりルワンダ中央銀行の総裁として赴任する。
「46歳。今の私と同じ年の時である。」
ベルギーから独立して間もなく、当時の日本ではほぼ情報のない国の中央銀行総裁としての経験を「日記」として記録する。
ルワンダの生活での困難さをコミカルさも交えて描く「日記」としての描写も本書の魅力であるが、一方で、金融マンとしての経験を武器に描く「闘い」の記録でもある。
著者のルワンダでの功績
著者は全くのアウェー環境に、20年におよぶ日本銀行勤務で身に着けたマクロ経済運営の知識・ノウハウを武器に身一つで乗り込む。
当初5カ月の契約で通貨改革をミッションとして赴任であったが、大統領の信頼もあり、経済再建の主導的な役割も行い、その任期は6年におよぶ。
その功績について増補版の中で大西義久氏(セントラル短資株式会社代表取締役社長)はこう言う。
外国人コミュニティが言っていることをそのまま信用せず、現地に入り込み金融に関する知見をベースにファクトとロジックで一国の経済再生に取り組むハンズオンの姿勢は、痛快とした言いようがない。
大統領への進言
一番の場面は、大統領に通貨の切り下げ、経済再建について進言するところである。
通貨の切り下げが政治課題になっていたころ、いろいろな見解が飛び交う中、大統領から呼び出しがあり、通貨の切り下げについて意見を求められる。その著者と大統領の会話のシーンは、著者のプロフェショナルとしての真摯さを感じさせる。この時の会談により大統領からの信頼を得て経済再建計画の立案を任されることになる。著者が6年間ルワンダに滞在することになる分水嶺となる場面である。
通貨の切り下げについて、フランスや日本の事例をひきつつ、3つの教訓を述べる。
途上国の経済成長は、社会経済の仕組みに問題があるため遅くなることを日本や東南アジアの実情を用いて説明する。
このあたりの経済原則に則って、事例を引きつつ説明する手法は説得力あり、また生きた経済学として参考になる。
ルワンダにはルワンダの事情が
著者が、もろもろの改革を行うにあたっては、ランペール銀行、ルワンダ商業や国際通貨基金との交渉など見せ場となる場面も多いが、著者がルワンダ並びにルワンダ人を理解していく過程の記載が面白い。
ルワンダの外国人社会における評価では、ルワンダ人は、怠け者で外国人が居なければなにもできないというものであった。しかし著者が注意深く観察し、ルワンダ人と会話する中で見えてきたのは、ルワンダの外国人の質の低さであり、外国人が取り上げる事実が間違っているわけではないが、解釈がかなりねじ曲がっているというのもあった。
例えば、外国人顧問は、値段の高い米よりも綿花を植えよという。米は、国内消費に回るが、綿花は輸出で外貨が稼げるからとの理由で。それをルワンダ人農水大臣が渋っていることが、外国人社会では、農水大臣が綿花を植えることをサボタージュしているということで伝わる。
著者はそのような事実をルワンダ人との交流で知る。しかしルワンダ人は、植民地社会からの習性で、外国人の意見に反対意見を述べない。そこで著者は、会議の前にルワンダ人の意見を聞いて、意見集約するなどして、真にルワンダ経済にとり良いことを求めていく。
途上国発展の最大の要素は人
その後、経済再建計画も軌道にのり、著者は日本に帰任することになる。大統領も参加しての、外交団を招かずのルワンダ人のみでの送別会の描写は、感動的である。
大蔵大臣の送別の辞の一節が、著者の姿勢を表している。
著者は6年間を振り返りこう言う。
そして著書をこう締める。
ルワンダ人の農民や商人の自発的努力を動員することで経済再建計画を立て実行した著者の実感のこもった一言である。
冒頭で触れたように、著者がルワンダに赴任したのは私と同じ46歳の時である。とても私の同年代で成し遂げたこととは思えない。
著者の経歴を見ると、大学卒業後の海軍予備学生、その後、終戦を海軍大尉としてラバウルで迎えるなどの戦争体験が目を引く。
戦争体験などの過酷な体験が、このような肝の据わったことを成し遂げることにつながったのかなと推察した。
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